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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第44話 王都の毒が、雪の夜に戻る

 その夜、雪は音を消して降っていた。


 北西辺境補給砦の石壁も、見張り台も、厩舎の屋根も、すべてが白く沈んでいく。風は弱い。けれど、そのぶん寒さが深かった。空気そのものが凍りつき、吸い込むたびに肺の奥を細い針で撫でられるようだった。


 医務棟では、リシェルが最後の帳面を閉じようとしていた。


 香油の件。

 偽薬草の件。

 神殿調合部門の印。

 王都から向かっている不審な荷馬車。

 エドガーの到着。

 西の林縁村への警戒。


 書くことは多かった。


 多すぎるほどだった。


 だが、書かないわけにはいかない。


 王都の悪意は、美しい言葉をまとって来る。支援、祈り、善意、救済。そういう言葉の裏に隠されたものを暴くには、感情だけでは足りない。


 必要なのは、記録だ。


 誰が、いつ、何を持ち込み、誰がどんな症状を起こし、どこにどの印があったのか。


 それを積み上げることが、リシェルの戦い方だった。


「今日はもう終われ」


 奥からベルンの声がした。


 リシェルは筆を止める。


「あと少しだけです」


「その“あと少し”が長い」


「今日は本当に少しです」


「信用ならん」


 ベルンは毛布を肩に引っかけたまま、薬棚の前からこちらを睨んでいた。


 その顔はいつも通り不機嫌だが、どこか疲れている。ここ数日、聖女派からの物資確認や薬草講習、不審物の検分が続いている。老人の体にも負担はかかっているはずだった。


「先生こそ、休んでください」


「儂は年寄りだから勝手に休む」


「では私も勝手に」


「お前は勝手に倒れそうだから言っている」


 そう言われると返す言葉に困る。


 リシェルは小さく苦笑し、筆を置いた。


「分かりました。ここまでにします」


「最初からそうしろ」


 ベルンはそう言いながらも、薬草茶の入った器を机に置いた。


 ぶっきらぼうだが、温かい。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


 いつもの返事。


 リシェルは器を手に取り、湯気を吸い込んだ。青い薬草の香りが鼻に抜ける。聖女派の香油のような甘さはない。苦く、土に近く、けれど落ち着く匂いだった。


 その時だった。


 外で、鐘が鳴った。


 一つ。

 短く。

 それから、すぐにもう一つ。


 非常の合図ではない。


 だが、夜の砦で鳴るには不穏すぎる音だった。


 ベルンの顔つきが変わる。


「何だ」


 リシェルが立ち上がった瞬間、医務棟の扉が乱暴に開いた。


 飛び込んできたのはトーマスだった。


 顔が青い。


「リシェルさん、ベルン先生! 団長が……!」


 その声だけで、リシェルの胸が凍った。


「団長が、どうしたの」


「倒れました。西壁の巡回から戻った直後に、傷が……傷が開いたみたいに」


 器が机の上で小さく鳴った。


 こぼれた薬草茶が、紙の端を濡らす。


 リシェルはそれに構わず、薬箱を掴んだ。


「場所は」


「団長室です。ガレス副官が運んで」


「行きます」


 ベルンもすでに動いていた。


「トーマス、湯を持て。清潔な布も。強い鎮痛草と、熱冷ましの煎じを準備しろ」


「はい!」


 リシェルは医務棟を飛び出した。


 雪が頬に当たる。


 冷たい。


 けれど、そんなことを感じている余裕はなかった。


 アルヴェインが倒れた。


 古傷。


 王都の毒。


 聖女派の香油。


 そして、旧道から向かっていた不審な荷馬車。


 頭の中で、いくつもの点が一気に線になろうとしていた。


 団長室の前には、ガレスが立っていた。


 普段どれほど緊迫した場面でも顔色を変えない副官が、今は明らかに硬い表情をしていた。


「リシェル」


「状態は」


「意識はある。だが、熱が高い。傷が疼くどころじゃない。皮膚の下で何かが暴れているみたいだ」


 その表現に、リシェルは背筋を冷やした。


「何か持ち込まれましたか。香油、煙、薬草、香炉、燃やしたもの」


「団長室には入れていない。だが、西壁の巡回中、見張り小屋で暖を取った」


「見張り小屋?」


「ああ。薪が湿っていて、別の乾燥木片を使ったと言っていた」


 乾燥木片。


 リシェルの中で、嫌な予感が形を持った。


「その木片を押さえてください。灰も。誰も触らないように」


「もう兵を向かわせている」


 さすがに早い。


 リシェルは頷き、部屋へ入った。


 中は熱い。


 暖炉の火は落とされているのに、空気だけが妙に熱を持っている。


 寝台の上に、アルヴェインがいた。


 上着は脱がされ、脇腹の古傷に布が当てられている。額には汗が浮かび、呼吸は浅い。顔色は悪いのに、傷の周囲だけが赤黒く熱を持っていた。


 青い瞳は開いている。


 けれど、焦点が少し揺れていた。


「……来たか」


 声は低く、掠れていた。


 リシェルは寝台の横へ膝をついた。


「喋らないでください」


「命令か」


「医務担当としての指示です」


 そう返すと、彼は苦しげに、それでもわずかに口元を動かした。


「強くなったな」


「今それを言う場面ではありません」


「そうか」


 リシェルは布を外し、傷を確認した。


 息を呑みそうになる。


 傷口そのものが開いたわけではない。皮膚は裂けていない。だが、古傷の周囲に細い赤い筋が浮かんでいる。まるで体内に残っていた毒の糸が、熱を持って表面へ浮き上がってきたようだった。


 香油の時と似ている。


 ただし、こちらのほうがはるかに強い。


「ベルン先生」


 すぐ後ろに来たベルンが、傷を見て顔をしかめた。


「反応してるな」


「はい。外傷ではありません。残滓が刺激されています」


「煙か」


「おそらく」


 リシェルはアルヴェインの手首を取り、脈を見る。


 速い。

 乱れている。

 熱も高い。


「団長、匂いは感じますか」


「……甘い」


「花ですか」


「違う。焦げた……白い花の、灰」


 リシェルは唇を引き結んだ。


 白い花の灰。


 イアンが言っていた、花の匂いと喉の奥の苦さ。

 香油の奥にあった乾いた灰のような匂い。

 それが今、煙としてアルヴェインの古傷を刺激した。


 間違いない。


 これは同系統だ。


「処置します」


 リシェルは言った。


 自分へ言い聞かせるように。


「熱を下げて、刺激を抜きます。傷の周囲を冷やしすぎないように。血流を止めたら残滓が内側にこもります」


 ベルンが頷く。


「トーマス、湯。冷水じゃない、ぬるい布を作れ。香り抜きの草を煎じろ。強すぎる薬はまだ入れるな」


「はい!」


 ガレスが扉の外へ指示を飛ばす。


「見張り小屋の灰を封じろ! 木片に触るな! 使った薪も全部押さえろ!」


 部屋の外が一気に慌ただしくなる。


 だが、リシェルの耳には、アルヴェインの呼吸だけが大きく聞こえていた。


 浅い。


 速い。


 苦しそうだ。


「団長、私の声を聞いてください」


「聞いている」


「ここは砦です。団長室です。王都ではありません」


 アルヴェインの眉がわずかに動く。


「……王都」


「違います。ここは辺境です。あなたの砦です」


 彼の瞳が一瞬だけ揺れた。


 幻覚が来ている。


 リシェルは彼の手を握った。


 熱い。


 いつも剣を握っている硬い手が、今はひどく熱を持っている。


「呼吸を合わせてください。ゆっくり。私の声だけ聞いて」


「……リシェル」


「はい」


「離れるな」


 その言葉は、いつもの命令とは違った。


 低く、掠れて、ほとんど願いのようだった。


 胸の奥が強く震える。


 けれど、今は泣く場面ではない。


「離れません」


 リシェルは即答した。


「ここにいます。だから、意識を手放さないでください」


「……ああ」


「約束です」


「約束、か」


 アルヴェインの指が、わずかにリシェルの手を握り返した。


 その力は弱い。


 けれど、確かにあった。


 リシェルはその手を離さず、もう片方の手で薬を受け取った。


 夜は長かった。


 薬を飲ませ、汗を拭き、傷の周囲を温布で整え、香り抜きの草を焚かずに煎じて、湯気だけを薄く部屋へ流す。強い香りは逆に刺激になる。だから、ほとんど匂いのない草を使う。


 アルヴェインの熱は簡単には下がらなかった。


 時折、彼はうわ言のように王都の言葉を漏らした。


 「戻らない」

 「血で測るな」

 「俺は駒じゃない」


 そのたびに、リシェルは手を握り、声をかけた。


「ここです。辺境です」


「あなたは砦にいます」


「誰もあなたを王都へ戻していません」


「私はここにいます」


 何度も繰り返した。


 まるで自分自身にも言い聞かせるように。


 彼が見ているのは、過去の王都なのだろう。


 血筋で測られ、利用され、毒と呪を受けた場所。

 逃げたくても、完全には逃げられなかった場所。


 その傷が、今また雪の夜に戻ってきている。


 王都の毒が。


 祈りや支援という名を変えて。


 リシェルは怒りで手が震えそうになった。


 だが、その震えは薬瓶へ触れる前に止めた。


 怒りは後でいい。


 今は、この人を戻す。


「熱、少し下がったぞ」


 夜半過ぎ、ベルンが低く言った。


 リシェルはアルヴェインの額へ触れる。


 たしかに、さっきより少しだけ下がっている。脈の乱れも、わずかにましになった。


 でも油断はできない。


「傷の赤筋は」


「広がりは止まってる」


 ベルンは目を細めた。


「だが、完全には引いてない」


「はい」


「原因物が残ってるな」


 リシェルは頷いた。


「煙を吸っただけなら、ここまで長引かないかもしれません。衣服か髪に、微量に付着している可能性があります」


 ガレスがすぐに反応した。


「巡回時の外套は隔離している」


「手袋も、靴も、見張り小屋で使った布も確認を。あと、団長室へ運んだ時に触れた毛布も」


「分かった」


 ガレスは疲れを見せずに動いた。


 副官もまた、ずっと休んでいない。


 トーマスは何度も湯を運び、ベルンは薬を調整し続けている。医務棟の者だけではない。兵たちも、見張り小屋の灰や木片を封じ、村へ警告を出す準備をしている。


 砦全体が、アルヴェインを守るために動いていた。


 リシェルはそれを感じながら、胸の奥が熱くなった。


 彼は一人で背負っているように見える。

 でも、本当は一人ではない。


 この砦は、彼を必要としている。


 そしてリシェルも。


「……リシェル」


 寝台から声がした。


 リシェルはすぐに顔を寄せる。


「はい」


 アルヴェインの目はまだ熱に揺れていたが、少しだけ焦点が戻っていた。


「いるか」


「います」


「手」


「握っています」


「……ならいい」


 その言い方があまりにも素直で、胸が詰まりそうになった。


 普段の彼なら、絶対に言わない。


 痛みと熱で、余計な鎧が剥がれている。


 だからこそ、苦しい。


 リシェルは彼の手を少し強く握った。


「まだ離しません」


「……ずるいな」


 掠れた声で、彼は言った。


「それは私の台詞です」


 思わず返すと、アルヴェインはほんのわずかに口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 それだけで、リシェルは少しだけ救われた。


 明け方前、ガレスが戻ってきた。


 手には布で封じられた小さな木片と、灰の入った容器。


「見張り小屋から出た。普段の薪とは別に、これが混じっていた」


 リシェルは布越しに匂いを確かめた。


 ほとんど匂わない。


 だが、湿らせた布にほんの少し触れさせて温めると、奥から薄い甘さと灰の匂いが立った。


 香油と同じ底の匂い。


 さらに、白百合とは違う、乾いた薬草のような刺激。


「これです」


 リシェルは言った。


「火に入れると、薄い煙が出る。直接毒ではなく、団長の古傷に残る毒性調合を刺激する誘引成分です」


 ベルンが木片を睨んだ。


「普通の兵なら、少し気分が悪くなる程度か」


「おそらく。でも、団長には強く出る」


 ガレスの顔が険しくなる。


「狙い撃ちか」


「はい」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が冷えた。


 ただの支援物資ではない。

 ただの香油でもない。

 ただの偶然でもない。


 アルヴェインの古傷を知る者が、その反応を利用した。


 王都の毒が、雪の夜に戻ってきたのだ。


「商人風の荷馬車は」


 リシェルが問うと、ガレスは低く答えた。


「西の林縁村へ入る前に、見張りが追った。馬車は捨てられていた。人は逃げたが、荷の一部は押さえた」


「同じ木片が?」


「あった」


 やはり。


 リシェルは目を閉じた。


 ミラの村を経由して、砦へ入れるつもりだったのか。

 あるいは、見張り小屋で使われる薪に紛れ込ませるために、すでに別経路で入っていたのか。


 どちらにせよ、手は近くまで届いていた。


「瓶底の印と同じものは」


「木箱の底にあった。白百合ではない。三つの滴と細い杖」


 神殿調合部門の印。


 リシェルは、アルヴェインの手を握ったまま、静かに言った。


「香油と同系統です。聖女派支援物資の香油、神殿調合印、今回の木片。全部、同じ線上にあります」


 ベルンが頷く。


「これで偶然とは言えんな」


「はい」


 ガレスは拳を握った。


「王都へ正式抗議だ」


「その前に、団長を安定させます」


 リシェルはきっぱりと言った。


「報告はそれからです」


 ガレスは一瞬だけ彼女を見て、それから深く頷いた。


「分かった」


 夜明けが近づく頃、アルヴェインの呼吸はようやく落ち着き始めた。


 熱はまだある。

 傷の赤筋も完全には消えていない。

 だが、山は越えた。


 リシェルは寝台の横に座ったまま、彼の手を握っていた。


 指先が少し冷えている。


 けれど、先ほどまでの焼けるような熱は薄れていた。


 アルヴェインが薄く目を開ける。


「……朝か」


「まだ少し前です」


「倒れたか」


「はい」


「情けないな」


「情けなくありません」


 即座に返した。


「狙われたんです。あなたが弱かったわけではありません」


 アルヴェインは、ぼんやりとリシェルを見た。


「怒っているのか」


「怒っています」


「俺に?」


「王都にです」


 そう答えると、彼は少しだけ目を細めた。


「なら、いい」


「よくありません」


 リシェルの声が少し震えた。


 自分でも気づいた。


 ずっと抑えていた感情が、夜明け前の静けさで少し緩んでしまったのだ。


「本当に、よくありません。祈りとか、支援とか、善意とか、そんな綺麗な言葉で人の傷を狙うなんて」


 言いながら、喉が詰まる。


「あなたの古傷を、そんなふうに利用するなんて」


 アルヴェインは黙っていた。


 そして、弱い力でリシェルの手を握り返した。


「リシェル」


「はい」


「離れなかったな」


 その言葉で、涙が出そうになった。


 けれど、こらえた。


「約束しましたから」


「そうか」


「はい」


「なら、次も頼む」


 あまりにも当然のように言うから、リシェルは少しだけ息を詰めた。


「次があっては困ります」


「それでも、あるかもしれない」


 彼の声は弱いが、現実を見ていた。


「その時も、離れるな」


 命令ではなかった。


 やはり、願いだった。


 リシェルは深く息を吸い、静かに頷く。


「離れません」


 アルヴェインは、それを聞いて目を閉じた。


 今度は苦痛ではなく、眠りへ落ちるように。


 リシェルはしばらく、その手を離さなかった。


 朝日が雲の向こうで白く広がる頃、リシェルはようやく記録を書き始めた。


 手は少し震えていた。


 それでも、書いた。


 西壁見張り小屋で使用された不審な乾燥木片。

 燃焼により発生した薄い煙。

 アルヴェインの古傷に急激な反応。

 発熱、脈の乱れ、幻覚、赤筋。

 香油と同系統の匂い。

 木箱底に神殿調合部門印。

 聖女派支援物資との関連が極めて濃厚。


 そして、結論。


 「王都由来の古傷毒性残滓と、聖女派香油および不審木片の誘引成分は同系統である可能性が高い」


 筆を止める。


 胸の奥に、まだ怒りが燃えている。


 だが、それはもうただの怒りではなかった。


 報告に変える。

 証拠に変える。

 反撃に変える。


 それがリシェルの戦い方だ。


 ベルンが横から紙を覗き、短く言った。


「いい」


「強すぎませんか」


「弱いくらいだ」


 その言葉に、リシェルは少しだけ笑った。


 笑えるくらいには、戻ってきたのだと思った。


 窓の外では、雪がまだ降っている。


 王都の毒は、雪の夜に戻ってきた。


 けれど今度は、見逃さなかった。


 そして、奪わせなかった。

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