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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第43話 白百合の聖女、仮面の奥

 王都の白百合は、雪を知らない。


 温室の中で守られ、冷たい風に晒されることもなく、茎が折れぬよう支柱を添えられ、水の温度まで整えられて咲く。だから、その花弁はいつも美しい。清らかで、柔らかく、少し触れれば傷ついてしまいそうなほど繊細に見える。


 けれど、セシリア・エルンストは知っていた。


 繊細に見えるものほど、人は守りたがる。


 そして守られるものは、時に守る側よりもずっと強い。


 温室の中で、セシリアは一通の報告書を読んでいた。


 聖女派から北西辺境補給砦へ送った祈祷済み香油に関する報告。

 辺境側から王都へ返された、正式な使用禁止通知。

 そこには、兵が香油に触れて発熱と幻覚を起こしたこと、瓶底に神殿内部の調合印があったこと、成分表の提出が拒否されたことが、感情を交えず淡々と記されていた。


 そして、最後には署名。


 アルヴェイン。

 リシェル・フォルディア。


 セシリアは、リシェルの名前の上に指を置いた。


 きれいな字だった。


 昔からそうだ。あの女の字は、いつも整いすぎていた。乱れない。読みにくくならない。怒っていても、疲れていても、まるで自分の感情を紙の上に落とさないと決めているかのような字を書く。


 それが、嫌いだった。


「……また、あなたなのね」


 声は小さかった。


 温室には誰もいない。侍女たちは下がらせてある。だから、今だけは微笑まなくてもいい。


 セシリアは報告書をそっと閉じた。


 香油が兵に症状を起こした。


 それは、よくないことだ。少なくとも、表向きは心を痛めなければならない。聖女候補として、辺境の兵の苦しみに胸を痛め、支援物資の管理不足を憂い、神殿へ改善を求める。


 そう振る舞うのが正しい。


 けれど、胸の奥に最初に浮かんだのは、心配ではなかった。


 また見抜かれた。


 それだった。


 偽薬草も。

 白百合の符丁も。

 香油も。


 全部、あの女が見つける。


 まるで、雪の中へ落ちた針を拾うように。


 セシリアは白百合の花瓶へ目を向けた。


 花は今日も美しい。


 だが、昨日より香りが強い。


「セシリア様」


 扉の向こうから控えめな声がした。


 エリナだ。


「入って」


 セシリアは微笑みを作った。


 自分でも分かる。

 その微笑みは、最近少しだけ疲れている。


 エリナ・ヴァレリーが静かに入ってきた。今日の彼女はいつも以上に慎重な顔をしている。辺境から戻ってから、彼女は少し変わった。口数は減り、報告は正確になり、余計な慰めを言わなくなった。


 それもまた、気に入らない。


 辺境は人を変える。


 リシェルだけでなく、エリナまで。


「報告は読んだわ」


 セシリアは柔らかく言った。


「香油の件、たいへんなことになっているようね」


「はい」


 エリナは頭を下げる。


「神殿側は、辺境側の判断は過剰であると主張しております」


「そうでしょうね」


「ただ、兵に症状が出た記録がかなり細かく残されています。王都側でも、簡単に否定するのは難しいかと」


 また記録。


 セシリアは胸の中でだけ呟いた。


 リシェルの記録。


 あの女は、いつもそうやって逃げ道を塞ぐ。泣いて訴えるのではなく、怒鳴って責めるのでもなく、ただ紙を積む。そうすると、こちらがどれだけ清らかな言葉を並べても、事実が邪魔をする。


 嫌な戦い方だ。


 女らしくない。


 可愛げがない。


 そう思いかけて、セシリアは唇を噛んだ。


 その言葉は、かつてエドガーがリシェルへ向けていたものと似ている。


 そして今、そのエドガーが辺境へ向かっている。


「エドガー様は、もう着いたのかしら」


 セシリアが問うと、エリナは少しだけ間を置いた。


「早ければ、今日か明日には到着しているはずです」


「そう」


「レヴェント家からは、まだ正式な連絡は」


「来ないでしょうね」


 セシリアは微笑んだ。


「今のエドガー様は、私に知らせずに動きたいのでしょう」


 言葉にした瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


 以前ならあり得なかった。


 エドガーは何かを決める時、必ず自分へ伝えてくれた。あるいは、伝えさせるようにできた。心配そうに見上げれば、彼は自分を安心させようとした。少し涙を滲ませれば、彼は自分の味方になった。


 それなのに今、彼は黙って辺境へ行った。


 リシェルに会うために。


「セシリア様」


 エリナの声が、少し低くなる。


「これ以上、辺境への支援を急ぐのは危険です」


 セシリアは顔を上げた。


「危険?」


「リシェル様は、支援物資を一つずつ確認しています。砦側も、白百合の符丁や神殿の調合印を警戒しています。今、何かを送れば、逆に証拠を与えるだけになる可能性が」


「あなたは本当に、あの方をよく評価するようになったのね」


 セシリアの声は柔らかかった。


 エリナは、わずかに顔を強張らせた。


「評価ではありません。見た事実です」


「事実」


 セシリアはその言葉をゆっくり味わうように繰り返した。


「最近、皆そればかり。事実、記録、症状、報告。まるで、祈りや気持ちには意味がないみたい」


「意味がないとは申し上げておりません」


「でも、そう聞こえるわ」


 セシリアは立ち上がった。


 白いドレスの裾が、温室の床を静かに滑る。


「私は、辺境の方々を案じているだけなの。寒くて、薬も足りなくて、兵たちは傷ついている。そこへ支援を送ることの何が悪いの?」


 エリナはすぐに答えなかった。


 答えられなかったのではない。

 慎重に選んでいた。


「支援そのものは悪くありません」


「なら」


「ですが、その支援で症状が出たなら、止めるべきです」


 セシリアは微笑んだまま、エリナを見た。


「あなた、ずいぶんリシェル様の言い方に似てきたわ」


 その一言に、エリナの表情がほんの少しだけ揺れた。


 セシリアは、その揺れを見逃さなかった。


 やはり。


 辺境で何かを見てきたのだ、この女は。


 リシェルがただの敗者ではなく、砦で必要とされている姿を見てきた。だから、言葉の端々に迷いが出る。


 信じていた配置が崩れ始めているのは、エドガーだけではない。


 自分の周囲までだ。


「下がっていいわ」


 セシリアは言った。


「ですが」


「少し、一人で祈りたいの」


 祈りたい。


 その言葉を出せば、エリナはそれ以上踏み込めない。


 彼女は深く一礼した。


「失礼いたします」


 扉が閉まる。


 セシリアはしばらく、その扉を見つめていた。


 そして、ゆっくりと白百合の花瓶へ近づく。


 花弁に指を添える。


 今度は折らなかった。


 折ると、音がする。

 音がすると、自分の中の乱れが形になってしまう気がした。


「私は、悪くない」


 小さく呟く。


 だが、その声は以前より弱かった。


 聖女派の会議室は、温室よりも冷たかった。


 白い壁。高い天井。祈りの絵。磨かれた長机。部屋の中央には、聖女派の幹部たちが集まっている。


 オルグレン司祭を中心に、神殿薬師部門に近い者、支援会の貴婦人、王都商会と繋がる事務官。皆、穏やかな顔をしている。穏やかな顔で、危険な話をする。


 セシリアは上座に座らされていた。


 あくまで聖女候補として。

 けれど、実際に話を進めているのはオルグレン司祭だった。


「香油の件は、少々厄介になりました」


 司祭は静かに言った。


「辺境側は、症状記録を整え、瓶底の調合印まで写し取っております」


 神殿薬師部門の女が、顔をしかめた。


 リディア・フォルム。


 淡い灰色の髪を結い上げた、痩せた女だった。年は三十前後。細い指には薬草の染みが残っている。エドガーが見たことがあると言った薬箱の持ち主でもある。


「瓶底の印まで確認するとは、ずいぶん目ざといですね」


「リシェル・フォルディア嬢です」


 オルグレンが答える。


「彼女は、思った以上に目が利く」


「厄介ですわね」


 支援会の貴婦人が扇を閉じる。


「聖女様の善意を疑うなど、王都ならそれだけで評判を落とせますのに」


「ここが問題です」


 オルグレンは指先で机を軽く叩いた。


「辺境では、王都の評判がそのまま効かない」


 その言葉に、部屋が少し沈黙した。


 王都の常識が効かない。


 それは、彼らにとって思った以上に不快な事実だった。


「リシェル嬢を悪女として再固定する必要があります」


 オルグレンが言った。


 セシリアの指が、膝の上でわずかに動く。


 悪女として再固定。


 その言葉は、あまりにも露骨だった。


 だが、部屋の誰も驚かない。


 つまり、彼らにとってリシェルは“本当に悪女かどうか”ではなく、“悪女として扱えるかどうか”が重要なのだ。


「方法は?」


 リディアが問う。


「辺境の医務体制が未熟であることを示す」


「香油は失敗しました」


「失敗ではありません。情報が得られました」


 オルグレンは穏やかに微笑む。


「あの砦は、リシェル嬢の判断をかなり重く見ている。ならば、彼女の判断そのものを揺らせばいい」


 セシリアは、思わず口を開いた。


「リシェル様を、直接傷つけるのですか」


 その声は、自分でも驚くほど不安げだった。


 オルグレンは彼女へ優しく微笑みかける。


「もちろん、そのような乱暴はいたしません。聖女候補様の名を汚すようなことは」


 その言い方が、逆に何かを隠しているように聞こえた。


「では、何を」


「アルヴェイン団長の古傷です」


 部屋の空気が、少し変わった。


 セシリアは息を止めた。


「古傷?」


「香油への反応から見て、団長の傷は王都由来の毒性調合に反応しやすい。もし彼の症状が悪化すれば、砦は揺れます」


 リディアが低く言う。


「リシェル嬢は、彼を診るでしょう」


「ええ」


 オルグレンは頷く。


「そこで彼女が救えなければ、辺境の薬師としての信用は揺らぐ。逆に、彼女が禁じたはずのものを完全に防げなかったとなれば、管理責任も問える」


 セシリアの胸の奥が冷えた。


 アルヴェインを狙う。


 それは、ただリシェルを困らせるのとは違う。


 王位継承に繋がる可能性のある男だ。彼を傷つけるなど、あまりにも危険ではないか。


「そんなことをしたら」


 セシリアは声を潜めた。


「王都全体を敵に回すのではありませんか」


「だから、誰も“した”ことにはしないのです」


 オルグレンは穏やかなままだった。


「辺境の寒さ。古傷の悪化。香油への過敏反応。原因はいくらでも作れます」


 リディアが続ける。


「直接毒を盛る必要はありません。微量の誘引成分で十分です。あの手の残滓は、一度反応を起こすと連鎖します」


 セシリアは、二人の会話を聞きながら、手のひらが冷たくなるのを感じた。


 これは、自分が望んだことなのか。


 リシェルがいなくなればいいと思った。

 エドガーが自分だけを見ればいいと思った。

 アルヴェインが王都で正しい位置に立てばいいと思った。


 でも、これは。


 これは、少し違うのではないか。


「私は」


 セシリアは小さく言った。


「誰かに死んでほしいわけではありません」


 その場の全員の視線が彼女へ向いた。


 オルグレンは少しも驚かず、むしろ慈愛深い顔で頷いた。


「もちろんです、セシリア様」


「本当に」


「分かっております。あなたは清らかな方だ」


 清らかな方。


 その言葉が、今は少し気持ち悪かった。


 オルグレンは続ける。


「ですから、あなたは何も知らなくてよろしい。私どもが、王都と辺境の秩序を整えます」


 何も知らなくていい。


 それは優しさではない。


 責任を持たせないということだ。


 同時に、止める権利も与えないということだ。


 セシリアは唇を噛んだ。


 ここで強く止めればいい。


 そう思った。


 けれど、声が出なかった。


 もし止めれば、彼らは自分をどう見るだろう。

 リシェルを庇ったと思うだろうか。

 聖女候補としてふさわしくないと判断するだろうか。

 エドガーもアルヴェインも遠ざかり、聖女派の支援も失い、自分はただの泣き虫の令嬢に戻るのではないか。


 怖かった。


 セシリアは、その恐怖を認めたくなかった。


「……分かりました」


 声は小さかった。


「ですが、無茶はしないでくださいね」


 オルグレンは深く頭を下げた。


「もちろんでございます」


 その瞬間、セシリアは自分が何かを見逃したのだと分かった。


 分かったのに、止めなかった。


 会議は続く。


 表向きは支援と秩序の話として。

 実際には、辺境を揺らす次の手として。


 会議が終わった後、セシリアは一人で礼拝堂へ入った。


 王都の神殿に付属する小さな礼拝堂は、静かだった。高い窓から白い光が差し込み、床に細い模様を落としている。祭壇には白百合が飾られていた。


 セシリアは膝をついた。


 祈る姿勢は美しい。


 幼い頃から、そう教えられてきた。


 背筋を伸ばし、指を組み、目を伏せる。涙を浮かべる時は、こぼしすぎてはいけない。声は震わせてもよいが、乱してはいけない。


 守られるための所作。


 愛されるための形。


「私は、悪くない」


 また呟いた。


 礼拝堂に、その声が小さく反響する。


「だって、私は……ただ」


 ただ、選ばれたかった。


 ただ、リシェルより上に立ちたかった。


 ただ、誰かに一番だと言われたかった。


 それだけなのに。


 どうして、こんなところまで来てしまったのだろう。


 祭壇の白百合は、何も答えない。


 ふと、リシェルの顔が浮かんだ。


 断罪の夜の顔ではない。

 エリナが報告した、辺境で立つリシェルの姿。

 薬草の匂いの中で記録を持ち、王都の言葉に黙らなかった女。


 セシリアは、ぎゅっと指を握った。


「あなたが、悪いのよ」


 小さく呟く。


 そうでなければ困る。


 リシェルが悪くないなら、あの夜の自分は何だったのか。


 涙を流し、守られ、勝ったつもりでいた自分は。


 それが怖い。


 だから、リシェルには悪女でいてもらわなければならない。


 セシリアは立ち上がった。


 目元に涙はなかった。


 けれど、微笑みは戻っていなかった。


 一方その頃、王都の外れでは、一台の商人風の荷馬車が北西へ向けて進んでいた。


 雪を避けるため、主要街道ではなく旧道を使っている。荷台には、薬草の束と保存食、毛布が積まれているように見える。


 その下に、小さな箱が隠されていた。


 箱の中身は、香油ではない。


 乾燥した細い木片と、白い粉末を染み込ませた布。


 触れただけでは害はない。匂いもほとんどしない。


 だが火に近づければ、薄い煙が出る。


 その煙は、古い毒性調合の残滓を刺激する。


 荷馬車を操る男は、指示書を一度だけ見た。


 北西辺境補給砦。

 西の林縁村。

 医務棟周辺。

 アルヴェイン団長の動線。


 紙の端には白百合の印はなかった。


 代わりに、三つの滴と細い杖の印。


 神殿調合部門の印。


 男はその紙を小さく丸め、口へ入れて噛み砕いた。


 馬車は、雪道の中へ消えていく。


 王都の夜、セシリアはもう一度温室へ戻った。


 白百合の花は静かに咲いている。


 彼女は花へ手を伸ばし、今度は茎を折らなかった。


 ただ、花弁に触れる。


「私は、悪くない」


 その言葉は、もう祈りではなかった。


 言い聞かせだった。


 そしてその声には、誰にも見せられないほどの怯えが混じっていた。

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