第42話 団長は、元婚約者を前にしても揺れない
翌朝、砦には重い雲がかかっていた。
雪はまだ降っていない。けれど空気は湿っていて、遠くの森の輪郭が白く霞んでいる。こういう日は、昼を過ぎる前に天気が崩れる。辺境に来たばかりの頃なら分からなかった空の色も、今のリシェルには少しずつ読めるようになっていた。
医務棟では、朝から補給庫との確認作業が行われていた。
昨日、エドガーに見せた記録のうち、香油と偽薬草に関するものを改めて整理し直す必要があったからだ。王都へ正式な追加報告を送るなら、感情を挟まず、時系列と症状と物証を明確に並べなければならない。
リシェルは中央机に紙を広げ、ガレスから受け取った補給路の記録を確認していた。
「最初の偽薬草が届いたのは、西門で押さえた荷馬車の件ですね」
「ああ」
ガレスが頷く。
「その前日に、西の林縁村の来訪記録に小さな遅れがあった。お前が印をつけていた」
「はい。あれが前触れだった可能性があります」
「次に、ミラが村で見抜いた荷」
「この時点で、白百合の符丁に変形がありました。砦向けと村向けで印を変えていたなら、運び先か担当者で区別していた可能性があります」
リシェルがそう言うと、ガレスは腕を組んだ。
「そこへ聖女派の視察団、その後に香油か」
「はい。流れとしては、偽薬草で医務棟の信頼を揺らし、視察団が支援の名目で入り、香油を届ける。そう見ると自然です」
「嫌な自然さだな」
「ええ」
苦い返事になった。
その時、医務棟の入口に人影が立った。
エドガーだった。
今日は昨日より簡素な外套を着ている。王都の貴族らしい華やかさを抑え、砦の中で浮かないようにしているのだろう。だが、それでもやはり王都の男に見えた。
彼の後ろにはマティアスと、案内役の兵がいる。
「邪魔をしても?」
エドガーは戸口で足を止めた。
勝手に入ってこない。
それだけのことなのに、リシェルは少しだけ胸の内で驚いた。
ガレスがリシェルを見る。
判断を預けられたのだと分かる。
「今は香油と偽薬草の記録整理中です」
リシェルは言った。
「公的な確認としてなら、同席していただいて構いません。ただし、医務棟の作業を優先します」
「分かった」
エドガーは静かに頷いた。
「見せてもらえるだけでいい」
彼は部屋の端へ移動し、邪魔にならない位置に立った。
トーマスが少し緊張した顔で湯を運び、ベルンがわざとらしく大きな音を立てて薬瓶を置く。
「見るだけなら、黙って見ろ」
「承知しました」
ベルンの無愛想な言葉にも、エドガーは怒らなかった。
王都の公爵家嫡男に対してなら、かなり失礼な態度だ。けれどここでは、ベルンは医務棟の老薬師であり、エドガーは来訪者だ。
それをエドガーも理解し始めているのかもしれない。
リシェルは作業に戻った。
「香油に触れたイアンの症状ですが、発症までの時間をもう少し細かく書き直します。触れてから洗浄までが半刻未満、発症が夕刻前」
「量は」
ガレスが問う。
「指先にごく少量。傷口ではありません」
「それで幻覚か」
「はい」
リシェルは記録紙に視線を落とす。
「白い花畑、赤い雪、団長が血だらけに見えたという証言。香油の匂いと、団長の古傷に残る匂いの類似も記載します。ただし、ここはまだ“所見”です。断定にはしません」
部屋の端で、エドガーがわずかに反応した。
「団長の古傷?」
思わず漏れた声だった。
ガレスの視線が鋭くなる。
リシェルも筆を止めた。
言うべきかどうか、一瞬迷う。
だが、すぐに別の低い声がした。
「俺から話す」
入口にアルヴェインが立っていた。
いつからいたのか分からない。黒い外套に雪の粒はない。おそらく、外ではなく砦内の巡回から戻ったのだろう。
医務棟の空気が、ほんの少し引き締まった。
エドガーは姿勢を正す。
「アルヴェイン団長」
「俺の古傷には、王都由来の毒と呪の残滓がある」
アルヴェインは隠さなかった。
リシェルは思わず彼を見た。
これまで、彼はその話をほとんど避けてきた。少なくとも、自分から他人へ明かすことはなかった。
それを今、エドガーの前で言った。
「王都由来……」
エドガーの顔色が変わる。
「それと、聖女派の香油が?」
「似た反応を示している」
アルヴェインはリシェルの記録紙へ視線を落とした。
「少なくとも、リシェルはそう見ている」
リシェル。
彼が名前を出した瞬間、エドガーの視線がリシェルへ向いた。
そこには驚きと、少しの痛みがあった。
アルヴェインは続ける。
「俺も、その見立てを軽んじない」
それは、ただの補足ではなかった。
リシェルの判断を、公の場で認める言葉だった。
「彼女は、この砦に必要な人間だ。王都の過去だけで語るな」
医務棟の中が静まり返った。
リシェルは息を呑んだ。
その言葉は、第3章プロットで決めた山場のひとつだったが、実際にこの場で響くと、思っていたよりずっと重かった。
彼女は、この砦に必要な人間だ。
王都の過去だけで語るな。
エドガーは、まっすぐアルヴェインを見た。
怒るかと思った。
けれど、彼は怒らなかった。
ただ、深く息を吸ってから言った。
「……その通りです」
静かな返答だった。
アルヴェインの目がわずかに細くなる。
エドガーは続けた。
「私は、彼女を王都の過去だけで見ていました。婚約者として、侯爵家の令嬢として、断罪された女として。だが、ここでの彼女を見れば、それだけでは足りないと分かります」
リシェルは、何も言えなかった。
エドガーがそう言ったことに、驚いた。
そして、アルヴェインがそれを聞いても揺れなかったことにも。
二人は違う種類の男だった。
エドガーは、今ようやく見ようとしている。
アルヴェインは、すでに見ている。
その差は、埋まるものではない。
けれど、エドガーがそれを認めようとしていることは、事実として受け止めてもいいのかもしれなかった。
「記録を続けます」
リシェルは静かに言った。
感情で場を止めたくなかった。
今ここで自分がするべきことは、まだ終わっていない。
アルヴェインがわずかに頷く。
「続けろ」
その声に背中を押されるように、リシェルは筆を取った。
昼前には、香油に関する追加報告書の骨子が完成した。
ベルンの所見。
リシェルの観察。
イアンの証言。
香油瓶底の神殿内部調合印。
成分表の開示拒否。
アルヴェインの古傷との反応類似。
それらをまとめると、見えてくるものは明確だった。
聖女派の支援物資は、単なる善意ではない。
少なくとも、善意だけで扱うには危険すぎる。
エドガーは、それを一枚ずつ読んでいた。
読み終えるたびに、表情が険しくなる。
ついに彼は、低く言った。
「……セシリアは、この香油のことをどこまで知っていたのだろう」
誰もすぐには答えなかった。
リシェルも、答えられなかった。
セシリア本人が命じたのか。
聖女派の幹部が彼女の名を利用したのか。
それとも、彼女は知っていて知らないふりをしたのか。
今はまだ分からない。
アルヴェインが言った。
「それを確かめるのは、あなたの役目だろう」
エドガーは顔を上げる。
「私の?」
「少なくとも、セシリア・エルンストに近かったのはあなたたちだ」
容赦のない言葉だった。
「俺たちは辺境で起きた事実を見る。王都側の事情は、王都にいる者が掘るしかない」
エドガーは、唇を引き結んだ。
だが、反論はしなかった。
「……分かっています」
低い声だった。
「私も、もう目を逸らすつもりはありません」
リシェルはその言葉を聞きながら、少しだけ複雑な気持ちになった。
エドガーが変わろうとしていることは分かる。
けれど、その変化が自分の過去を消すわけではない。
彼が目を逸らさないと決めたところで、あの夜リシェルが受けた傷は消えない。
それでも。
王都の闇を暴くには、彼のような立場の者が必要なのも確かだった。
感情と実務は、時に別々に扱わなければならない。
それもまた、辺境で学んだことだった。
「レヴェント様」
リシェルは声をかけた。
エドガーがこちらを見る。
「王都側で何か分かった場合は、こちらへ正式に共有してください。特に聖女派支援会、神殿調合部門、白百合の符丁に関わる商会について」
淡々とした言葉になった。
「個人的な話ではなく、調査協力としてお願いします」
エドガーは、少しだけ目を伏せた。
また線を引かれたのだと分かったのだろう。
けれど彼は頷いた。
「分かった。必ず共有する」
マティアスが後ろで静かに頭を下げた。
「私も記録を取ります」
「お願いします」
リシェルは答えた。
そのやり取りを、アルヴェインは黙って見ていた。
不機嫌そうではある。
けれど、口を挟まなかった。
リシェルが必要だと判断して話していることを、信じているのだ。
それが分かるから、リシェルの胸は静かに温かかった。
午後、エドガーはガレスの案内で補給庫へ向かった。
アルヴェインも同行した。
リシェルは医務棟に残るつもりだったが、ガレスに呼ばれた。
「来たほうがいい」
「私も?」
「ああ。香油と偽薬草の保管場所は、お前の説明が一番早い」
その言葉に、エドガーが少しだけリシェルを見た。
また、必要とされる場面を見ている。
リシェルは頷いた。
「分かりました」
補給庫は冷えていた。
厚い扉の向こうに、食料、薪、布、薬草、金具、予備の武具が分類されて並ぶ。その一角に、封じられた香油と偽薬草が保管されていた。
香油の棚には、昨日よりさらに大きな札がかかっている。
未確認香油。使用禁止。直接触れないこと。医務担当確認必須。
エドガーはそれを見て、苦い顔をした。
「聖女派が見れば、怒るだろうな」
「怒るでしょうね」
リシェルは答えた。
「でも、使って倒れる人が出るよりいいので」
エドガーは黙った。
その言葉には、反論の余地がなかった。
アルヴェインが棚の前で足を止める。
「香油の瓶底印を見せろ」
ガレスが布手袋をつけ、一本を慎重に取り出す。
リシェルが横から補足した。
「この円の中に三つの滴と細い杖のような印があります。ベルン先生によると、神殿内部の医療用調合印に近いそうです」
エドガーはそれを覗き込み、息を呑んだ。
「……見たことがある」
リシェルは顔を上げた。
「本当ですか」
「ああ。セシリアの側近が持っていた薬箱に、似た印があった」
空気が固まった。
アルヴェインの目が鋭くなる。
「側近とは」
「エリナではない。別の女だ。たしか、神殿薬師の家系に近い者で……名前は」
エドガーは記憶を探るように眉を寄せた。
「リディア・フォルム。セシリアの体調管理を時折任されていた」
マティアスがすぐに手帳へ書き留める。
リシェルも記録へ加えた。
リディア・フォルム。
新しい名前。
聖女派の内部にいる、神殿薬師系の人物。
「その人物が、香油の調合に関わっている可能性がありますね」
リシェルが言うと、エドガーは表情を険しくした。
「可能性はある」
「王都で確認できますか」
「する」
エドガーは即答した。
その声には、昨日までより明確な怒りが混じっていた。
セシリアの名に近づくたび、彼の中で何かが崩れているのだろう。
それはリシェルにとって、少し痛ましいものでもあった。
かつての自分も、同じように何かを信じていたのだから。
「ただ」
エドガーは続けた。
「セシリア本人がどこまで知っているかは、まだ分からない」
「分かっています」
リシェルは静かに答えた。
「決めつけません。私は、記録を積みます」
アルヴェインがこちらを見る。
その目が、ほんの少し柔らかくなった。
「それでいい」
短い言葉。
でも、十分だった。
補給庫の確認を終えた後、外は雪になっていた。
細かい雪が風に舞い、砦の石壁を白く染め始めている。中庭では兵たちが薪を運び、村から来た荷の確認をしていた。
エドガーはその様子をじっと見ていた。
「ここでは、誰も止まっていないんだな」
ぽつりと呟く。
「何かあっても、すぐ次の仕事がある」
「辺境ですから」
リシェルは答えた。
「泣く暇も、怒る暇も、あまりありません。もちろん、まったくないわけではありませんけど」
「君は、泣いたのか」
不意に問われた。
リシェルは少しだけ息を止めた。
アルヴェインがすぐにエドガーを見る。
その視線に、エドガーは自分の問いが踏み込みすぎたことに気づいたらしい。
「すまない。今のは」
「泣きました」
リシェルは静かに答えた。
エドガーの顔が固まる。
「王都を出た馬車の中で。辺境へ向かう宿で。ここへ来た最初の夜も」
言葉は不思議と落ち着いていた。
「でも、ずっと泣いていることはできませんでした。薬草棚がぐちゃぐちゃで、怪我人がいて、村に熱病が出て、団長が無茶をして」
「最後のは余計だ」
アルヴェインが低く言った。
リシェルは少しだけ笑う。
「事実です」
エドガーは二人のやり取りを見ていた。
その顔には、寂しさに近いものが浮かんでいた。
自分の知らない時間。
自分の知らないリシェル。
そして、その時間の中に当然のようにいるアルヴェイン。
それを目の前で見せられているのだ。
エドガーは目を伏せた。
「……そうか」
短い返事だった。
それ以上、彼は何も言わなかった。
夕刻、王都から来たもう一台の商人風の荷馬車について、北の見張りから報告が入った。
雪のため足取りは遅いが、進路は砦の西側の村へ向かっている可能性があるという。
ガレスが小会議室へ地図を広げた。
「このままだと、西の林縁村か、さらに奥の旧道へ入る」
「ミラの村ですね」
リシェルの声が硬くなる。
「また偽薬草か、香油か」
ガレスが言う。
「あるいは別の何かだな」
アルヴェインは地図を見下ろしていた。
「先に村へ警告を出す。見張り班を二つ」
「了解」
ガレスが即座に動く。
エドガーは地図を見つめたまま言った。
「私も行きます」
部屋の空気が一瞬止まった。
アルヴェインが彼を見る。
「足手まといになる」
容赦のない一言だった。
エドガーは顔を強張らせたが、引かなかった。
「分かっています。ですが、聖女派の者が関わっているなら、王都側の顔を知る私が役に立つかもしれません」
「雪道の追跡はできるのか」
「できません」
「なら、ここにいろ」
即断。
エドガーは拳を握った。
悔しそうだった。
けれど、反論できない。
リシェルはそのやり取りを見て、少し複雑な気持ちになる。
王都の男は、ここではできないことが多い。
かつての自分と同じように。
でも、できないことを認めるところから始めるしかないのだ。
「レヴェント様」
リシェルは声をかけた。
「王都側の顔を知っているなら、戻ってきた者から特徴を聞いた時に照合できます。ここで待つことにも役目があります」
エドガーはリシェルを見る。
その顔に、少しだけ救われたような表情が浮かんだ。
「……分かった」
アルヴェインが一瞬だけリシェルを見た。
何を思ったのかは分からない。
ただ、少し面白くなさそうだった。
リシェルは気づかないふりをした。
夜、見張り班が出発した後、小会議室には重い空気が残った。
王都から来た過去。
聖女派の香油。
神殿薬師リディア・フォルムの名。
そして、西の村へ向かう不審な荷馬車。
すべてが繋がり始めている。
リシェルは記録をまとめながら、静かに息を吐いた。
第3章は、もう後半へ入っている。
王都は遠くない。
雪道の向こうから、過去も罠も、確実にこちらへ近づいている。
けれど、リシェルはもう一人ではなかった。
隣には、揺れずに立つ団長がいる。
過去から来た元婚約者は、今度こそ見ようとしている。
そして砦は、王都の言葉ではなく、事実で動いている。
そのことだけは、確かだった。




