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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第41話 あなたが捨てたものは、ここで必要とされています

 エドガーが砦へ滞在することになってから、最初に変わったのは、医務棟へ向けられる視線だった。


 兵たちは露骨に騒いだりはしない。辺境の男たちは、余計な詮索を口にするほど暇ではないし、何よりアルヴェインとガレスの目がある。だが、それでも分かるものは分かる。


 王都から来た公爵家の男。

 リシェルの元婚約者。

 かつて彼女を断罪した側の人間。


 その男が、今は砦の客室に滞在している。


 医務棟へ出入りする兵たちは、いつもより少しだけ声を落とした。村から来た者たちも、事情までは知らずとも「王都の偉い人が来ているらしい」と聞いて、どこか落ち着かなかった。


 リシェル自身は、なるべく普段通りにしていた。


 朝、薬棚を確認する。

 来訪帳を開く。

 凍傷気味の兵の指先を診る。

 ミラから届いた薬草の束に印をつける。

 香油の保管棚の封を確かめる。

 村へ送る見分け札の写しを整える。


 やることは、変わらない。


 変わらないことが、救いだった。


「リシェル殿」


 午前の終わり頃、戸口から声がした。


 振り向くと、エドガーが立っていた。


 一人ではない。後ろにはマティアスが控えている。さらに少し離れて、砦の兵が一人ついていた。勝手に医務棟へ入ることは認めない、というアルヴェインの言葉通りだった。


 エドガーはそのことに不満を見せなかった。


 ただ、医務棟の中へ視線を巡らせる。


 寝台で休むイアン。薬草を刻むトーマス。奥で帳面をめくるベルン。机に置かれた薬草見本。壁に貼られた白百合注意札。すべてを、昨日よりもずっと真剣に見ていた。


「少し、話せるか」


 低い声だった。


 リシェルは手元の薬草を布の上へ置いた。


「公的な確認ですか」


 エドガーは一瞬だけ唇を引き結んだ。


「……できれば、個人的に」


 医務棟の空気が、わずかに止まる。


 トーマスが気まずそうに目を逸らし、ベルンが露骨にこちらを見る。老人は何も言わない。だが、その沈黙が「お前が決めろ」と言っていた。


 リシェルは少し考えた。


 逃げたい気持ちはあった。


 今ではない、と言ったばかりだ。

 けれど、同時に分かってもいた。


 いつか必要になるかもしれない話は、たぶんもう始まっている。


 ただし、王都のように密室で一方的に流されるつもりはない。


「医務棟の裏の小部屋なら」


 リシェルは言った。


「扉は開けておきます。マティアスさんも、近くに」


 エドガーは一瞬、痛むような顔をした。


 だが、すぐに頷いた。


「それでいい」


 それでいい。


 その言葉を聞いて、リシェルは少しだけ肩の力を抜いた。


 かつての彼なら、距離を置かれることに傷つき、あるいは怒ったかもしれない。だが今は、少なくとも受け入れようとしている。


 それをどう評価すればいいのか、まだ分からなかった。


 医務棟の裏にある小部屋は、物置兼簡易診察室として使われている。


 広くはない。窓は小さく、暖炉もない。ただ、隣の部屋から暖気が流れてくるので、座って話すには十分だった。


 扉は半分開けたままにした。


 外の気配が聞こえる。


 トーマスが薬瓶を並べる音。

 ベルンが咳払いする音。

 マティアスが静かに立つ気配。


 それだけで、リシェルは落ち着いていられた。


 エドガーは椅子に座る前、少し迷ったように立ち尽くした。


 王都なら、彼は当然のように上座へ座っただろう。けれどここには、そういう席順がない。粗い木の椅子が二つあるだけだ。


「座ってください」


 リシェルが言うと、彼は小さく頷いて腰を下ろした。


 リシェルも向かいに座る。


 しばらく、沈黙があった。


 先に口を開いたのは、エドガーだった。


「どこから話せばいいのか、分からない」


「分からないなら、無理に話さなくても」


「いや」


 エドガーは首を振った。


「話しに来た。……それなのに、情けないな」


 以前の彼なら、自分を情けないなどと言っただろうか。


 リシェルは黙って聞いた。


「屋敷が、ずっと乱れている」


 彼はぽつりと言った。


「君がいなくなってから、茶葉も、贈答も、侍女の配置も、全部少しずつおかしくなった。最初は、使用人たちが怠けているのだと思った。だが、違った」


 エドガーは自分の手元を見つめる。


「君が、整えていたんだな」


「整えていたつもりはあります」


 リシェルは静かに答えた。


「でも、私一人で全部を動かしていたわけではありません。使用人の皆さんが動きやすいように、手順を残していただけです」


「それを、俺は見ていなかった」


「はい」


 リシェルは否定しなかった。


 エドガーの指が、膝の上でわずかに動く。


「君が何かを指摘するたび、俺は……責められているように感じていた」


「責めていたつもりはありません」


「分かっている。今なら」


 その“今なら”が、少しだけ胸に刺さった。


 今なら分かる。


 でも、あの時は分からなかった。


 その時間は戻らない。


 エドガーは顔を上げた。


「君は、なぜ何も言わなかった」


 その問いに、リシェルは一瞬だけ目を瞬いた。


「何も?」


「つらいとか、苦しいとか、負担が大きいとか。君はいつも淡々としていた。だから俺は、君が平気なのだと思っていた」


 リシェルは、少しだけ息を吐いた。


 怒りが湧かなかったわけではない。


 けれど、それ以上に呆れに近い静けさがあった。


「言ったことはあります」


 エドガーの目が揺れる。


「……そうか?」


「はい。贈答の管理を一人で抱えきれないと伝えたこともあります。侍女の体調記録は家の正式な仕事として扱ってほしいとお願いしたこともあります。冬期の茶葉の配合は、私ではなく執事長と相談して決めてほしいと言ったことも」


 リシェルは一つずつ思い出しながら言った。


「けれど、エドガー様はいつも『君は細かいな』と笑いました」


 エドガーの顔から血の気が引いた。


 覚えているのだろう。


 今になって。


「私は、言わなかったのではありません」


 リシェルは静かに続けた。


「聞いてもらえなかったんです」


 その言葉は、小部屋の中に重く落ちた。


 扉の向こうの音も、少し遠くなったように感じる。


 エドガーは何も言わない。


 言えないのだろう。


「……すまない」


 ようやく出た声は、掠れていた。


 リシェルはその謝罪を、すぐには受け取れなかった。


 長く待っていた言葉のはずだった。


 あの夜の直後なら、きっと泣いていた。

 王都を追われた日の馬車の中なら、縋るように受け取ったかもしれない。

 辺境へ来たばかりの頃なら、その一言だけで胸が崩れていたかもしれない。


 でも今は、違う。


 謝罪は、遅れて届いた手紙のようだった。


 必要ではある。

 けれど、それだけで冬は終わらない。


「謝罪は、聞きました」


 リシェルは言った。


 エドガーが顔を上げる。


「許してくれとは、今は言わない」


「言われても、今すぐには答えられません」


「分かっている」


 その返事は、少しだけ早かった。


 たぶん本当に分かっているのではなく、分かろうとしているのだろう。


 リシェルは少しだけ視線を落とした。


「私は、あの夜に多くのものを失いました」


「……ああ」


「婚約も、王都での居場所も、家族との繋がりも、評判も。何より、自分が積み上げてきたものには何の意味もなかったのだと思いました」


 言葉にすると、胸の奥が少し痛む。


 でも、もう言えないほどではない。


「でも、ここへ来て分かりました」


 リシェルは顔を上げる。


「私がしていたことは、意味がなかったわけではありません。ただ、王都では見てもらえなかっただけです」


 エドガーは唇を噛んだ。


「ここでは、見てもらえるのか」


「はい」


 リシェルは迷わず答えた。


「薬草の記録も、村の相談も、白百合の符丁も、香油の症状も。細かいと笑われず、必要だと言ってもらえます」


 扉の外から、ベルンが何か薬瓶を置く音がした。


 リシェルは少しだけ笑う。


「怒られることも多いですが」


「ベルン殿か」


「はい。とても厳しいです」


 ほんの少しだけ空気が緩む。


 けれど、エドガーの表情は暗いままだった。


「俺は、君を捨てた」


 その言葉は、まっすぐだった。


 リシェルは答えない。


「その君が、ここで必要とされている。正直に言えば……苦しい」


「苦しい?」


「俺が見なかった価値を、ここでは皆が見ている。それが、苦しい」


 随分勝手な苦しさだと思った。


 けれど、そう言わずにはいられないほど、彼も何かを突きつけられているのだろう。


 リシェルは静かに言った。


「あなたが捨てたものは、ここで必要とされています」


 エドガーの肩がわずかに揺れた。


 言いすぎたとは思わなかった。


 これは責めるためだけの言葉ではない。


 事実だった。


「私は、ここで必要とされています。だから、もう戻れません」


 エドガーは顔を上げた。


「戻れない、か」


「はい」


「王都へ、という意味か」


「王都そのものを嫌っているわけではありません。でも、少なくとも、あの頃の場所へは戻れません」


 リシェルは自分の手を見た。


 薬草の匂いが残った指先。


 王都で白い手袋に隠していた頃とは違う手。


「私はもう、誰かの婚約者として、誰かの家の帳面を黙って整えるだけの人間には戻れません」


 エドガーは、長く黙っていた。


 その沈黙の中に、諦めの気配が少しずつ混じっていく。


「……アルヴェイン団長は」


 彼は低く言った。


「君を、ちゃんと見ているのだな」


 リシェルは一瞬だけ動きを止めた。


 頬が熱くなりそうになるのを、どうにか抑える。


「団長だけではありません。医務棟の皆さんも、村の方々も」


「そうだな」


 エドガーは苦く笑った。


「すまない。今のは、俺の見苦しいところだ」


 否定はしなかった。


 自分でも、アルヴェインへの感情が混ざったと分かっているのだろう。


 リシェルはあえて追及しなかった。


 ただ、静かに言う。


「団長は、私の選択を尊重してくれます」


 エドガーの目が揺れる。


「選択を」


「はい。守ると言ってくれます。でも、閉じ込めるわけではありません。前へ出るなら、その後ろに立つと言ってくれました」


 口にしてから、胸が少し熱くなった。


 あの言葉は、思い出すだけでまだ心の奥に残る。


 エドガーは、それを聞いて目を伏せた。


「俺は、前に立つ君を嫌がった」


 リシェルは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 話はそこで途切れた。


 エドガーはしばらくして立ち上がった。


「今日は、ここまでにしてくれ」


「はい」


「……ありがとう。話してくれて」


「必要だと思ったので」


「君らしいな」


 そう言いかけて、エドガーは少しだけ苦笑した。


「いや。こういう言い方も、昔なら君を型にはめていたのかもしれない」


「今なら、そう思えるんですね」


「ああ」


 それが良いことなのか、遅すぎることなのか。


 リシェルにはまだ分からなかった。


 ただ、今のエドガーは昔と同じではない。


 それもまた事実だった。


 小部屋を出ると、医務棟の空気が戻ってきた。


 トーマスが露骨にこちらを見ないようにしていて、ベルンはあえて何も言わなかった。マティアスだけが、エドガーを見て少しほっとしたように頭を下げた。


 医務棟の戸口には、アルヴェインが立っていた。


 いつからいたのかは分からない。


 だが、盗み聞きするような距離ではない。必要ならすぐ入れる位置に、ただ立っていたのだろう。


 エドガーとアルヴェインの視線が合う。


 短い沈黙。


 エドガーが先に口を開いた。


「少し、話しました」


「ああ」


「彼女は、ここで必要とされているのですね」


 アルヴェインは静かに答えた。


「そうだ」


 迷いのない声だった。


 エドガーの顔が、少しだけ痛むように歪む。


「それを、私は知らなかった」


「知らなかったのではなく、見なかったのだろう」


 アルヴェインの言葉は容赦がなかった。


 空気が一瞬固まる。


 リシェルは思わず二人を見た。


 エドガーは怒るかと思った。


 けれど、彼は怒らなかった。


 ただ、深く息を吐いた。


「その通りです」


 その返答に、アルヴェインの目がわずかに細くなる。


 エドガーは続けた。


「だから、今は見ます。許される限り」


「なら、見るといい」


 アルヴェインは低く言った。


「だが、王都の過去だけで彼女を語るな」


「……分かっています」


「本当に分かるのは、これからだ」


 その言葉に、エドガーは何も返せなかった。


 リシェルは胸の奥で、静かな緊張がほどけるのを感じた。


 アルヴェインは、怒っている。


 だが、ただ嫉妬で刺しているのではない。


 リシェルがここで積み上げたものを、王都の過去で塗り潰されることに怒っているのだ。


 そのことが、どうしようもなく心強かった。


 夕方、エドガーはガレスの案内で補給庫を見に行った。


 香油の保管棚、偽薬草の記録、白百合の符丁の写し。彼はそれらを順に確認しているらしい。


 リシェルは医務棟へ戻り、途中だった仕事を再開した。


 けれど、手は少し遅かった。


 エドガーとの会話が、胸の奥にまだ残っている。


 謝罪を聞いた。

 過去を少し話した。

 戻れないと伝えた。


 思ったより、疲れた。


 でも、壊れなかった。


 そのことに、リシェルは自分で少し驚いていた。


 夜になり、医務棟の仕事が落ち着いた頃、アルヴェインがやって来た。


「少し外へ出るか」


 珍しい誘いだった。


 リシェルは少し迷い、それから頷いた。


「はい」


 外は冷えていた。


 雪は止み、空には薄い雲がかかっている。見張り台の灯が、石壁に淡い影を作っていた。


 二人は中庭の端まで歩いた。


 しばらく、どちらも話さなかった。


 沈黙が苦ではない。


 そのことに、リシェルはふと気づく。


 エドガーと向かい合った沈黙は、言葉を探す時間だった。

 アルヴェインとの沈黙は、呼吸を整える時間だ。


「話せたか」


 アルヴェインが低く問う。


「はい」


「傷ついたか」


「少し」


 正直に答えた。


「でも、必要な話でした」


「そうか」


「謝罪も聞きました」


 アルヴェインは黙っている。


「まだ、許すとか許さないとかは分かりません。でも、聞いたこと自体は、悪くなかったと思います」


「ああ」


 短い返事。


 けれど、少しだけ声が低い。


 リシェルは横顔を見る。


「面白くないですか」


「面白くはない」


 即答だった。


 以前と同じ。


 でも、今日はその正直さに少し笑ってしまった。


「でも、止めなかったですね」


「お前が必要だと思ったからだ」


「はい」


「ただ」


 アルヴェインは少しだけリシェルを見る。


「傷ついたなら、戻ってこい」


「どこへ?」


 問い返すと、彼は少しだけ間を置いた。


「医務棟でも、砦でも、俺のところでもいい」


 胸が、強く鳴った。


 俺のところ。


 さらりと言われたのに、言葉が深く刺さる。


 リシェルは、すぐには返事ができなかった。


 アルヴェインも、言ってから少しだけ視線を逸らした。


「……今のは」


「忘れません」


「まだ何も言っていない」


「言いました」


「そうか」


 彼は諦めたように息を吐いた。


 リシェルは小さく笑った。


 そして、静かに言った。


「戻ってこられる場所があるのは、ありがたいです」


 アルヴェインは今度は逃げずに、こちらを見た。


「ある」


 短い言葉。


 それだけで十分だった。


 王都で捨てられたもの。

 辺境で必要とされたもの。

 過去から来た謝罪。

 今ここにある居場所。


 それらが、雪の夜の中でゆっくりと形を変えていく。


 リシェルは白い息を吐き、遠くの見張り台の灯を見つめた。


 あなたが捨てたものは、ここで必要とされています。


 そう言えた。


 そして今、自分はその場所へちゃんと立っている。

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