第40話 元婚約者、雪の砦に立つ
王都からの馬車が近づいているという知らせは、昼前には砦中に広がっていた。
ただし、騒ぎにはならなかった。
北西辺境補給砦の兵たちは、噂好きではあっても、こういう時に軽々しく声を上げるほど緩くはない。正門の雪は踏み固められ、見張り台の交代は一段早まり、補給庫の出入りも制限された。
王都から来る馬車は二台。
一台は、レヴェント公爵家のものと思われる馬車。
もう一台は、商人風の荷馬車。
エドガーが来るかもしれない。
その知らせを聞いた時、リシェルは自分でも意外なほど落ち着いていた。
もちろん、何も感じないわけではない。
あの夜の広間。
人々の視線。
セシリアの涙。
エドガーの怒声。
婚約破棄の宣言。
それらは、今でも心の奥に残っている。けれど、以前のように胸を締めつけるだけのものではなくなっていた。
今のリシェルには、手元に帳面がある。
医務棟がある。
村から届いた相談札がある。
白百合の符丁を見抜いたミラの記録がある。
香油に反応したイアンの症状記録がある。
そして、ここで必要とされているという実感がある。
だから、王都の過去が馬車に乗って近づいてきても、足元すべてが崩れるわけではなかった。
「顔色は悪くないな」
ベルンが医務棟の奥から言った。
「さっきも確認されました」
「何度でも見る」
「団長みたいですね」
「不愉快なことを言うな」
そう返しながらも、ベルンは薬棚の確認を続けている。実際には、リシェルを気遣っているのだろう。言葉は相変わらず刺々しいが、その不器用さにはもう慣れていた。
トーマスは来訪帳を抱えて、どこか落ち着かない様子で戸口を見ている。
「リシェルさん、本当に大丈夫ですか」
「ええ」
「無理してません?」
「少しはしているかもしれないけれど、倒れるほどじゃないわ」
「それ、大丈夫って言わない気がします」
トーマスが真面目な顔で言うので、リシェルは少し笑ってしまった。
「じゃあ、少し緊張しています」
「それなら分かります」
彼はほっとしたように頷いた。
その反応があまりに素直で、胸の奥が少し温かくなる。
王都では、緊張していると認めることさえ難しかった。弱みを見せれば、誰かがそこへ意味をつける。泣けば同情されるが、泣かなければ冷たいと言われる。怒れば醜いと言われ、黙れば認めたことにされる。
けれどここでは、緊張していると言えば、それをそのまま受け止めてくれる人がいる。
それだけで、呼吸がしやすかった。
正門の鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
王都の客が到着した合図。
リシェルは帳面を閉じた。
ベルンが短く言う。
「行け」
「はい」
「胸を張れ。背中を丸めると、王都の連中はすぐ“弱っている”と決める」
「先生」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。事実を言っただけだ」
リシェルは微笑み、医務棟を出た。
正門前には、すでにアルヴェインが立っていた。
黒い外套の裾を風に揺らし、背筋をまっすぐ伸ばしている。その隣にはガレス。少し離れて、兵たちが整列している。
リシェルは、アルヴェインの少し後ろではなく、彼の斜め横に立つ位置へ進んだ。
その時、アルヴェインがこちらを一度だけ見た。
「無理はするな」
低い声。
「はい」
「だが、下がりたければいつでも言え」
「下がりません」
即答すると、彼はほんのわずかに目を細めた。
「そう言うと思った」
その短いやり取りだけで、足元がさらに安定する。
門の外から、馬車の車輪の音が近づいてきた。
最初に見えたのは、控えめな装飾の馬車だった。豪奢ではない。だが、扉に刻まれた紋章は、リシェルがよく知るものだ。
レヴェント公爵家。
胸の奥に、古い痛みが静かに走る。
馬車が止まり、護衛が先に降りる。続いて、マティアスが姿を見せた。彼はリシェルを見つけると、深く頭を下げる。
最後に降りてきたのは、エドガーだった。
以前と同じ金茶の髪。王都の男らしい整った外套。背筋も、所作も、公爵家嫡男として申し分ない。けれど、記憶の中の彼より少し疲れて見えた。
リシェルは、その顔を見た瞬間、自分の心が完全には凍っていないことを知った。
怒りだけではない。
痛みだけでもない。
懐かしさとも違う。
かつて大切だったはずの人が、もう自分の隣に立つ人ではなくなったのだと、はっきり分かる感覚だった。
エドガーは雪の上に立ち、最初にアルヴェインへ目を向けた。
「突然の訪問をお許しいただき、感謝します。レヴェント公爵家のエドガーです」
声は、王都で聞いていたものより少し硬かった。
アルヴェインは短く頷く。
「北西辺境騎士団長、アルヴェインだ」
肩書きだけの挨拶。
余計な歓迎はない。
それでも、エドガーは不快感を表に出さなかった。むしろ、相手の雰囲気を測るようにわずかに目を細める。
その視線が、やがてリシェルへ移った。
「……リシェル」
名を呼ばれた。
胸の奥が、ほんの少しだけ震えた。
けれどリシェルは、礼を崩さなかった。
「お久しぶりです、エドガー様」
王都の婚約者としてではない。
砦の医務担当としての距離を保った声。
エドガーは、それに気づいたようだった。
彼の表情がわずかに揺れる。
「元気そうで……よかった」
その言葉は、想像していたより不器用だった。
もっと高圧的に来るかもしれないと思っていた。あるいは、謝罪を急ぐか、弁明を並べるか。
けれど彼は、ただそう言った。
元気そうでよかった、と。
「こちらの皆さんに助けていただいています」
リシェルはそう答えた。
「医務棟で仕事もありますので」
「仕事……」
エドガーの視線が、彼女の抱えている帳面へ落ちる。
そこにあるのは、装飾のない実務帳だ。白百合の写し、香油の記録、薬草相談の控え。王都の舞踏会に持っていくようなものではない。
エドガーはしばらくその帳面を見ていた。
そして、ゆっくり言った。
「本当に、ここで働いているんだな」
リシェルは少しだけ首を傾げた。
「マティアスから聞いていませんでしたか」
「聞いた。だが……見るのとは違う」
その声には、苦さがあった。
リシェルは返答に迷った。
何と言えばいいのだろう。
そうです、とだけ言えば突き放すように聞こえる。
違います、と言う理由はない。
昔のように、彼の気まずさを先回りして和らげる必要もない。
結局、リシェルは事実だけを言った。
「ここでは、することが多いのです」
エドガーは小さく頷いた。
「そうか」
その一言は、雪の中へ落ちて消えた。
応接棟へ通されたエドガーは、王都から来た貴族としては驚くほど静かだった。
豪奢なもてなしを求めることもなく、出された薬草茶にも文句を言わなかった。ただ、室内の粗い石壁や、机に積まれた記録束、窓の外で動く兵たちを、慎重に見ていた。
アルヴェインは机の向こう側に座らず、窓際に立った。
リシェルは帳面を持って、少し離れた位置に立つ。
ガレスは壁際。マティアスはエドガーの後ろに控えている。
沈黙を破ったのは、エドガーだった。
「聖女派の香油について、報告を読みました」
「なら話が早い」
アルヴェインが答える。
「この砦では、あの香油の使用を禁じた」
「妥当だと思います」
エドガーがそう言ったので、リシェルは思わず彼を見た。
アルヴェインも、少しだけ目を細める。
エドガーは手袋を外しながら続けた。
「少なくとも、症状が出た以上、成分不明のものを使うべきではありません。神殿が秘法を理由に成分を出さないなら、なおさらです」
その言葉は、リシェルが言ったこととほとんど同じだった。
王都側からそれが出るとは思わなかった。
「……その判断を、王都でもなさる方がいるのですね」
リシェルの声には、少しだけ皮肉が混じった。
自分でも分かった。
エドガーも気づいたらしい。彼は一瞬だけ目を伏せた。
「遅いと思う」
静かな言葉だった。
「君なら、もっと早くそう言っただろう」
その呼び方に、リシェルは少しだけ胸が痛んだ。
君。
かつて当たり前に呼ばれていた距離。
でも今は、少し遠い。
「私は、ここでそう言いました」
リシェルは答えた。
「そして、ここでは聞いてもらえました」
部屋の空気が、わずかに張りつめる。
エドガーは唇を引き結んだ。
その言葉が何を意味するか、分からないはずがない。
王都では聞かなかった。
あなたは聞かなかった。
そう言っているのだから。
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「……そうだな」
その返答は、かつての彼からは考えられないほど小さかった。
リシェルは少しだけ驚いた。
反論されると思っていた。
言い訳されるか、話を逸らされると思っていた。
けれど、彼は認めた。
それが余計に、胸のどこかを揺らした。
アルヴェインが静かに口を開く。
「エドガー殿。今回の来訪目的は、リシェルとの面会か。それとも聖女派の動きの確認か」
言葉は丁寧ではある。
だが、刃のようにまっすぐだった。
エドガーはアルヴェインを見る。
初めて、二人の視線が正面からぶつかった。
王都の公爵家嫡男。
辺境の騎士団長。
そして、王位継承に近い血を持つ男。
立場も背負うものも違う。
だが、今この場で二人の間にあるものはもっと単純だった。
リシェルをどう見るか。
その一点だった。
「両方です」
エドガーは答えた。
「聖女派の動きに疑念があります。そして、リシェルにも……話すべきことがあると思っています」
アルヴェインの目が冷えた。
「彼女が望めば、だ」
即座にそう言った。
エドガーの眉が少し動く。
かつてなら、その言葉に不快感を示したかもしれない。自分の元婚約者に会うのに、なぜ別の男の許しがいるのか、と。
だが今、彼はリシェルへ視線を向けた。
「……リシェル。君が望まないなら、今は話さない」
リシェルは、静かに息を吸った。
二人の男の視線が、自分へ向いている。
だが、不思議と圧迫感はなかった。
選ぶのは自分だ。
アルヴェインはそのために立っている。
エドガーも、少なくとも今は、それを認めようとしている。
リシェルはゆっくり口を開いた。
「今は、医務担当としてお話しします」
エドガーの目が少し揺れる。
「個人的な話は、まだできません」
「……分かった」
「聖女派の香油、偽薬草、白百合の符丁について、王都で知っていることがあるなら教えてください。それが、今の私に必要な話です」
エドガーは、しばらく黙っていた。
その後、小さく頷く。
「分かった。俺が知っている範囲で話す」
リシェルは帳面を開いた。
それはもう、王都の元婚約者と再会した令嬢の仕草ではなかった。
砦の医務・補給連携担当として、必要な証言を取る者の手つきだった。
エドガーはその姿を見て、ほんのわずかに息を呑んだ。
聞き取りは、思ったより長く続いた。
エドガーは聖女派について、すべてを知っているわけではなかった。むしろ、以前はほとんど疑っていなかったという。
けれど最近になって、いくつか不自然な点に気づいた。
リシェルの断罪前後に、セシリアの周囲へ出入りする神殿関係者が増えていたこと。
レヴェント家の一部使用人が、リシェルに不利な噂を外へ漏らしていた可能性。
偽の手紙について、筆跡を確認した者が曖昧な証言をしていたこと。
そして、聖女派支援会が辺境への薬草流通に触れようとしていたこと。
リシェルは一つずつ記録した。
途中、何度か手が止まりそうになった。
自分の断罪が、やはりただの感情の爆発ではなかったと分かっていくからだ。
だが、止めなかった。
ここで止めたら、また見えないものにされる。
エドガーも、途中で何度も言葉に詰まった。
特に、偽の手紙の話に触れた時、彼は目に見えて苦しそうだった。
「俺は、あの手紙を……君が書いたものだと思った」
「筆跡を見たのですか」
「ああ。だが、今思えば、似せられていた。確認が甘かった」
リシェルは筆を止めずに問う。
「なぜ、私に直接確認しなかったのですか」
その問いは静かだった。
けれど、部屋の中で最も鋭かった。
エドガーは答えられなかった。
長い沈黙。
やがて、彼は低く言った。
「セシリアが泣いていた」
リシェルの胸が、少しだけ痛んだ。
「だから?」
「……だから、君が問い詰めれば、さらに彼女を傷つけると思った」
「私の話を聞くことは、彼女を傷つけることだったのですか」
エドガーは顔を上げられなかった。
リシェルは筆を置いた。
怒鳴らなかった。
ただ、静かに言った。
「そうやって、私はあの夜、話す前に悪者になったのですね」
エドガーの手が震えた。
「リシェル」
「今は、記録を続けます」
リシェルは再び筆を取った。
その横で、アルヴェインはずっと黙っていた。
ただ一度だけ、エドガーを見る目が鋭くなった。
けれど、口は挟まなかった。
リシェルが自分で立っていることを、尊重してくれているのだと分かった。
それが、何より支えになった。
聞き取りが終わる頃には、外は夕暮れに近づいていた。
窓の外では雪が細かく降り始めている。
エドガーは疲れた顔をしていた。リシェルも同じくらい疲れていた。
それでも、必要なことは聞けた。
「今日の記録は、砦側で保管します」
リシェルが言うと、エドガーは頷いた。
「構わない」
「王都へ送る正式報告に使う可能性もあります」
「ああ」
「その時、あなたの証言として出します」
エドガーは一瞬だけ目を伏せた。
それから、覚悟したように答える。
「それでいい」
変わった。
そう思った。
少なくとも、あの夜の彼とは違う。
けれど、それだけで過去が消えるわけではない。
リシェルは帳面を閉じた。
「エドガー様」
名を呼ぶと、彼は顔を上げた。
「はい」
妙に丁寧な返事だった。
以前の彼なら、こんなふうには答えなかっただろう。
「今日は、ここまでにしてください」
「……ああ」
「個人的な話は、まだできません」
「分かっている」
本当に分かっているのかどうかは分からない。
でも、少なくとも今は引いてくれた。
エドガーは椅子から立ち上がり、リシェルを見た。
その目には、言いたいことが山ほどあるようだった。
謝罪。
後悔。
戸惑い。
懐かしさ。
けれど結局、彼は一つだけ言った。
「本当に、変わったな」
その声は、責めるものではなかった。
驚きと、寂しさと、少しの敬意が混じっていた。
リシェルは静かに答えた。
「変わらなければ、生きられませんでした」
エドガーは何も言えなかった。
アルヴェインが、リシェルの少し後ろに立っている。
その気配を感じながら、リシェルはもう一度だけ元婚約者を見た。
王都で捨てられた自分は、ここで変わった。
そして、その変化を最初に目の当たりにした過去の人は、雪の砦で言葉を失っていた。




