第39話 エドガー、辺境へ向かう
王都に届いた報告書は、香りをまとっていなかった。
白百合の押し花も、聖女候補の柔らかな言葉も、祈りを飾る金の縁取りもない。ただ、必要なことだけが、冷たく、正確に並べられていた。
聖女派支援物資として北西辺境補給砦へ届けられた祈祷済み香油。
それに触れた兵に発熱、発汗、頭重感、幻覚症状が現れたこと。
香油の瓶底に、神殿内部の医療用調合印と思われる刻印があったこと。
成分表の提出を求めたが、神殿側の補祭が秘法を理由に拒否したこと。
よって、北西辺境補給砦では当該香油を使用禁止としたこと。
署名は二つあった。
北西辺境騎士団長、アルヴェイン。
医務・補給連携担当、リシェル・フォルディア。
エドガー・レヴェントは、その署名を見たまま、しばらく動かなかった。
執務室の暖炉はよく燃えている。外は冬の曇り空だが、室内は十分に暖かい。机の上には温かな紅茶もある。けれど、その紅茶には手を伸ばす気になれなかった。
リシェルの名がある。
自分が婚約を破棄した女の名が。
悪役令嬢として断罪され、辺境へ送られたはずの女が、今は正式な報告書に署名している。
しかも、内容は私怨でも弁明でもない。
香油に触れた兵の症状。瓶底の印。成分表の提出拒否。使用禁止の判断。
ひとつひとつが、妙に彼女らしかった。
細かい。
冷静。
逃げ道を潰すように、事実を積む。
かつてのエドガーは、そんな彼女を窮屈だと思っていた。
茶会の日程、客人の好み、侍女の体調、贈答の順番。何かにつけて彼女は細かな記録を持ち出した。エドガーが「そこまで必要か」と言えば、リシェルはいつも少しだけ目を伏せて、それでも「後で困らないためです」と答えた。
その言い方が、気に入らなかった。
自分が困る前提で話されているようで。
自分の判断が足りないと言われているようで。
だから、耳を貸さなかった。
そして今、彼女のその細かさが、辺境で人の命を守っている。
「……馬鹿馬鹿しい」
口から漏れた言葉は、誰に向けたものか分からなかった。
リシェルへではない。
報告書へでもない。
たぶん、自分へだ。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、執事長だった。
白髪交じりの老執事は、いつもと同じように静かに一礼する。表情は変わらない。だが、エドガーには最近、その沈黙が以前よりずっと重く感じられるようになっていた。
「坊ちゃま。神殿側より、先ほどの報告について問い合わせが届いております」
「問い合わせ?」
「北西辺境側の判断は過剰であり、聖女候補様への敬意を欠くのではないか、と」
エドガーは短く笑った。
自分でも驚くほど、冷たい笑いだった。
「兵が幻覚を見たという報告に対して、まず言うのが敬意か」
執事長は答えなかった。
答えないことが、肯定に近かった。
エドガーは報告書を机に置き、椅子の背にもたれた。
「セシリアは、この件を知っているのか」
「おそらくは」
「おそらく?」
「聖女派内部では、すでに報告が回っているようです」
聖女派。
その言葉を聞くたび、最近のエドガーは胸の奥にざらつきを覚える。
以前は違った。
聖女派とは、清廉な者たちだと思っていた。神殿、祈り、慈悲、救済。セシリアを支える人々。弱き者のために動く者たち。
そう信じていた。
だが、辺境から届く報告は、その白い布の裏側に違う色があることを示し始めている。
偽薬草。
白百合の符丁。
祈祷済み香油。
成分表の提出拒否。
幻覚を起こした兵。
そして、そのすべての近くにリシェルがいる。
いや、違う。
リシェルがいるから、見つかったのだ。
彼女がいなければ、偽薬草は村へ入り、香油は負傷兵に使われ、何かが起きた後で“辺境の未熟さ”として処理されていたかもしれない。
そう考えた瞬間、エドガーは奥歯を噛んだ。
「執事長」
「はい」
「俺は、辺境へ行く」
老執事は、驚かなかった。
まるで、その言葉を待っていたように、静かに目を伏せる。
「いつご出立を」
「早いほうがいい。三日以内に」
「旦那様へのご説明は」
「俺がする」
「セシリア様へは」
その名が出た時、エドガーは少しだけ黙った。
セシリア。
以前なら、真っ先に知らせただろう。彼女が心配するから。彼女に隠し事をしたくないから。彼女が涙を浮かべて「どうかお気をつけて」と言えば、それだけで自分の決断は正しいのだと思えた。
だが今は、違った。
「……まだ知らせるな」
執事長の眉が、ほんのわずかに動いた。
「よろしいのですか」
「今知らせれば、聖女派にも伝わる」
「承知しました」
短い返事。
その沈黙の中に、執事長なりの理解があった。
エドガーは机の上に散らばった書類を見た。
冬期贈答の失敗。
侍女の体調管理の乱れ。
茶葉の配合表の欠落。
聖女派の支援物資に関する報告。
マティアスが持ち帰った辺境の様子。
どれも、リシェルがいなくなってから見えるようになったものだ。
自分は、彼女を見ていなかった。
その事実は、もう否定できない。
「坊ちゃま」
執事長が静かに言った。
「辺境へ向かわれる理由を、どのように公にされますか」
「北西辺境の医療支援状況を確認するため」
「公爵家として?」
「いや」
エドガーは少し考え、首を振った。
「俺個人として行く」
「それでは、政治的には弱くなります」
「構わない」
むしろ、それでよかった。
公爵家の威光を背負って行けば、リシェルはまた“王都から来た権力”として自分を見るだろう。
それは嫌だった。
いや、嫌だと思う資格が自分にあるのかどうかすら分からない。
それでも、今さら公爵家の名で彼女を押さえつけるような真似だけはしたくなかった。
「俺は、確かめたいだけだ」
エドガーは小さく言った。
「自分が、何を見落としたのか」
執事長は深く頭を下げた。
「では、そのように準備を進めます」
セシリアがその動きを知ったのは、翌日の午後だった。
離宮の温室には、相変わらず白百合が咲いている。
昨日折れた花はすでに片づけられ、花瓶には新しいものが挿されていた。白く、清らかで、傷ひとつない花。
セシリアは、その花の前で侍女から報告を受けた。
「エドガー様が、辺境へ?」
声は柔らかかった。
だが、侍女はその柔らかさに怯えたように頭を下げる。
「はい。正式な公務ではなく、個人的な確認とのことで……」
「誰から聞いたの」
「レヴェント家の下働きと、馬車の手配をした者からでございます」
セシリアは微笑んだ。
「そう。下がって」
侍女が部屋を出る。
扉が閉まると同時に、セシリアの笑みが消えた。
エドガーが、辺境へ行く。
リシェルに会うために。
胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。
どうして。
なぜ今さら。
あの夜、彼は自分を守った。リシェルを断罪し、婚約を破棄し、セシリアの涙を信じた。あの時のエドガーは、間違いなく自分のものだった。
それなのに。
今になって、彼はリシェルを見ようとしている。
リシェルが辺境でどう立っているのかを、自分の目で確かめようとしている。
「……いけないわ」
呟きは、温室の白い花々に吸い込まれた。
エドガーが辺境へ行けば、何を見るだろう。
砦で働くリシェル。
彼女を頼る兵や村人。
彼女を守るように立つアルヴェイン。
そして、あの夜の自分たちの正しさが、どれほど脆かったか。
見てしまうかもしれない。
セシリアは花瓶の白百合を一本抜いた。
指先に力が入る。
花弁が少し潰れた。
「私は、悪くないのに」
その声は、昨日よりも小さかった。
扉が叩かれる。
オルグレン司祭だった。
「セシリア様。エドガー殿が辺境へ向かう件、お聞きになりましたか」
「ええ」
セシリアはすぐに微笑みを戻した。
「心配ですわ。辺境は寒く、危険な場所ですもの」
「その通りです」
司祭は穏やかに頷く。
「ですが、止めるのは難しいでしょう。すでに準備が進んでいます」
「では、どうなさいますの?」
「別働きを出します」
その言葉に、セシリアは目を上げた。
「別働き?」
「辺境へ向かう道は一本ではありません。エドガー殿より先に、あるいは同時に、こちらの者を動かします」
セシリアの指先が、白百合の茎を撫でる。
「何をさせるのですか」
「確認を」
司祭は微笑んだ。
「リシェル嬢が本当に、辺境でそこまで価値ある者なのか。アルヴェイン団長が本当に、彼女をどこまで守るつもりなのか」
「もし、守るつもりなら?」
「ならば、揺らせばよろしい」
司祭の声は穏やかだった。
あまりにも穏やかで、かえって寒気がするほどだった。
「人は、守りたいものがある時ほど、判断を誤ります」
セシリアは少し黙った。
それは、今の自分にも向けられているように聞こえたからだ。
けれど、すぐに微笑む。
「エドガー様には、怪我をさせないでくださいね」
「もちろんです」
「私は、誰かが傷つくことを望んでいるわけではありませんもの」
「承知しております」
司祭は深く頭を下げた。
その礼を見ながら、セシリアは思った。
そうだ。
自分は悪くない。
ただ、正しい場所へ戻したいだけだ。
エドガーも。
アルヴェインも。
リシェルも。
リシェルは辺境で必要とされる女ではなく、王都で裁かれた女でなければならない。
でなければ、あの夜の自分が間違いになる。
それだけは、認められなかった。
エドガーが出発したのは、三日後の夜明けだった。
馬車は豪奢なものではない。公爵家の紋は入っているが、目立つ装飾は極力控えた。随行はマティアス、護衛二人、御者一人。それだけ。
執事長は玄関前で静かに頭を下げた。
「どうかお気をつけて」
「ああ」
エドガーは外套の襟を直し、馬車へ乗る前に屋敷を振り返った。
この屋敷は、こんなに広かっただろうか。
リシェルがいた頃は、もっと人の動きが滑らかだった。朝の茶も、来客の準備も、贈答の返礼も、静かに流れていた。今は、広さばかりが目につく。
空白が多い。
そこに彼女がいたのだと、今さら気づく。
マティアスが馬車の扉を開けた。
「坊ちゃま」
「行くぞ」
馬車が動き出す。
王都の石畳を抜け、貴族街を出て、北へ向かう街道へ入る。
エドガーは窓の外を見ていた。
初めて辺境へ向かうわけではない。だが、今回は違う。視察でも狩猟でもない。自分の過去へ向かっているような感覚があった。
リシェルに会って、何を言うのか。
考えても、答えは出ない。
すまなかった、と言えば済むのか。
知らなかった、と言えば許されるのか。
セシリアに騙されていたかもしれない、と言えば、自分の罪は軽くなるのか。
どれも違う気がした。
自分は、聞かなかったのだ。
リシェルの言葉を。
あの夜だけではない。もっと前から。
細かな注意を、面倒だと思った。
静かな忠告を、可愛げがないと思った。
整えられた日々を、当然だと思った。
その積み重ねの先に、あの夜があった。
馬車の揺れの中で、エドガーは目を閉じた。
断罪の広間が浮かぶ。
白い顔のリシェル。
涙を浮かべるセシリア。
怒りに任せた自分の声。
――君との婚約は、ここで破棄する。
あの時は、正義だと思っていた。
今は、その声を思い出すだけで、胸が苦しくなる。
「坊ちゃま」
向かいに座るマティアスが、控えめに声をかけた。
「顔色が」
「平気だ」
「無理をなさらないでください」
その言葉に、エドガーは苦く笑った。
「それは、リシェルがよく言っていた」
マティアスは目を伏せる。
「はい」
「俺は、聞かなかった」
小さく吐き出す。
それだけで、馬車の中は重く静まり返った。
しばらくして、マティアスが言った。
「今からでも、聞くことはできるかもしれません」
エドガーは目を開けた。
「彼女が、聞かせてくれるならな」
「はい」
「聞かせてくれなければ?」
マティアスは少し考えた。
「それでも、見たものを受け止めるしかないかと」
エドガーは窓の外へ視線を戻した。
王都の建物は遠ざかり、街道の両側には冬枯れの畑が広がっている。
受け止める。
それができるかどうか、自信はなかった。
けれど、行くと決めたのは自分だ。
一方、王都の別の門から、もう一台の馬車が静かに出ていた。
白百合の紋はない。
神殿の印もない。
ただの商人風の荷馬車に見える。
だが、荷台の奥には、白い布で包まれた小箱がいくつか積まれていた。
乗っている男たちは、商人にしては口数が少ない。
そのうち一人が、懐から小さな紙片を取り出した。
そこには、北西辺境補給砦までの道筋と、いくつかの村の名が書かれている。
そして紙の端には、ごく小さな白百合の印。
男はそれを火にかざし、燃やした。
灰が風に散る。
馬車は、エドガーとは別の道を選ぶように北西へ向かった。
同じ頃、北西辺境補給砦では、リシェルが香油の保管棚を確認していた。
使用禁止の札は、まだしっかり結ばれている。
イアンの症状記録も、王都へ送る報告書の写しも、すでに整えてある。
アルヴェインは午前の巡回で外に出ている。ガレスは補給路の見直し。ベルンは薬草講習の準備。トーマスは村から来た相談札を整理している。
いつもの砦。
けれど、空気のどこかに次の波の気配があった。
「リシェルさん」
トーマスが帳面を持って近づく。
「北の中継地から、王都方面の馬車が二台出たって知らせです」
「二台?」
「はい。一台はレヴェント公爵家っぽいって。もう一台は商人風で、でも村の人が“ちょっと妙だった”って」
リシェルの手が止まる。
レヴェント公爵家。
エドガーが来る。
そして、もう一台。
胸の奥が冷える。
「団長に知らせましょう」
「はい」
トーマスが走り出す。
リシェルは窓の外を見た。
雪は静かに降り始めている。
過去が来る。
そして、おそらく罠も。
けれど今度は、何も知らずに待つだけではない。
記録がある。
仲間がいる。
見抜く目がある。
リシェルは香油の棚の札をもう一度確かめ、静かに息を吸った。
「……来るなら、見ます」
誰に聞かせるでもなく呟く。
王都から何が来ても、今度は目を逸らさない。
それだけは、もう決めていた。




