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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第38話 聖女の香油と、辺境の薬師の反論

 翌朝、医務棟には甘い匂いが残っていた。


 花の匂いだ。


 白百合に似せた、清らかで、やさしくて、どこか人を安心させるように調整された香り。


 けれどリシェルには、それがひどく不気味に感じられた。


 毒草のように露骨ではない。

 腐敗臭のように危険を知らせてもくれない。

 むしろ近づきたくなるほど整っている。


 だからこそ、たちが悪い。


 医務棟の奥では、香油に触れて症状を起こした兵イアンが寝台で休んでいた。夜のうちに熱は下がり、幻覚も収まったが、まだ少し顔色が悪い。


「気分はどう?」


 リシェルが声をかけると、イアンは申し訳なさそうに目を伏せた。


「すみません。勝手に触って」


「今は謝るより、症状を教えて」


「あ、はい。ええと……頭の奥が重いです。でも、昨日みたいに花の匂いが追いかけてくる感じはなくなりました」


「目は?」


「ぼやけません」


「耳は?」


「普通に聞こえます」


「変なものは見える?」


「見えません。団長が血だらけに見えたのも、今考えると何でそんなもの見たのか……」


 イアンはそこまで言って、気まずそうに口を閉じた。


 アルヴェインの古傷のことを知らない兵にとって、昨日の幻覚はただの悪夢のようなものだろう。だがリシェルにとっては、看過できない共通点だった。


 香油。

 白百合の匂い。

 熱。

 幻覚。

 そして、アルヴェインの古傷を思わせる赤い雪の幻。


 偶然で片づけるには、引っかかるものが多すぎる。


「無理に思い出さなくていいわ」


 リシェルは記録へ書き込みながら言った。


「ただ、あとで何か思い出したら教えて」


「はい」


 イアンは素直に頷く。


 寝台の脇では、ベルンが香油の瓶を睨んでいた。


「毒じゃないな」


「ええ」


「だが薬でもない」


「はい」


「祈りでもない」


 昨日も同じようなことを言っていたが、今朝の声はさらに低かった。


 リシェルは机に置いた瓶を見た。


 瓶の封は切られている。だが、使用はしていない。指先にごく少量触れただけで症状が出た以上、傷口への使用など論外だった。


「先生、これを少しだけ紙に染み込ませても?」


「換気しろ。素手で触るな。あと、その顔で無茶をするな」


「その顔?」


「“少しくらいなら自分で試しても”と考えてる顔だ」


 リシェルは一瞬黙った。


 考えていなかったと言えば嘘になる。


 ベルンは盛大に鼻を鳴らした。


「やめろ。お前が倒れたら、団長が面倒なことになる」


「団長が、ですか」


「医務棟もだ」


「順番が逆では」


「似たようなものだ」


 リシェルは返答に困った。


 ちょうどその時、医務棟の戸が開いた。


 噂の本人が立っていた。


 アルヴェインは黒い外套の肩に雪を乗せたまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。表情はいつも通り静かだが、昨夜からの怒りはまだ薄く残っていた。


「状態は」


「イアンの熱は下がりました。幻覚も今はありません。ただ、頭重感が少し」


「香油は」


「これから調べます。ただし、皮膚には触れません」


 先にそう言うと、アルヴェインはリシェルをじっと見た。


「なぜ先に言った」


「言われると思ったので」


「なら分かっているな」


「はい」


 ベルンが横で低く笑った。


「すっかり扱いを覚えたな」


 リシェルは聞こえないふりをした。


 アルヴェインは机の上の瓶へ目を落とす。


「デュラン補祭が、正式な説明を求めている」


「こちらも説明が必要です」


「ああ。昼前に小会議室で行う」


「分かりました」


「お前が出るか」


 問いの形をしていた。


 以前なら、アルヴェインは「出るな」と言ったかもしれない。だが今は違う。こちらの意思を確かめている。


 リシェルは背筋を伸ばした。


「出ます。医務担当として、この香油の危険性を説明します」


「相手は祈りの話に持ち込む」


「なら、私は症状の話をします」


 アルヴェインの目がわずかに細くなる。


「いい答えだ」


 それだけで、胸の奥が少し温かくなった。


 ベルンが香油の瓶を布で包みながら言う。


「儂も行く。祈りだろうが何だろうが、具合の悪くなる油を医務棟に置かれては困る」


「助かります」


「礼を言うな。腹が立ってるだけだ」


 その声は本当に不機嫌だった。


 けれどリシェルは知っている。


 ベルンは、患者を危険に晒すものを何より嫌う。


 それが王都の高価な品であろうと、聖女の祈りをまとっていようと、関係ない。


 辺境の医務棟では、効くか、効かないか。

 安全か、危険か。

 まずそこを見る。


 その単純で厳しい基準が、今は何より頼もしかった。


 小会議室に、香油の瓶が並べられた。


 聖女派から届いた香油は全部で十二本。そのうち一本が封を切られている。残りは未開封のまま、白百合の封蝋を残していた。


 机の反対側には、デュラン補祭が座っている。


 彼の顔には、昨日より明らかな不満が浮かんでいた。表面上は礼儀正しい。だが、その目は「理不尽な疑いをかけられている」と言いたげだった。


 隣には神殿の補祭がもう一人。書記役らしく、紙と筆を持っている。


 砦側は、アルヴェイン、ガレス、ベルン、リシェル。


 リシェルの前には、イアンの症状記録と、香油の観察記録が置かれていた。


 最初に口を開いたのはデュランだった。


「まず申し上げます。あの香油は、聖女候補セシリア様の祈りを受け、神殿で清められたものです。辺境の兵の皆様を思って送られた支援物資であり、疑いを向けられるのは非常に残念です」


 言葉は丁寧だった。


 声も荒げていない。


 だが、場の空気を“疑った側が悪い”方向へ持っていこうとしているのは明らかだった。


 リシェルは記録紙へ目を落とし、それから顔を上げる。


「お気持ちは承知しました」


 まず、そう答えた。


 デュランは少しだけ顎を引く。


「では」


「ですが、昨日、香油に少量触れた兵に症状が出たことも事実です」


 リシェルは紙を一枚前へ出した。


「発熱、発汗、頭重感、聴覚の遠さ、白い花の匂いが残る感覚、そして軽い幻覚。傷口ではなく、手首付近の皮膚へ少量触れただけです。洗い流しも早かった」


 書記が筆を止めた。


 デュランの表情が少し硬くなる。


「その兵が元々体調を崩していた可能性は?」


「朝の医務記録では異常なし。午前中は荷下ろしにも参加しています。脈、顔色、会話、いずれも通常でした」


「香油以外の要因は?」


「もちろん完全には否定しません。ですから、断定ではなく使用停止を求めています」


「使用停止」


「はい」


 リシェルはまっすぐにデュランを見た。


「安全性が確認できるまで、この砦の患者には使えません」


 デュランは息を吐いた。


「リシェル様。あなたは医務に携わっておられるそうですが、神殿の祈祷薬についてはご存じないのでは?」


 柔らかい言い方だった。


 だが、その中身ははっきりしている。


 素人が口を出すな。


 そう言っている。


 ガレスが眉を動かした。


 アルヴェインの目が冷える。


 しかしリシェルは、先に答えた。


「はい。神殿の秘法は存じません」


 デュランが少しだけ勝ち誇ったような顔になる。


「でしたら」


「ですから、成分表をお願いします」


 リシェルは静かに続けた。


 デュランの表情が止まる。


「神殿の秘法を私が知らないなら、なおさら確認が必要です。どの薬草を用い、どの香料を混ぜ、どのような体質の方に禁忌があるのか。分からないものを患者へ使うことはできません」


「秘法を外へ出すことはできません」


「では、使えません」


 同じ言葉を、もう一度言った。


 今度は場全体に響いた。


 デュランの頬がわずかに赤くなる。


「それは、聖女様の祈りを拒むということですか」


「違います」


 リシェルは揺れなかった。


「患者の体を守るということです」


「祈りは人を守ります」


「祈りで熱は測れません。祈りで脈は取れません。祈りで幻覚の有無は記録できません」


 言った瞬間、部屋が静かになった。


 自分でも少し強く言いすぎたかと思った。


 だが、撤回する気はなかった。


 ベルンが腕を組んだまま、低く言う。


「良いことを言う」


 デュランがベルンを見る。


 老人は容赦なく続けた。


「祈るなとは言わん。祈りたい者は祈ればいい。だが薬として使うなら、薬として見る。それだけだ」


「あなたは」


「ここの薬師だ」


 ベルンは短く言った。


「そして昨日、その香油に触れた若いのが幻を見た。儂はそれを見た。だから止める」


 デュランは今度こそ言葉に詰まった。


 アルヴェインがそこで静かに口を開いた。


「デュラン補祭」


「……はい」


「この砦では、支援物資を受け取ること自体は拒まない。毛布、包帯、通常薬草は確認のうえ使う。だが香油は封じる」


「王都へ報告します」


「しろ」


 アルヴェインの声に揺らぎはなかった。


「こちらも報告する。香油の使用により兵に症状が出たこと。成分開示を求めたが拒否されたこと。よって使用停止にしたこと」


 デュランの表情がさらに強張る。


 事実だけを並べられると、王都の言葉は急に不自由になる。


 リシェルは、そのことを改めて感じていた。


 感情で責めれば、相手は祈りや善意で受け流す。

 けれど事実を並べれば、簡単には逃げられない。


「最後に一つ」


 リシェルは机の上の瓶を見た。


「この香油は、香りが強すぎます。負傷兵や熱のある患者には刺激になる可能性があります。特に幻覚症状を起こしやすい方、過去に王都系香油で気分を悪くした方、古傷に異常反応がある方には禁忌とします」


 古傷。


 その言葉に、アルヴェインの視線が一瞬だけリシェルへ向いた。


 デュランは気づかなかったようだが、ガレスは気づいた。


「禁忌という言葉を使うのですね」


 デュランが低く言う。


「はい」


「聖女様の香油に」


「患者に危険があるなら」


 リシェルは穏やかに答えた。


「どなたの香油でも」


 その一言で、話は終わった。


 会議後、香油は補給庫ではなく、医務棟横の隔離保管棚へ移された。


 棚にはリシェルの字で大きく札が貼られた。


 未確認香油。使用禁止。直接触れないこと。


 トーマスがその札を見て、少し緊張した顔で言った。


「聖女様の支援物資に、ここまで書いていいんですか」


「書かないと、間違えて使う人が出るから」


「でも、王都の人が見たら怒りません?」


「怒るかもしれないわね」


 リシェルは札の紐を結び直した。


「でも、使って倒れる人が出るよりいい」


 トーマスはしばらく黙って、それから大きく頷いた。


「そうですね」


 少し前なら、彼も王都の名や聖女の名に気圧されていたかもしれない。けれど今は、何を優先すべきか少しずつ分かってきている。


 それが、リシェルには嬉しかった。


 ベルンが横で言う。


「香油の一部を残して調べる。瓶底も見ておけ」


「瓶底?」


「昨日は症状で手一杯だったろう」


 言われて、リシェルは慎重に一本を布で包み、光へかざした。


 瓶底には、神殿の製造印らしきものが刻まれている。白百合とは別の印。小さな円の中に、三つの滴と、細い杖のような線。


「……これは」


 ベルンが目を細めた。


「神殿内部の調合印だな」


 アルヴェインとガレスも近づいてきた。


「分かるのか」


 ガレスが問う。


 ベルンは嫌そうな顔をした。


「昔、王都の神殿薬師と仕事をしたことがある。あまり思い出したくないがな」


「どんな意味の印ですか」


 リシェルが尋ねると、ベルンは瓶底を睨んだまま言う。


「祈祷用ではなく、医療用調合を示す印だ。つまりこれは、ただ祈って清めた油じゃない。何かを調合している」


 部屋の空気が変わった。


 リシェルは瓶を持つ手に力を入れそうになり、慌てて緩めた。


「つまり、成分表があるはずですね」


「ある」


 ベルンは断言した。


「少なくとも、神殿のどこかにはな」


 ガレスが低く吐き捨てる。


「秘法だから出せない、か。便利な言葉だ」


 アルヴェインは瓶底の印を見つめていた。


 その顔は静かだったが、目だけが冷たい。


「写しを取れ」


「はい」


 リシェルはすぐに紙を用意した。


 白百合の符丁。

 王都風の油。

 そして今度は、神殿内部の調合印。


 少しずつ、聖女派の“善意”の裏側が形を持ち始めている。


 夕刻、イアンはだいぶ元気を取り戻した。


 まだ一晩は医務棟で様子を見ることになったが、会話は普通にできる。


「俺、本当に白い花畑にいた気がしたんですよ」


 彼は毛布にくるまりながら、ぽつぽつ話した。


「最初は綺麗だなって思ったんです。でも、どこ歩いても同じ花で、戻れなくて。そしたら雪が赤くなって……団長が倒れてるように見えて」


 リシェルは記録しながら、静かに聞いた。


「声は聞こえた?」


「誰かが祈ってるみたいな声は。何て言ってるかは分かりませんでした」


「匂いは」


「ずっと花の匂いです。甘いのに、喉の奥が苦い感じ」


「ありがとう。よく話してくれたわ」


 イアンは少し照れたように頭を掻いた。


「役に立ちますか」


「とても」


「ならよかったです。俺、ただ油に触っただけで倒れて、迷惑かけたと思ってたんで」


「迷惑じゃないわ」


 リシェルはきっぱりと言った。


「あなたの症状が出たから、使う前に止められたの。傷口に塗っていたら、もっと危なかったかもしれない」


 イアンは少し青ざめた。


「……じゃあ、俺、役に立ったんですね」


「ええ。とても」


 イアンはほっとしたように笑った。


 その笑顔を見て、リシェルは胸が少し痛くなった。


 聖女派は、こういう人たちの体を使って“支援”を試そうとしたのかもしれない。


 あるいは、結果がどうなっても構わないと思っていたのかもしれない。


 どちらにせよ、許せなかった。


 夜、リシェルは香油に関する報告書をまとめた。


 イアンの症状。

 発症時間。

 処置。

 香油の匂い。

 瓶底の神殿調合印。

 成分表の提出拒否。

 使用停止の判断。


 最後に、結論を書く。


 「当該香油は、祈祷品ではなく医療用調合物の可能性が高い。成分不明のため、患者への使用を禁ずる」


 筆を置くと、肩に疲れが来た。


 その時、戸が軽く叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはアルヴェインだった。


 もう夜も遅い。だが彼はまだ外套を脱いでいなかった。おそらく、香油の保管と補祭への対応で動いていたのだろう。


「終わったか」


「はい。ひとまず」


 報告書を渡すと、彼は黙って目を通した。


 読み終えたあと、低く言う。


「強い文だな」


「強すぎますか」


「いや」


 彼は紙を返した。


「必要な強さだ」


 その言葉に、リシェルは少しだけ肩の力を抜いた。


「王都では、こういう書き方は嫌われます」


「ここは王都ではない」


「はい」


「それに」


 アルヴェインは香油の瓶が保管された棚へ目を向けた。


「祈りの名で命を危険に晒すなら、遠慮はいらない」


 リシェルは静かに頷いた。


「私も、そう思います」


「明日、正式に王都へ送る」


「はい」


 少し沈黙が落ちる。


 暖炉の火が小さく鳴った。


「リシェル」


「はい」


「今日はよく耐えた」


 不意にそう言われ、リシェルは目を瞬いた。


「耐えた、ですか」


「聖女の祈りを疑うのかと言われた時、少し顔色が変わった」


 見られていた。


「……昔なら、あれで黙っていました」


「今は黙らなかった」


「はい」


「それでいい」


 昨日も似たようなことを言われた。


 でも、何度言われても胸に沁みる。


「ありがとうございます」


「礼を」


「言います」


 先にそう言うと、アルヴェインは少しだけ目を細めた。


「頑固だな」


「団長ほどでは」


「言うようになった」


 ほんの少しだけ空気が和らぐ。


 リシェルは香油の棚を見た。


 白百合の封蝋がついた瓶たち。


 清らかに見えるものほど、きちんと見なければならない。


 そのことを、今日また学んだ。


「団長」


「何だ」


「この香油の件、まだ終わりませんよね」


「ああ」


「聖女派は、きっと反発します」


「するだろうな」


「それでも、出します」


「出せ」


 即答だった。


「お前の報告は、この砦の判断になる」


 その言葉は重かった。


 けれど、逃げたい重さではない。


 リシェルは静かに頷いた。


「はい」


 祈りとして届いた罠。


 それは今日、医務棟で反論された。

 王都の美しい言葉ではなく、辺境の記録と症状によって。


 明日、その反論は王都へ向かう。


 そしてきっと、白百合の温室にも届くだろう。

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