第37話 毒ではなく、祈りとして届く罠
聖女派からの支援物資が届いたのは、風の強い午後だった。
雪は降っていない。だが、空は鉛のように低く、砦の外壁を叩く風には細かな氷の粒が混じっていた。見張り台の旗は音を立てて震え、正門前の踏み固められた雪には、いくつもの車輪の跡が白く残っている。
医務棟では、その日も朝から人の出入りが絶えなかった。
南東の谷筋の村から、咳止めの草について相談が一件。北の沢沿いの集落から、凍傷を起こしかけた少年が一人。兵舎からは、薪割り中に手を切った兵が二人。
リシェルはそれぞれを診て、帳面に記し、薬棚の残量を確認しながら、胸のどこかでずっと王都の動きを意識していた。
セシリア。
聖女派。
白百合の符丁。
エドガーの疑念。
それらはもう、遠い王都の噂ではない。雪の砦の正門まで届く、はっきりした流れになっている。
だから、正門の鐘が鳴った時、リシェルはすぐに顔を上げた。
一つ。
二つ。
三つ。
来客の合図。
トーマスが戸口から外を覗き、すぐ戻ってきた。
「リシェルさん。王都からの荷です」
「白百合?」
「紋は神殿です。でも……白百合の飾りもあります」
やはり来た。
リシェルは手元の薬草を置き、帳面を閉じた。
ベルンが奥から低く言う。
「支援か」
「たぶん」
「支援という言葉ほど、面倒なものはないな」
「ええ」
リシェルは上着を羽織った。
「確認してきます」
「一人で行くな」
ベルンの声と、戸口に現れたアルヴェインの声がほぼ同時に重なった。
リシェルは思わず二人を見比べる。
ベルンは不機嫌そうに薬瓶の栓を閉めている。
アルヴェインは黒い外套の肩に風の冷たさを残したまま、入口に立っていた。
「同じことを言われました」
「なら従え」
アルヴェインは短く答えた。
トーマスが小声で「最近、医務棟全員が団長みたいになってきましたね」と呟き、ベルンに睨まれて口を閉じた。
リシェルは少しだけ笑って、それから真面目な顔に戻る。
「何が届いたんですか」
「聖女派からの支援物資だ。薬草、毛布、聖水、祈祷済み香油」
香油。
その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。
アルヴェインの古傷。
王都の毒と呪の残滓。
使者の外套に残っていた薄い香り。
「香油も、ですか」
「ああ」
アルヴェインはリシェルの反応を見逃さなかった。
「気になるか」
「まだ見ていません。でも、確認したいです」
「分かった」
彼はすぐに頷いた。
「荷は中庭で開ける。医務棟には運び込ませない」
その判断の早さに、リシェルは少しだけ安堵した。
この人は、こちらの違和感を軽んじない。
それがどれほど心強いことか、今のリシェルはよく知っていた。
中庭には、神殿の印が入った荷馬車が二台止まっていた。
白い布で包まれた木箱がいくつも積まれている。箱の角には淡い金色の紐がかけられ、小さな白百合の飾りが添えられていた。辺境の粗い木箱に慣れた目には、ひどく場違いに美しく見える。
随行してきたのは、神殿の補祭が二人と護衛が三人。
そのうち前へ出た若い補祭は、整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべていた。名はデュランと名乗った。声は丁寧で、姿勢も王都らしく整っている。
「アルヴェイン団長。聖女候補セシリア様ならびに神殿支援会より、辺境の皆様へ支援物資をお届けに参りました」
アルヴェインは短く応じた。
「確認する」
歓迎でも感謝でもなく、まず確認。
デュランの笑みが一瞬だけ固くなった。
「もちろんでございます。ただ、こちらは祈祷を済ませた清浄な物資です。あまり外気に晒しますと」
「ここは外気の中で生きている砦だ」
ガレスが横から言った。
「中へ入れる前に開ける」
補祭は一瞬返答に詰まったが、すぐに笑みを戻した。
「承知いたしました」
木箱が一つずつ開けられていく。
毛布。
乾燥薬草。
包帯。
小瓶に入った聖水。
そして、薄い青色の瓶に詰められた香油。
リシェルは、香油の瓶が出された瞬間、無意識に息を浅くした。
きれいな瓶だった。
薄い硝子に白百合の紋。
封蝋には神殿の印。
中の液体は淡い金色で、光を受けると柔らかく揺れる。
見た目だけなら、どこにも悪意はない。
だからこそ、怖い。
「確認しても?」
リシェルが言うと、デュランの視線がこちらへ向いた。
「あなたが、リシェル様ですね」
名前を知っている。
当然だろう。
だが、その呼び方には王都の響きがあった。砦の人々が呼ぶ「リシェル殿」でも「薬師様」でもない。社交界のどこかから、糸を引いてこちらへ戻されるような呼び方。
「はい」
「聖女候補セシリア様も、あなたの働きを案じておられました」
「案じる?」
「辺境でたいへんなお役目を負われていると聞きまして。ですが、ご安心ください。聖女様の祈りは、苦しむ方々の心と体を慰めるものです」
言葉は丁寧だ。
けれど、リシェルはその奥にあるものを感じた。
あなたたちだけでは不十分でしょう。
だから、聖女派が助けてあげる。
そういう響き。
「では、なおさら確認が必要です」
リシェルは静かに答えた。
「ここでは、誰が送ったものでも、使う前に見ます」
デュランの笑みが少しだけ薄くなる。
「聖女様の祈りを疑うのですか」
出た。
予想していた言葉だった。
中庭の空気がわずかに張りつめる。
だが、リシェルは引かなかった。
「疑うのではありません。確認します」
「同じことでは?」
「違います」
リシェルは香油の瓶を手に取った。
「信頼している相手から届いた薬でも、患者に使う前には確認します。祈りが込められているなら、その祈りを無駄にしないためにも、誰にどう使えるかを確かめる必要があります」
デュランは答えなかった。
言い返しにくい言葉だったのだろう。
アルヴェインが、リシェルの少し後ろで黙って見ている。
その気配があったから、リシェルは落ち着いて瓶の封を見た。
封蝋は神殿。
白百合の紋。
瓶底には細かな文字。
そして、栓の隙間から漏れる香り。
甘い。
だが、ただ甘いだけではない。
花の香りの奥に、乾いた灰のような匂いがごく薄く混じっている。薬草ではない。王都の香油に特有の、滑らかすぎる香り。そのさらに下に、あの古傷の処置の時に嗅いだものと似た残り香。
リシェルは顔を上げた。
「これは、負傷兵に使うものですか」
デュランが頷く。
「ええ。痛みと不安を和らげ、眠りを助けるとされています。聖女様の祈りを受けた香油ですから」
「全員には使いません」
リシェルは即座に言った。
デュランの目がわずかに細くなる。
「なぜです?」
「成分が分かりません。匂いも強い。傷や体質によっては合わない可能性があります」
「ですが、これは神殿で」
「ここは医務棟です」
リシェルは瓶をそっと箱へ戻した。
「祈りの価値を否定するつもりはありません。でも、使う相手の状態を見ずに塗ることはできません」
その時だった。
荷下ろしを手伝っていた若い兵の一人が、別の瓶を手に取っていた。
「いい匂いですね、これ」
彼の名はイアン。昨日、薪運びで腕に軽い切り傷を作った兵だ。まだ若く、少し呑気なところがある。
リシェルが止めるより早く、デュランの後ろにいたもう一人の補祭が言った。
「少し手に取るだけなら構いませんよ。清めの香油です」
「おい、勝手に――」
ガレスの声が飛ぶ。
だが、イアンはすでに指先にほんの少し香油をつけていた。
傷口ではない。
手首の近く、皮膚の上に少量。
それだけだった。
リシェルはすぐに近づいた。
「イアン、洗い流して」
「え? でも」
「今すぐ」
声が強くなった。
イアンは驚いた顔をしたが、リシェルの表情を見てすぐ頷いた。トーマスが水桶を持って走ってくる。
香油はすぐに拭き取った。
だが、リシェルの胸には嫌なものが残った。
少量。
皮膚に少し。
傷口ではない。
それでも、反応を見るには十分かもしれない。
アルヴェインの顔も険しい。
「荷を止める」
彼が低く言った。
デュランが慌てて声を上げる。
「団長、それはあまりに」
「確認が終わるまで、医務棟には入れない」
「聖女様の支援を拒むおつもりですか」
アルヴェインの目が冷えた。
「この砦では、祈りより先に命を見る」
その一言で、中庭の空気が完全に変わった。
デュランは口を開きかけたが、何も言えなかった。
白百合の飾りが、風に揺れる。
美しい箱。
清らかな香り。
善意の言葉。
そのすべてが、急に薄い膜のように見えた。
イアンの異変は、夕刻に出た。
最初は、少し顔が赤いだけだった。
「寒い中で動いたからだと思います」
本人はそう言った。
だが、リシェルは気になって医務棟へ来るように言った。香油に触れた量は少ない。洗い流すのも早かった。それでも、念のためだった。
医務棟の長椅子に座らせて脈を見る。
速い。
熱は高くない。けれど、額に薄く汗が浮いている。
「気分は?」
「少し、ふわふわします」
「吐き気は」
「ないです。ただ……音が遠いような」
リシェルはベルンと目を合わせた。
老人の顔も険しい。
「香油だな」
「まだ断定は」
「ほぼ当たりだろう」
イアンがぼんやりと笑う。
「なんか、花の匂いがずっとするんです」
リシェルは背筋が冷えるのを感じた。
「今も?」
「はい。白い花が……あれ、ここ、医務棟ですよね?」
視線が揺れている。
軽い幻覚。
リシェルはすぐにトーマスへ指示した。
「窓を少し開けて。水を。ベルン先生、解毒というより、香りを抜く方向で」
「分かってる」
ベルンはすでに薬棚へ向かっていた。
イアンは急に眉を寄せた。
「団長……?」
「イアン?」
「団長が、血だらけで……あれ、違う。雪が赤い」
幻覚が深くなっている。
リシェルの胸が冷えた。
アルヴェインの古傷と同じ系統。
やはり、ただの香油ではない。
リシェルはイアンの肩を押さえ、できるだけ落ち着いた声で言った。
「ここは医務棟です。あなたは砦にいます。目を閉じて、私の声だけ聞いて」
「リシェル殿……」
「そう。ゆっくり息をして。花の匂いは、今から抜きます」
トーマスが水を持ってくる。ベルンが煎じ薬を作る。窓から冷たい空気が流れ込み、香油の甘さを薄めていく。
イアンの呼吸はしばらく乱れていたが、やがて少しずつ落ち着き始めた。
完全ではない。
だが、最悪は避けられそうだった。
その頃には、医務棟の入口にアルヴェインとガレスが立っていた。
アルヴェインの顔は、ひどく静かだった。
静かすぎるほどに。
「状態は」
低い声。
リシェルは振り向いた。
「熱と幻覚。香油に触れた量は少ないのに、反応が出ています」
「命に関わるか」
「今のところは。ただ、傷口に使っていたら危険だったと思います」
ガレスが低く罵った。
「支援物資でこれか」
アルヴェインは何も言わない。
だが、その青い瞳の奥に、王都への怒りがはっきり見えた。
リシェルは続けた。
「この香油、団長の古傷に反応するものと似ています」
アルヴェインの視線が動いた。
「確かか」
「まだ完全な成分までは。でも、匂いの奥が同じです。灰のような、乾いた残り香があります」
ベルンが鍋をかき混ぜながら言う。
「儂も同意見だ。少なくとも、一般の負傷兵に広く使っていい代物じゃない」
アルヴェインは短く息を吐いた。
「香油は全て封じろ」
ガレスが頷く。
「了解」
「デュラン補祭には」
リシェルは少し迷ってから言った。
「すぐに結果を伝えるべきです。ただし、感情ではなく記録で」
「お前が出るのか」
アルヴェインの声が少し低くなる。
「医務担当として出ます」
「一人では駄目だ」
「分かっています」
「俺も行く」
即答だった。
リシェルは一瞬だけ彼を見る。
その顔は、有無を言わせないものだった。
でも、そこにあるのは支配ではない。
守るための怒りと、同じ場に立つという意思。
「はい」
リシェルは頷いた。
「一緒に」
言ってから、自分で少しだけ胸が鳴った。
アルヴェインも、ほんのわずかに目を細めた。
デュラン補祭は、応接棟で待たされていた。
支援物資はすべて封じられ、中庭には見張りが立っている。白百合の飾りがついた木箱は、もはや清らかな贈り物ではなく、危険物として扱われていた。
応接棟へ入ると、デュランは立ち上がった。
「団長、これはどういうことでしょうか。支援物資を封じるなど」
「香油に触れた兵に反応が出た」
アルヴェインが短く言う。
デュランの顔がわずかに変わる。
「反応?」
リシェルが記録紙を差し出した。
「手首に少量触れただけで、熱、発汗、軽い幻覚が出ています。傷口には使っていません。洗い流しも早かった。それでも症状が出ました」
「偶然では?」
「偶然かどうか確認するため、香油は使用停止にします」
「ですが、それは聖女様の祈りを受けた清めの香油です」
「だからこそ、慎重に扱います」
リシェルはまっすぐ答えた。
「祈りの名がついていても、体に合わないものはあります」
デュランの声に、苛立ちが混じり始めた。
「あなたは、聖女様の善意を疑っている」
「私は患者の症状を見ています」
リシェルの声は静かだった。
「善意かどうかは、症状を消してくれません」
部屋の空気が張りつめる。
デュランはアルヴェインへ視線を移した。
「団長。このような扱いは、王都へ報告せざるを得ません」
「好きにしろ」
アルヴェインは一切揺れなかった。
「こちらも報告する。支援物資として届いた香油により、兵に症状が出たと」
「それは」
「事実だ」
その一言で、デュランは黙った。
事実。
リシェルが積み上げてきたものと同じ言葉。
王都の綺麗な言葉ではなく、辺境で起きた事実。
デュランは悔しそうに唇を引き結んだ。
リシェルは記録紙を机に置いた。
「香油の成分表があれば、提出してください」
「神殿の秘法です」
「では、使用できません」
即答した。
デュランの目が見開かれる。
「なぜですか」
「成分が分からず、症状が出たものを、患者へ使うことはできません」
リシェルは静かに続けた。
「この砦では、祈りより先に命を見る。団長の言葉通りです」
アルヴェインが隣でわずかにこちらを見た。
ほんの一瞬。
けれど、その視線だけで、支えられていることが分かった。
夜が近づく頃、イアンの症状は落ち着いた。
熱は下がり、幻覚も消えた。まだ少しぼんやりしているが、命に別状はない。
リシェルは彼の寝台の横で記録を取った。
触れた量。
触れた場所。
洗浄までの時間。
発症までの時間。
症状。
処置。
回復までの経過。
ベルンが隣で腕を組んでいる。
「毒というには弱い」
「はい」
「だが、薬ではない」
「はい」
「祈りでもないな」
老人の声は低かった。
リシェルは筆を止めずに頷く。
「毒ではなく、祈りとして届く罠です」
口にした瞬間、その言葉の重さが胸に落ちた。
毒なら拒める。
敵意なら防げる。
だが祈りとして届けば、人は受け取りやすい。
聖女の名。
清めの香油。
善意の支援。
それらは、疑う側を悪者に見せる。
王都らしい罠だった。
医務棟の戸口に、アルヴェインが立っていた。
彼は今の言葉を聞いていたらしい。
「記録に残せ」
「はい」
「次は、これを使って来る」
「ええ」
リシェルは香油の瓶を見た。
白百合の紋が、灯りを受けて静かに光っている。
清らかな顔をした危険。
それを見抜くことが、今の自分の役目だ。
「団長」
「何だ」
「この香油、団長の傷には近づけないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「本当にだ」
いつもなら疑うところだが、今日の彼の声には無理がなかった。
リシェルは少しだけ安堵する。
「なら、よかったです」
アルヴェインは静かにこちらを見た。
「俺より先に、自分の心配をしろ」
「私は触れていません」
「触れなくても、王都の言葉に傷つくことはある」
その一言に、胸が静かに鳴った。
リシェルは筆を握ったまま、少しだけ目を伏せる。
「……少しだけ、傷つきました」
正直に言った。
「聖女様の祈りを疑うのか、と言われた時。昔なら、そこで黙っていたと思います」
「今は黙らなかった」
「はい」
「それでいい」
短い言葉。
けれど、その中に確かな温度がある。
リシェルは小さく息を吐いた。
「はい」
毒ではなく、祈りとして届く罠。
それは、今日たしかに砦へ入り込もうとした。
だが、見抜いた。
止めた。
記録した。
まだ完全な勝利ではない。
けれど、少なくとも今日、祈りの名を借りた危険は、辺境の医務棟で足を止められた。
その夜、リシェルは記録紙の最後にこう書いた。
「聖女派支援物資の香油により、兵イアンに熱と幻覚。毒ではなく、祈りとして届いた罠の可能性」
そして少し迷ってから、もう一行。
「この砦では、祈りより先に命を見る」
それはアルヴェインの言葉だった。
けれど今は、リシェル自身の言葉にもなっていた。




