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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 聖女候補の微笑みは、少しずつ歪む

 王都の朝は、辺境よりもずっと穏やかに見える。


 雪は屋根の端に薄く残るだけで、石畳にはすでに馬車の跡が乾き始めている。通りには焼き菓子の甘い匂いが流れ、商人の声が明るく響き、貴族街の庭では冬用に守られた花々が静かに咲いていた。


 けれど、穏やかに見える場所ほど、内側では別のものが動いている。


 セシリア・エルンストは、離宮の小さな温室で白百合を眺めていた。


 今日の花は、昨日より少し開きすぎている。


 花弁の端がわずかに反り、香りも強い。普通の者なら気づかないほどの違いだが、毎日この花を見ているセシリアには分かった。


「替えて」


 背後の侍女が、はっと頭を下げる。


「申し訳ございません。ただいま」


「いいの。怒っていないわ」


 セシリアは微笑んだ。


 その笑みを見て、侍女はかえって肩をこわばらせた。


 怒っていない。


 そう言う時のセシリアが、必ずしも穏やかではないことを、近くにいる者たちは知っている。


 侍女が慌てて花瓶を持ち上げると、セシリアは静かに椅子へ腰を下ろした。白い朝の外套を膝に整え、指先を重ねる。仕草だけなら、どこから見ても清らかな聖女候補だった。


 だが、目の奥は冷えていた。


 机の上には、エリナの報告書が置かれている。


 視察団が辺境から持ち帰った報告。


 何度読んでも、セシリアの胸の奥に小さな棘が刺さる。


 リシェル・フォルディアは、北西辺境補給砦にて医務・補給連携の中心的役割を担っている。

 砦の兵、周辺村落より一定の信頼を得ている。

 偽薬草および白百合に似た符丁を確認。

 村人への薬草講習を実施。

 アルヴェイン団長は、リシェルを砦の重要な人員として扱っている。


 重要な人員。


 その言葉が気に入らない。


 なぜ、あの女が。


 王都で断罪された女が。

 婚約を失い、居場所を失い、辺境へ送られた女が。

 どうしてまた、誰かに必要とされているのか。


 セシリアは、ゆっくり報告書の端を撫でた。


 紙の角が、指先へ軽く当たる。


「……本当に、目障り」


 声は小さかった。


 だが、温室の静けさの中では十分に響いた。


 侍女はもう部屋を出ている。だから、今の言葉を聞く者はいない。


 セシリアは背もたれへ体を預ける。


 王都でのリシェルは、いつも静かだった。

 何を言っても感情を大きく乱さず、こちらが涙を浮かべれば場がセシリアへ傾くことを知っているはずなのに、最後まで媚びなかった。


 あれが嫌だった。


 泣きもしない。

 怒鳴りもしない。

 縋りもしない。


 ただ、見ている。


 まるで、自分が何をしているか、全部分かっているみたいに。


 だからこそ、あの夜、彼女が断罪されていくのを見た時、セシリアは心の底で安堵した。


 これで、あの目を見なくて済む。


 そう思った。


 なのに。


 辺境で、あの女はまた立っている。


 しかも、今度はアルヴェインの近くに。


 セシリアは唇に微笑みを戻した。


 ちょうどその時、扉の向こうから侍女の声がする。


「エリナ様がお見えです」


「通して」


 入ってきたエリナ・ヴァレリーは、いつも通り美しく礼をした。だが、その顔にはわずかな疲れが残っている。辺境視察の疲労だけではない。報告後も、各方面から問い詰められたのだろう。


「セシリア様」


「エリナ。朝から呼び出してごめんなさいね」


「とんでもございません」


 エリナはそう言って、静かに控える。


 セシリアは報告書を指で押さえた。


「エドガー様が、リシェル様のことを調べているそうね」


 エリナの表情は大きく変わらない。


 けれど、ほんのわずかに目元が動いた。


「そのようです」


「あなた、知っていた?」


「昨夜、耳に入りました」


「どうしてすぐ言わなかったの?」


 声は柔らかい。


 だが、そこには冷たいものがあった。


 エリナは頭を下げる。


「確証を得てからお伝えすべきかと」


「そう」


 セシリアは笑った。


「エドガー様は、まだリシェル様を気になさっているのね」


「気にしている、というより……疑念を抱いているようです」


「疑念?」


「断罪の件、聖女派の動き、辺境への支援物資の流れ。そのあたりを」


 セシリアの指が止まる。


「誰が、そんなことを吹き込んだのかしら」


「レヴェント家の内部でも、リシェル様が担っていた実務の大きさが表面化しているようです」


「実務」


 セシリアは、その単語をゆっくり繰り返した。


「皆、最近その言葉が好きね」


 エリナは答えない。


 セシリアは立ち上がり、温室の中を歩いた。


 新しい白百合が運び込まれている。侍女が花瓶へ挿し替えたばかりの花は、清らかに咲いていた。


「リシェル様は、本当に昔からそうだったわ」


 セシリアは花弁に指を添えた。


「細かいことを全部覚えて、黙って整えて。周りが気づかないことまで気づいて。まるで、自分だけが正しいみたいな顔をするの」


「リシェル様は、そのようなお顔をされていたでしょうか」


 エリナの声は控えめだった。


 セシリアは振り返る。


 微笑んでいる。


 だが、目は笑っていない。


「エリナ」


「はい」


「あなたは、あの方の味方なの?」


「いいえ」


 即答だった。


 けれど、その即答にセシリアは満足しなかった。


「そう。なら、余計なことは言わないで」


「……失礼いたしました」


 エリナは深く頭を下げる。


 セシリアは白百合を見つめる。


「私は、ただ皆に幸せになってほしいだけなの」


 その声は、外から聞けば痛ましいほど優しかった。


「エドガー様も、リシェル様も、アルヴェイン様も。皆が正しい場所へ戻れば、きっと丸く収まるのに」


 正しい場所。


 エリナは、その言葉に心の中でだけ反応した。


 セシリアにとっての正しい場所とは、セシリアが中心に立てる場所のことだ。


 エドガーは自分を守る男。

 リシェルは悪役として消えた女。

 アルヴェインは聖女候補と結びつくことで王都の安定に寄与する男。


 その配置が崩れ始めている。


 だから、彼女は苛立っている。


 セシリアは花瓶から白百合を一本抜いた。


「辺境で医療事故が起これば」


 ぽつりと呟く。


 エリナの背筋がこわばった。


「セシリア様」


「たとえばの話よ」


 セシリアは微笑んだまま、白百合の茎を指先で弄ぶ。


「辺境の医務体制が、やはり未熟だったと分かれば、聖女派の支援を拒む理由はなくなるでしょう?」


「……それは」


「もちろん、誰かが傷つくのは望まないわ。私はそんなこと望んでいない」


 声は柔らかい。


 けれど、言葉はひどく危うい。


「でも、もし何かが起きてしまった時には、正しい支援が必要になる。そうでしょう?」


 エリナは答えなかった。


 答えないことで、何かを拒んでいるようにも見える。


 セシリアはそれに気づき、少しだけ目を細めた。


「あなたは少し、辺境に影響されすぎたのかもしれないわね」


「私は、見たものを報告しただけです」


「ええ。だから助かったわ」


 セシリアはにこりと笑う。


「おかげで、どうすればいいか分かったもの」


 その時、温室の入口に別の男が現れた。


 聖女派の幹部の一人、オルグレン司祭だった。


 年の頃は五十前後。細い体に白い祭服をまとい、穏やかな顔をしている。だが、その目は常に計算をしている者の目だった。


「セシリア様」


「オルグレン司祭」


 セシリアは清らかな顔で振り向いた。


「ちょうど、辺境の支援についてお話していたところです」


「それは良い」


 司祭は穏やかに微笑む。


「辺境は苦しい土地です。祈りと薬、どちらも届かねばなりません」


 エリナは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 この男は、もう何かを決めている。


 オルグレンは報告書へ視線を落とした。


「リシェル・フォルディア嬢が、かなり現地に根づき始めているようですな」


「ええ。困ったことに」


 セシリアは、口では困ったと言いながら、笑っている。


 司祭もまた笑う。


「根づいたものは、土を変えれば弱ります」


 その言葉に、エリナは顔を上げた。


「司祭様」


「もちろん、比喩です」


 オルグレンは穏やかに言った。


「聖女派から追加の支援物資を送りましょう。薬草、毛布、祈祷済み香油。辺境の者たちは、きっとありがたがるはずです」


「香油……」


 エリナは、辺境で見たアルヴェインの古傷に関する記録を思い出した。


 王都の香り。

 古傷の反応。

 リシェルが記していた所見。


 オルグレンは続ける。


「清めの香油です。負傷兵の心を落ち着けるためにも良い」


 セシリアは白百合を指先で回す。


「すばらしいわ。辺境の方々も、聖女の祈りを感じられるでしょう」


 エリナは唇を結んだ。


 今、止めるべきだ。


 そう思った。


 けれど、何と言えばいい。


 香油が危険だという確証はない。

 リシェルの記録を信じれば怪しいが、それをここで持ち出せば、自分が辺境側に寄ったと見られる。

 しかもセシリアと司祭は、表向きは善意の支援を語っている。


 王都では、善意の形をした悪意ほど止めにくい。


「エリナ」


 セシリアが呼ぶ。


「はい」


「あなたも、そう思うでしょう? 辺境には、祈りが必要だと」


 試されている。


 エリナはゆっくり頭を下げた。


「……支援そのものは、必要かと存じます」


「そうよね」


 セシリアは満足そうに微笑んだ。


 白百合の茎が、彼女の指の中で少し曲がっていた。


 その日の夕方、エリナは一人で離宮の廊下を歩いていた。


 温室の甘い香りから離れても、鼻の奥に白百合の匂いが残っている。


 彼女は、辺境の医務棟を思い出していた。


 粗い石壁。

 薬草の青臭い匂い。

 湯気。

 村娘の木札。

 リシェルの静かな声。


 王都の温室とは何もかも違う場所だった。


 だが、あそこには嘘が少なかった。


 少なくとも、命に関わる場面では。


 エリナは足を止め、窓の外を見た。


 王都の空は美しい。

 だが、今は少し息苦しい。


「……リシェル様」


 小さく呟いた。


 助けるつもりなどない。


 自分は聖女派の側にいる。

 セシリアに仕える身だ。

 王都で生きていくには、立つ場所を間違えてはいけない。


 それでも、辺境で見たリシェルの姿が、頭から離れなかった。


 あの女は、崩れなかった。


 ならば、この先もっと大きなものが向かっていけば、どうなるのだろう。


 折れるのか。

 それとも、さらに強くなるのか。


 エリナには、なぜか後者のように思えた。


 同じ頃、レヴェント公爵家では、エドガーがマティアスからの報告を聞いていた。


 部屋には、冬の夕陽が差し込んでいる。


 マティアスは旅の疲れを残したまま、それでも姿勢を崩さず、辺境で見たものを一つずつ語った。


 リシェルが医務・補給連携の担当として働いていたこと。

 村人や兵に信頼されていたこと。

 彼女は王都へ戻るつもりがないと言ったこと。

 救い出されるために待っているわけではない、と伝えるよう頼まれたこと。


 エドガーは、黙って聞いていた。


 途中で口を挟まなかった。


 挟めなかった。


「……彼女は、元気だったか」


 ようやく出たのは、そんな問いだった。


 マティアスは少し迷い、答える。


「お疲れには見えました。ですが、弱ってはおられませんでした」


「そうか」


「むしろ、王都にいらした頃より、よく声が届く方になられたように感じました」


 その言葉が、エドガーの胸に刺さる。


 王都にいた頃より。


 つまり、自分のそばにいた時より。


 彼女は今のほうが、はっきり立っているということか。


「……アルヴェイン団長は?」


 エドガーは低く問う。


 マティアスは慎重に言葉を選んだ。


「リシェル様を、非常に重んじておられるようでした」


「重んじて」


「はい。守るだけでなく、判断を尊重しているように」


 エドガーは椅子の肘掛けを握った。


 守るだけでなく、判断を尊重する。


 自分はどうだっただろう。


 リシェルの判断を、尊重したことがあったか。

 彼女が何かを指摘した時、うるさいと思わなかったか。

 細かいと、可愛げがないと、勝手に決めつけなかったか。


 胸の奥に、嫌な痛みが広がる。


「下がれ」


 エドガーは短く言った。


 マティアスは一礼して部屋を出る。


 一人になったあと、エドガーは机の上の書類を見た。


 リシェルがいなくなってから乱れた屋敷の記録。

 聖女派に関する調査。

 セシリアからの手紙。


 そして、マティアスの報告。


 すべてが一つの方向を示し始めている。


 自分は、何かを間違えた。


 その言葉を、まだ認めきれない。


 だが、もう目を逸らすこともできない。


「……リシェル」


 名を呟く。


 かつては婚約者として当たり前に呼んでいた名。


 今は、ひどく遠い。


 エドガーは立ち上がった。


 窓の外、王都の空は夕暮れに染まっている。


 辺境へ行く。


 その決意は、まだ誰にも告げていない。


 けれど、胸の内ではすでに形になり始めていた。


 温室では、夜になっても白百合が咲いていた。


 セシリアはその中で、一人立っていた。


 手の中の白百合は、茎が折れ、花弁の一部が潰れている。


 けれど彼女は、それを捨てなかった。


「私は悪くない」


 小さく呟く。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


「だって、私はただ……」


 幸せになりたかっただけ。


 守られたかっただけ。


 誰よりも選ばれたかっただけ。


 リシェルがいなければ、すべてうまくいくはずだった。


 エドガーは自分だけを見る。

 王都は自分を聖女として讃える。

 アルヴェインだって、いずれ王都のために正しい相手を選ぶ。


 なのに、あの女がまだいる。


 辺境で、別の形で咲いている。


 白百合ではない。

 もっと地味で、雪の下に根を張る薬草のように。


 それが、許せなかった。


 セシリアは、潰れた白百合をそっと花瓶へ戻した。


 微笑みを作る。


 鏡に映る自分は、まだ美しい。

 まだ清らかに見える。


「大丈夫」


 彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。


「私は、悪くないわ」


 けれどその声には、以前ほどの確信はなかった。

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