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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第35話 会いたいと言われても、戻る場所ではない

 マティアスが砦を発った翌朝、リシェルはいつもより早く目を覚ました。


 眠れなかったわけではない。けれど、眠りの底が浅かった。


 夢の中で、何度も王都の廊下を歩いていた気がする。磨き上げられた床。白い壁。遠くから聞こえる笑い声。振り返ると、誰もいない。前へ進むと、断罪の夜の広間へ出る。


 そこで目が覚めた。


 けれど、現実にあったのは王都の天井ではなく、辺境の小さな部屋の梁だった。


 それだけで、リシェルはほっとした。


 窓の外はまだ薄暗い。雪は止んでいるが、空は重い。暖炉の火はほとんど消えかけていて、部屋の空気は冷えている。


 リシェルは毛布を押しのけ、机の上に置いた記録紙を見た。


 私は、救い出されるためにここにいるのではない。


 昨夜書いたその一行が、朝の冷えた光の中で、昨日よりもはっきり見えた。


 エドガーが会いたがっている。


 その事実は、思ったより重く胸に残っていた。


 会いたい。


 なぜ。


 謝りたいからか。

 確かめたいからか。

 それとも、まだ自分にはリシェルを呼び戻す権利があると思っているからか。


 答えは分からない。


 ただ一つだけ分かるのは、今の自分は、王都へ戻る理由を持っていないということだった。


 医務棟へ向かうと、すでにベルンが薬棚の前にいた。


「顔色は悪くないな」


 挨拶より先に、それだった。


「おはようございます」


「寝不足ではあるが、倒れるほどじゃない」


「診察が早いですね」


「年寄りは朝が早い」


 ベルンはそう言って、机の上に置いた湯気の立つ器を顎で示した。


「飲め」


「薬ですか」


「湯だ。少し草を入れた」


「それを薬と言うのでは」


「うるさい」


 リシェルは小さく笑って、器を受け取った。温かい。青い香りがする。喉を通ると、胸のあたりが少しだけほどけた。


 ベルンは薬棚へ視線を戻しながら言う。


「昨日の客のことを考えている顔だ」


「……分かりますか」


「分かりやすい」


「そんなに?」


「そんなにだ」


 少し恥ずかしくなる。


 けれど、隠しても仕方がない。


「エドガー様が、私に会いたいそうです」


「だろうな」


 ベルンの返事は短かった。


 リシェルは少し意外に思う。


「驚かないんですね」


「驚くほどのことじゃない。捨てたものがよそで価値を持ったと知れば、見に来たくもなる」


 その言い方はあまりにも率直で、胸の奥に少しだけ刺さった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 ベルンの言葉には、余計な慰めがない。だから痛くても、傷を化膿させない。


「私は、会うべきでしょうか」


 問いは、思ったより自然に出た。


 ベルンはしばらく黙っていた。


 やがて、薬瓶の栓を閉めてから言う。


「べき、で決めるな」


「え?」


「会いたいか、会いたくないか。必要か、必要じゃないか。まずそこだ」


 リシェルは器を両手で包んだまま、目を伏せた。


 会いたいか。


 その問いに、すぐ頷くことはできない。


 だが、会いたくない、と叫ぶほどの怒りだけでもない。


 自分の中にはまだ、確かめたいことがある。あの夜、彼は何を見て、何を信じ、何を聞かなかったのか。セシリアの言葉をどこまで疑わなかったのか。自分を本当に、ただの悪女だと思っていたのか。


 けれど、それは今すぐではない。


 今の自分には、王都の過去より優先すべきものがある。


「今は、会いたいとは思いません」


 リシェルは静かに言った。


「でも、いつか必要になるかもしれないとは思います」


「なら、今は会うな」


 ベルンは即答した。


「必要になった時に会えばいい」


「……それで、いいんでしょうか」


「お前の人生だろう」


 老人は不機嫌そうに言った。


「王都の男が会いたがったからといって、すぐ席を用意する義務はない」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 義務はない。


 そう言われて初めて、リシェルは自分がどこかでまだ“応じなければならない”と思っていたことに気づいた。


 元婚約者だから。

 公爵家だから。

 王都から来た話だから。


 でも、違う。


 今の自分には、選ぶ権利がある。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「でも、言いたいので」


「団長みたいなことを言うな」


 思わず笑ってしまった。


 その時、医務棟の戸が開いた。


 入ってきたのはアルヴェインだった。


 黒い外套の肩に、薄く雪がついている。朝の巡回帰りなのだろう。彼はリシェルとベルンを見て、少しだけ目を細めた。


「邪魔をしたか」


「してない」


 ベルンが即答する。


「ちょうど、王都の男の話をしていただけだ」


「先生」


 リシェルが慌てると、ベルンは素知らぬ顔で薬棚へ戻った。


 アルヴェインの視線が、静かにリシェルへ向く。


「話せるか」


「はい」


 医務棟の奥にはトーマスもまだ来ていない。ベルンは聞こえないふりをするのが上手い。リシェルは机の前に立ち、アルヴェインと向き合った。


「昨日の件だ」


 彼は短く切り出した。


「エドガーが会いたいと言っていることについて」


「はい」


「お前が望まないなら、会わせない」


 何の前置きもない、はっきりした言葉だった。


 リシェルは息を呑む。


 昨日も似たようなことを言われた。

 けれど今朝あらためて聞くと、その重みが違った。


「砦に来ても、ですか」


「来てもだ」


「公爵家の方でも」


「関係ない」


 即答だった。


「ここは王都の応接間ではない。誰と会うかを、お前以外の者が勝手に決める場所ではない」


 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。


 守られている。


 けれど、それは閉じ込められる感覚とは違う。


 選択を守られているのだ。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


「でも、言いたいので」


 そう返すと、アルヴェインはわずかに目を細めた。


「ベルンに何か言われたか」


「似たようなことを」


「そうか」


 彼は少しだけ安心したようにも見えた。


 リシェルは器を机へ置き、静かに言った。


「今は、会いたいとは思えません」


 アルヴェインは黙って聞く。


「でも、逃げ続けたいわけでもありません。いつか、あの夜のことを確かめる必要があるなら、会うかもしれません」


「ああ」


「ただ、それは今ではありません」


「分かった」


 あまりにもあっさり受け止められたので、リシェルのほうが少し驚いた。


「それで、いいんですか」


「いいも悪いもない。お前が決めた」


 その一言が、胸に深く落ちた。


 お前が決めた。


 王都では、そんなふうに言われた記憶がほとんどない。


 いつも、家が決めた。婚約者が決めた。社交界が決めた。父が決めた。エドガーが決めた。セシリアの涙が場を決めた。


 けれど今、自分の前にいる男は、リシェルが決めたことをそのまま受け止めている。


「団長は」


 思わず声が出た。


「はい」


 アルヴェインが怪訝そうに見る。


「怒っていませんか」


「何に」


「私が、いつか会うかもしれないと言ったことに」


 彼は少しだけ沈黙した。


 その沈黙で、まったく何も感じていないわけではないのだと分かった。


 やがて、低く言う。


「面白くはない」


 正直な答えだった。


 リシェルの胸が、小さく鳴る。


「だが、それは俺の感情だ。お前の選択を縛る理由にはならない」


 その言葉で、息が止まりそうになった。


 この人は、ずるい。


 本当に、ずるい。


 嫉妬や不快感を隠しきらず、それでもこちらの意思を尊重する。そんなことをされたら、信じてしまう。


 心を、預けたくなってしまう。


「……団長は、ずるいです」


「またそれか」


「またです」


 リシェルは少しだけ笑った。


 笑わなければ、顔が熱くなるのをごまかせなかった。


 アルヴェインは視線をわずかに逸らし、咳払いに近い息を吐いた。


「とにかく、今後エドガー本人が来る可能性がある」


「はい」


「その時も、会うかどうかはお前が決めろ。俺は、必要なら止める」


「はい」


「必要でなくても、止めたくはなる」


 ぽつりと落ちた一言。


 今度こそ、リシェルは返事に詰まった。


 アルヴェイン自身も、言いすぎたと思ったのか、少しだけ眉を寄せる。


「……今のは忘れろ」


「無理です」


「忘れろ」


「無理です」


 ベルンが奥で盛大に咳払いした。


「朝から医務棟で何を聞かされてるんだ、儂は」


 リシェルの頬が一気に熱くなる。


 アルヴェインは無表情を保っていたが、耳のあたりがほんの少し赤いように見えた。


 気のせいかもしれない。


 でも、そう思うと少しだけ可笑しかった。


 その日の午後、リシェルは村から来た相談を三件処理した。


 西の林縁村から、ミラが新しい薬草の束を持ってきた。

 南東の谷筋から、煮沸水の保管について質問が届いた。

 北の沢沿いの集落から、咳止めの草が不足しているという知らせがあった。


 それぞれに答え、帳面に記す。


 仕事をしている間、心は不思議と落ち着いていた。


 エドガーの名は重い。

 過去は消えない。

 あの夜の言葉も、視線も、まだ完全には消えていない。


 けれど、手を動かせば今が積み上がる。


 自分はもう、過去だけでできているわけではない。


 ミラは薬草束を机に置きながら、きょろきょろと医務棟を見回した。


「薬師様、今日は少し静かですね」


「そう?」


「はい。なんだか、皆さん考え事してるみたいです」


 鋭い子だ。


 リシェルは少し笑った。


「王都から、お客様が来たからかもしれないわ」


「また悪い人ですか?」


 まっすぐな問いに、トーマスが後ろで吹き出しかけた。


 リシェルは少し考えた。


「悪い人とは限らない。でも、王都から来る話は少し面倒なことが多いの」


「じゃあ、気をつけます」


 ミラは真剣に頷いた。


「薬草と同じですね。見た目だけじゃ分からないから、匂いと紐と箱の底を見る」


「そうね」


 リシェルは目を細めた。


「人の言葉も、少し似ているかもしれないわ」


「言葉も?」


「綺麗な言い方でも、中身が違うことがあるから」


 ミラはしばらく考え、やがて大きく頷いた。


「じゃあ、よく見ます」


 その素直さに、胸が温かくなる。


 リシェルはミラに新しい見分け表を渡した。


「これは前より少し詳しい表。無理に全部覚えなくてもいいから、村の大人と一緒に見て」


「はい!」


 ミラは大事そうに紙を抱えた。


 その姿を見て、リシェルは思った。


 今、自分がここでしていることは、確かに未来へ繋がっている。


 王都の過去だけではなく、辺境の明日へ。


 夕方、マティアスからの短い返礼が届いた。


 彼はまだ砦からそれほど遠くない中継地にいるらしい。そこから早馬で礼だけを返してきたのだ。


 文面は簡潔だった。


 リシェルの言葉を必ずエドガーへ伝えること。

 砦で見たことを、見たまま報告すること。

 そして最後に、こう記されていた。


 「リシェル様は、王都へ戻るべき方ではなく、まず今いる場所で尊重されるべき方だと、私は感じました」


 リシェルはその一文を、しばらく見つめていた。


 マティアスは王都の人間だ。


 それでも、見てくれた。


 見れば分かる人もいるのだ。


 王都すべてが敵ではない。

 そう思えたことが、少しだけ救いだった。


 ただ、それと同時に分かる。


 マティアスがそう報告すれば、エドガーはさらに動くだろう。


 過去は、こちらへ近づいている。


 でも、今度は一方的に飲み込まれない。


 リシェルは文を閉じ、帳面の間へ挟んだ。


 夜、中庭に出ると、雪は降っていなかった。


 空気は冷たいが、雲の切れ間から薄い星が見える。砦の灯は低く、静かに揺れていた。


 アルヴェインは見張り台の下にいた。


 まるでそこにいると最初から分かっていたように、リシェルは自然に足を向けた。


「休めと言ったはずだが」


 彼は振り向かずに言う。


「少しだけです」


「お前の少しは信用ならない」


「団長ほどではありません」


「言うようになったな」


 そんなやり取りをして、二人で少しだけ並ぶ。


 近すぎず、遠すぎない距離。


 以前なら緊張した距離が、今は心を落ち着かせる。


「マティアスから文が来ました」


 リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけこちらを見る。


「何と」


「見たままを報告すると。私は、今いる場所で尊重されるべきだと感じた、と」


「まともな男だな」


「はい」


 少しの沈黙。


 それから、アルヴェインが低く言った。


「エドガーは来るかもしれない」


「そうですね」


「怖いか」


 今日二度目のような問いだった。


 リシェルは夜空を見上げた。


 怖い。


 けれど、それだけではない。


「怖いです。でも、前ほどではありません」


「なぜ」


「戻る場所を間違えなくなったからです」


 自然に言葉が出た。


「王都は、私が生まれ育った場所です。でも、今戻る場所ではありません」


 アルヴェインは黙って聞いている。


「ここには仕事があります。私を名前で呼んでくれる人がいます。私の記録を必要としてくれる人がいます。薬草を覚えたいと言ってくれる子もいます」


 一つずつ口にするたび、自分の中でそれが確かなものになっていく。


「だから、会いたいと言われても、戻る場所ではありません」


 言い終えると、夜の冷気が頬を撫でた。


 アルヴェインはしばらく沈黙していた。


 やがて、低く言う。


「その言葉を聞けてよかった」


 胸が鳴る。


「団長が?」


「ああ」


「どうして」


 問い返すと、彼は少しだけ視線を逸らした。


「お前が、まだ王都に引かれているのではないかと思うことがあった」


「……そう見えましたか」


「見えたわけではない。俺が勝手に思っただけだ」


 その正直さが、胸に沁みる。


「今は?」


 リシェルは小さく問う。


 アルヴェインは、今度はまっすぐこちらを見た。


「今は、お前がここに立っていると分かる」


 その言葉は、雪の夜に静かに落ちた。


 リシェルは小さく息を吸う。


「はい」


 それしか言えなかった。


 アルヴェインは続けた。


「だから、俺もそのつもりで守る」


「そのつもり?」


「王都へ戻るまでの一時的な客ではなく、この砦の人間として」


 リシェルの胸が熱くなる。


 この砦の人間。


 それは今、自分が一番欲しかった言葉かもしれない。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


「でも、言いたいので」


「知っている」


 いつものやり取りが、今夜は少しだけやさしく響いた。


 王都から過去が来た。


 元婚約者が会いたいと言っている。


 それでも今、リシェルの足元は揺れていない。


 ここは、戻るまでの仮の場所ではない。


 自分で選んだ場所だ。


 そのことを、ようやく心から言えるようになっていた。

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