第34話 王都から来る、過去の婚約者
聖女派の視察団が去ってから、砦の朝は少し静かになった。
平穏になった、という意味ではない。むしろ逆だ。誰もが次に来るものを待っている。けれど、あの日のように白百合の馬車を前にして身構える張りつめ方ではなく、今はもっと実務的な静けさだった。
来るなら来い。
そのための帳面はある。
そのための薬草見本はある。
そのための証言も、写しも、村へ配った札もある。
リシェルは医務棟の中央机で、白百合の符丁に関する記録を清書していた。
木箱の底に刻まれていた印。村で見つかった変形印。偽薬草の乾き方。王都風の油の匂い。ミラの証言。聖女派視察団の反応。
書きながら、ふと自分でも不思議に思う。
王都にいた頃、自分はずっと、誰かの後始末をしていた。
贈答の調整。茶葉の好み。侍女の体調。父の客人。継母の香油。妹の衣装。エドガーの予定。セシリアへの配慮。
誰かが気づかないところを埋めるための仕事だった。
けれど今は違う。
同じように細かく記録しているのに、意味が違う。
これは、誰かの見栄を整えるためではない。
誰かの悪意を見逃さないための記録だ。
「リシェルさん」
トーマスが戸口から顔を出した。
「西門に、王都からの使者です」
リシェルの筆が止まる。
王都。
それだけで、医務棟の空気が少し変わった。奥で薬瓶を確認していたベルンも、顔を上げる。
「また白百合か」
「いえ」
トーマスは首を振った。
「レヴェント公爵家の紋です」
その名を聞いた瞬間、リシェルは一瞬だけ息を忘れた。
レヴェント公爵家。
エドガーの家。
元婚約者の家。
もう遠いもののはずだった。王都に置いてきた過去。断罪の夜と一緒に、自分の背後へ押し流されたもの。
けれどその名は、まだ胸の奥に鈍い響きを残していた。
痛みというほど鋭くはない。
未練というほど甘くもない。
ただ、古い傷の場所を指で押されたような感覚だった。
「……誰が来たの」
声は、思ったより普通に出た。
「若い男の人です。執事見習いだって名乗ってます。団長が応接棟に通すようにって」
ベルンが鼻を鳴らした。
「顔が硬いぞ」
「そうですか」
「硬い」
老人はそれ以上慰めるようなことは言わなかった。代わりに、机の上の記録束を軽く叩く。
「持っていけ」
「これを?」
「今のお前の仕事だろう。過去の客が来たからって、手ぶらで行くな」
その言い方に、リシェルは少しだけ目を瞬いた。
手ぶらで行くな。
つまり、王都で断罪された令嬢としてではなく、砦の医務担当として行け、ということだ。
胸の中で、何かが静かに整う。
「はい」
リシェルは清書中の紙ではなく、来訪記録用の帳面と、必要な写しだけを選んで抱えた。
トーマスが心配そうに見る。
「あの、俺も」
「大丈夫」
リシェルは少し笑った。
「応接棟には団長もいるでしょう」
それを口にしただけで、不思議と足元が落ち着いた。
自分はもう、あの夜の広間に一人で立っているわけではない。
ここは辺境の砦で、自分には役目がある。
そして、後ろにはちゃんと人がいる。
応接棟の空気は、王都の匂いを少しだけ含んでいた。
高価な香油ではない。だが、旅装の布に染み込んだ、王都の屋敷特有の乾いた石と磨かれた木の匂い。リシェルはそれを嗅いだ瞬間、嫌でも昔を思い出した。
広い廊下。磨かれた床。小さな失敗も許されない食卓。誰かの視線。誰かの期待。誰かの不満。
けれど、目の前の部屋は王都ではない。
石壁は粗く、暖炉の火は実用のために燃えていて、窓の外には雪が積もっている。
部屋の中央には、若い男が立っていた。
二十歳前後だろうか。濃い茶色の髪をきちんと整え、旅装ながら礼儀正しく身を保っている。顔には疲れがあるが、目は誠実そうだった。
リシェルは彼を見て、少し記憶を探った。
「……マティアス?」
男ははっと顔を上げ、深く頭を下げた。
「リシェル様。覚えていてくださったのですね」
マティアス・ロウ。
レヴェント公爵家の執事見習い。まだ少年だった頃から屋敷に出入りしていて、茶器の手入れや来客控えの整理を手伝っていた。リシェルが婚約者として公爵家へ通っていた頃、よく帳面を運んできた少年だ。
あの頃は、まだ背も少し低かった。
今は旅装が似合う青年になっている。
「ええ。久しぶりね」
そう言ってから、リシェルは少しだけ言葉を直した。
「遠いところを、よく来ました」
王都の令嬢としてではなく、砦側の人間としての言葉。
マティアスはその違いに気づいたように、一瞬だけ目を揺らした。
部屋の奥にはアルヴェインが立っていた。窓際ではなく、今日は机の近く。ガレスも壁際に控えている。
守るように、というより、場を見極めるように。
アルヴェインが短く言う。
「用件を」
マティアスは姿勢を正した。
「レヴェント公爵家嫡男、エドガー様より、リシェル様のご様子を確認するよう命じられて参りました」
その名が部屋に落ちる。
エドガー。
胸が痛まないわけではなかった。
けれど、思っていたほど揺れない。
それが少し意外だった。
「私の様子を?」
リシェルが問うと、マティアスは慎重に頷く。
「はい。辺境で医務に携わっておられると聞き、また、王都で様々な噂が出ておりますので……」
「噂」
「失礼ながら、リシェル様が無理に働かされているのではないか、あるいは辺境で不当に利用されているのではないか、と」
リシェルは、思わず黙った。
無理に働かされている。
不当に利用されている。
王都らしい見方だと思った。
王都の人間にとって、辺境で働くことは“落ちぶれた者が仕方なくさせられること”なのだろう。自分の意思で役目を得ているとは、すぐには考えない。
ガレスの眉が少し動いた。
アルヴェインは表情を変えない。
リシェルは静かに帳面を机へ置いた。
「私は、無理に働かされているわけではありません」
マティアスが顔を上げる。
「ですが」
「ここで医務と補給の連携を担当しています。村からの相談も、薬草の確認も、偽薬草の記録も、必要があって行っています」
リシェルは帳面を開いた。
来訪記録。薬草検分。村ごとの相談札。講習参加者名。
「これが、ここでの私の仕事です」
マティアスは紙面を見つめ、息を呑んだ。
その顔に浮かんだのは、疑いではない。驚きだった。
「……リシェル様が、これを全部?」
「私一人ではありません。ベルン先生やトーマス、ガレス副官、村の方々にも手伝ってもらっています」
「村の方々まで」
「ええ」
リシェルはミラの木札の写しも見せた。
「この子は、私たちが共有した白百合の符丁を見て、偽薬草を見抜きました」
マティアスは木札の拙い文字を見て、しばらく黙った。
「……王都で聞いた話と、違います」
ぽつりと落ちた言葉だった。
リシェルは静かに問う。
「王都では、どのように?」
マティアスは困ったように視線を伏せた。
「リシェル様は、辺境でかなり追い詰められていると。薬師という名目で危険な役目を押しつけられ、王都に戻ることもできず、砦の者に都合よく使われているのではないかと」
リシェルは一瞬だけ、目を閉じた。
そういう物語にしたいのだ。
王都は。
自分が辺境で立っていることを認めるより、可哀想な被害者か、利用されている愚かな女にしたほうが都合がいい。
そのほうが、王都が自分を“救い出す”名目を作れるから。
「違います」
リシェルは目を開けた。
「私はここで、必要とされて働いています。押しつけられているのではありません。私が選びました」
その言葉を言う時、声は震えなかった。
マティアスは、まっすぐリシェルを見た。
かつての屋敷で、彼はよく彼女が帳面を整えている姿を見ていた。紅茶の配合表、来客控え、侍女の配置。誰にも褒められない仕事を、淡々と片づけていた姿を。
その彼だからこそ、今の言葉が嘘ではないと分かったのかもしれない。
「……本当に、変わられましたね」
マティアスは小さく言った。
リシェルは少しだけ笑った。
「そう見えますか」
「はい。ですが、変わったというより」
彼は言葉を探すように一度視線を落とし、それから言った。
「昔からなさっていたことが、ここではちゃんと見えているのだと思います」
その言葉は、不意打ちだった。
胸の奥が、痛いほど熱くなる。
昔からなさっていたこと。
誰も見ていないと思っていた。
少なくとも、王都ではそうだった。
けれど、この若い執事見習いは見ていたのだ。
「……ありがとう」
リシェルがそう言うと、マティアスは慌てて頭を下げた。
「滅相もございません」
アルヴェインがそこで初めて口を開いた。
「エドガーは、なぜ今になって確認を?」
声は低い。
その名を呼ぶ声音は冷静だったが、部屋の温度が少し下がったように感じた。
マティアスは緊張した顔で答える。
「屋敷内で、リシェル様が担っておられた実務の大きさが、今になって明らかになっております。また、聖女派の動きについても、エドガー様は疑念を抱いておられます」
「疑念」
「はい」
マティアスは迷った末に続けた。
「エドガー様は……リシェル様に、直接お会いしたいとお考えです」
部屋の空気が止まった。
ガレスがわずかに顔をしかめる。
アルヴェインの青い目が、静かに細くなった。
リシェルは、自分の心臓が一つ強く鳴るのを感じた。
エドガーが会いたい。
あの夜、自分を断罪した男が。
婚約を破棄し、セシリアを庇い、自分の言葉を聞こうともしなかった男が。
今になって、会いたいと。
何を言うつもりなのだろう。
謝罪か。
確認か。
弁解か。
それとも、また自分の都合を押しつけるためか。
胸の奥に、古い痛みが少しだけ浮かぶ。
けれど、すぐに別のものがそれを押し返した。
今の自分には、ここでの仕事がある。
そして、会うかどうかを選ぶのは、自分だ。
「マティアス」
リシェルは静かに言った。
「私は、今すぐ王都へ戻るつもりはありません」
「はい」
「エドガー様に会うかどうかも、今この場では決めません」
マティアスは深く頭を下げた。
「そのお返事を、そのままお伝えいたします」
「それと」
リシェルは少しだけ息を吸った。
「私はここで、可哀想な状態にいるわけではないと。誰かに救い出してもらうために待っているわけではないと、伝えてください」
マティアスの目がわずかに揺れる。
「……承知しました」
「そして、王都で私について語るなら、せめてここで私が何をしているかを見てからにしてほしい、と」
声は穏やかだった。
けれど、言葉ははっきりしていた。
マティアスは深く、深く頭を下げた。
「必ず、お伝えいたします」
応接棟を出ると、リシェルは冷たい空気を吸い込んだ。
思った以上に疲れていた。
足が震えるほどではない。けれど、昔の名が、昔の家が、昔の婚約者が、自分の前へ戻ってくる感覚は、やはり軽いものではなかった。
回廊の端まで歩いたところで、背後から低い声がした。
「リシェル」
振り向くと、アルヴェインがいた。
彼はいつものように黒い外套を羽織り、静かにこちらを見ている。
「大丈夫か」
短い問い。
それだけで、胸が少し緩みそうになった。
「大丈夫です」
「本当にか」
「……少しだけ、疲れました」
「そうだろうな」
彼は責めるでもなく、慰めるでもなく、ただそう言った。
その距離感がありがたかった。
「怒っていましたか」
リシェルが問うと、アルヴェインは少しだけ眉を動かした。
「俺が?」
「はい」
「多少は」
正直な答えだった。
「エドガー様が会いたいと言ったから?」
「それもある」
「それも」
「お前を“救い出す”対象のように語ったことにも腹が立った」
その声は静かだった。
だが、底に確かな怒りがある。
「お前はここで立っている。見れば分かることだ」
リシェルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……団長は、いつもそう言ってくれますね」
「事実だからな」
「事実でも、言われると嬉しいです」
そう言うと、アルヴェインは一瞬だけ黙った。
少しだけ視線を逸らし、低く言う。
「なら、何度でも言う」
リシェルは息を止めた。
何でもないように言うから、余計に胸へ刺さる。
「……ずるいです」
「またか」
「またです」
ほんの少しだけ笑うと、アルヴェインの目もわずかに和らいだ。
だが、その表情はすぐに引き締まる。
「会うかどうかは、お前が決めろ」
「はい」
「望まないなら、会わせない」
その言葉は、強い。
けれど支配ではなかった。
選択を守る言葉だった。
リシェルは静かに頷く。
「今は、会いたいとは思えません」
「そうか」
「でも、いつか必要になるかもしれません。あの夜のことを、ちゃんと確かめるために」
「その時は、俺もいる」
即答だった。
心臓がまた鳴る。
当たり前のように言われたことが、こんなにも心強い。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「でも、言いたいので」
「知っている」
いつものやり取り。
それだけで、王都から持ち込まれた古い痛みが少し遠ざかる。
夕方、マティアスは砦を発つことになった。
彼は最後にもう一度、医務棟を見たいと申し出た。リシェルは短く考えた末、許可した。
医務棟では、トーマスが湯を運び、ベルンが薬草を選別し、村から来た老人が膝の痛みを相談していた。ミラから届いた新しい薬草の束も机に置かれている。
マティアスはその様子を黙って見ていた。
「……本当に、ここでは皆様がリシェル様を頼っているのですね」
「皆に助けられています」
「それでも、中心にいらっしゃる」
その言葉に、リシェルは少しだけ困ったように笑った。
「中心というより、繋ぎ目かもしれません」
「繋ぎ目」
「薬草と人、村と砦、記録と現場。そういうものの間にいるだけです」
マティアスは、少し眩しそうに目を細めた。
「それは、王都でも同じでした」
リシェルは何も言えなかった。
「でも、王都では誰も、その価値を言葉にしなかった」
マティアスは深く頭を下げる。
「遅すぎますが、申し訳ありませんでした」
「あなたが謝ることではありません」
「それでも、私は見ていたのに、何も言えませんでした」
リシェルは静かに首を振った。
「あの頃は、私も自分の価値をうまく言葉にできませんでした」
そう言ってから、医務棟の中を見回す。
「ここへ来て、ようやく分かり始めたんです」
マティアスは黙って聞いていた。
やがて、もう一度深く頭を下げる。
「そのまま、お伝えいたします」
「ええ。お願いします」
そして彼は、雪の中へ去っていった。
夜、リシェルは自室で帳面を開いた。
王都から来た、過去の婚約者の使者。
今日の出来事を書き出す。
マティアスの来訪。
王都での誤った噂。
エドガーが会いたがっていること。
レヴェント家が聖女派に疑念を抱き始めていること。
自分は今すぐ戻らないと伝えたこと。
最後に、少しだけ迷ってから一行を書いた。
「私は、救い出されるためにここにいるのではない」
その文字を見つめる。
そうだ。
自分は、誰かに拾われるためにここにいるのではない。
誰かに取り戻されるためでもない。
王都に許される日を待っているわけでもない。
ここで選び、ここで働き、ここで立っている。
それを、ようやくはっきり言えた。
窓の外では、雪が静かに降っている。
王都から過去が来た。
けれど、過去はもう、リシェルをその場に縛りつける力を失い始めていた。




