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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第33話 白百合が持ち帰った報告

 白百合の馬車が王都へ戻る道のりは、来た時よりも重かった。


 エリナ・ヴァレリーは、白と金に飾られた馬車の中で、膝の上に置いた報告書の束を見下ろしていた。外では雪道を進む車輪が鈍い音を立てている。辺境の道は王都の石畳とは違い、揺れが大きく、整えられた馬車でさえ時折きしんだ。


 来る前、彼女は思っていた。


 辺境へ落とされた令嬢など、少し強い言葉を向ければ揺らぐだろうと。


 王都の礼法を知る者なら、聖女派の使者に真正面から逆らうことなど簡単にはできない。まして、リシェル・フォルディアは断罪された身だ。どれほど辺境で少し役に立っていようと、王都の名と聖女候補の権威を前にすれば、自然と昔の立場を思い出すはずだった。


 だが、違った。


 あの女は、揺れなかった。


 いや、厳密には揺れていたのだろう。指先の力、声の間、息の整え方。王都で同じ場に立っていたエリナには、それくらい分かった。


 けれど、揺れても崩れなかった。


 それが何より厄介だった。


 机の上へ並べられた記録。

 偽薬草の実物。

 白百合の符丁の写し。

 村娘の拙い証言札。

 薬草講習の参加者名。

 そして、辺境の兵や村人たちがリシェルを見る目。


 あれはもう、追放された令嬢を見る目ではなかった。


 必要な者を見る目だった。


「……面倒なことに」


 エリナは小さく呟いた。


 向かいに座っていた書記の男が、顔を上げる。


「何か?」


「いいえ。記録の整理を続けて」


「はい」


 書記は慌てて筆を動かす。


 彼も動揺している。無理もない。彼は視察団として、辺境医務の不備を拾い、聖女派の支援の正当性をまとめるつもりでいたはずだ。


 ところが実際に見せられたのは、不備ではなく、辺境なりの整った仕組みだった。


 洗練はされていない。

 王都式でもない。

 だが、機能している。


 それが一番厄介なのだ。


 粗末なら批判できる。

 混乱していれば支援の名で介入できる。

 リシェルが無理をしているだけなら、彼女一人を外せば崩せる。


 けれど、あの砦では、もう彼女の仕事が周囲へ広がり始めていた。


 トーマスという若い兵は記録を手伝い、ベルンという老薬師は不機嫌そうにしながらも講習を担い、ガレス副官は補給記録を動かし、村娘ミラは偽薬草を見抜いた。


 リシェル一人ではない。


 だからこそ、彼女を取り除くだけでは済まなくなっている。


 エリナは窓の外へ視線を向けた。


 白い雪道が後方へ流れていく。


 あの砦の中で、アルヴェインはずっと黙っていた。


 だが、沈黙こそが厄介だった。


 彼はリシェルの前に立たなかった。

 彼女の言葉を奪わなかった。

 代わりに、彼女の少し後ろに立っていた。


 守る位置であり、信じる位置。


 王都の男たちなら、女が矢面に立つことを好まない。守るふりをして、結局は自分の言葉で場を支配する。だが、あの男は違った。リシェルに話させ、必要な時だけ空気を締めた。


 それは、ただの庇護ではない。


 あの男は、リシェル・フォルディアを“使える駒”ではなく、“並べて立つ者”として扱っていた。


 それが、聖女派にとって最も面白くない。


「報告には、余計な感情を入れないで」


 エリナは書記へ告げた。


「はい」


「けれど、事実は落とさないこと。リシェル様が砦で一定の信頼を得ていること。アルヴェイン団長がそれを公然と認めていること。白百合の符丁について、砦側がすでに警戒を広げていること」


 書記の顔がこわばる。


「そのまま書いて、よろしいのですか」


「落とせば、こちらの判断が遅れるわ」


 エリナは淡々と答えた。


「それに、都合の悪い事実ほど、早く上へ渡したほうがいい」


 そうしなければ、自分が責任を負わされる。


 エリナは王都の女だ。

 清らかさをまとう者の側近ではあっても、清らかさだけで生きているわけではない。


 彼女は報告書の端を指で押さえ、静かに言った。


「リシェル様は、もう王都で断罪された時のままではありません」


 書記の筆が止まる。


「それも、書くのですか」


「いいえ」


 エリナは薄く微笑んだ。


「それは、私が直接申し上げます」


 王都では、雪はほとんど溶けていた。


 馬車が離宮へ入る頃、空には淡い冬の光が差していた。整えられた庭には白百合が咲いている。温室で育てられた花だ。辺境の雪の中では到底咲けない、守られた美しさ。


 セシリア・エルンストは、その温室にいた。


 白い外套を羽織り、花の間に立つ姿は絵のようだった。傍らの侍女は少し離れて控え、誰もが彼女の清らかな横顔を乱さぬよう、声を潜めている。


 エリナが戻ると、セシリアはゆっくり振り返った。


「お帰りなさい、エリナ」


 声は柔らかい。


 だが、目は笑っていなかった。


「ただいま戻りました、セシリア様」


「辺境は、どうでした?」


 問いは穏やかだった。


 しかし、答え方を間違えれば空気が変わることを、エリナはよく知っている。


「想定より、整っておりました」


 セシリアの指が、白百合の茎にそっと触れたまま止まる。


「整っていた?」


「はい。少なくとも、表から見える範囲では。医務棟の記録、薬草の見分け、村との連携、すでに一定の仕組みができています」


「誰が?」


 短い問いだった。


 声はまだ柔らかい。だが、花弁に触れる指先にわずかな力が入っている。


 エリナは一拍置いた。


「リシェル様が中心に」


 白百合の茎が、かすかにしなった。


 セシリアは微笑んだまま、静かに言う。


「そう。やはり、あの方は昔から細かいことがお好きでしたものね」


 昔から。


 その言葉には、少しだけ毒があった。


 エリナは何も返さない。


 セシリアは温室の中をゆっくり歩く。


「辺境の皆様は、お困りではなかったの?」


「困ってはいました。ただ、困り方を記録に変えていました」


「……記録」


「はい。偽薬草の件も、白百合の符丁の件も」


 白百合。


 その言葉が落ちた瞬間、温室の空気がほんの少し冷えた。


 セシリアは足を止める。


「白百合の符丁?」


「偽薬草の木箱に、白百合に似た印が刻まれていたそうです。砦側は、それを村へ注意喚起しています」


「まあ」


 セシリアは小さく笑った。


「白百合を、まるで悪いものの印のように扱うのね」


「リシェル様は、花そのものを悪く思っているわけではない、と」


「そう」


 微笑みは崩れない。


 しかし、セシリアの瞳の奥に一瞬だけ暗いものがよぎった。


 リシェルが言いそうなことだ。


 花は悪くない。

 悪いのは、それを隠し印に使う誰かだ。


 正論。


 昔から、リシェルはそういう女だった。


 言い方は控えめで、声を荒げることは少ない。だが、肝心なところでは決してこちらの望む形に曲がらない。


 だから嫌いだった。


 あの静かな目が。


 泣けば場が味方してくれることを知っていたセシリアにとって、リシェルの“泣かずに見ている目”は、ずっと邪魔だった。


「アルヴェイン様は?」


 セシリアは何気ないふうに尋ねた。


「リシェル様をどう扱っていたの?」


 エリナは慎重に答えた。


「公的には、砦の医務・補給連携の担当者として」


「公的には?」


 セシリアが振り返る。


 エリナは目を伏せた。


「個人的にも、かなり信を置いているように見えました」


 沈黙。


 温室の中で、白百合の香りだけが静かに漂っている。


 やがてセシリアは、そっと花弁を撫でた。


「辺境は、人を変えるのね」


「そのようです」


「でも、王都も人を変えるわ」


 セシリアは静かに微笑んだ。


「戻ってくれば、きっと思い出すでしょう。あの方が、どこで裁かれ、誰に許されるべき立場なのか」


 エリナは答えなかった。


 その言葉には、清らかさよりも支配があった。


 セシリアは白百合を一本、茎の根元から折った。


 ぱきり、と小さな音がする。


「報告書を置いていって」


「はい」


「それから、エドガー様にも知らせましょう。あの方はまだ、リシェル様のことを誤解していらっしゃるようだから」


 誤解。


 どちらの意味なのか、エリナには分かった。


 リシェルが悪女だったという誤解ではない。


 リシェルがもう終わった女だという誤解。


 セシリアは、それを正すつもりなのだ。


 ただし、リシェルに有利な形ではなく。


 その日の夕刻、エドガーはセシリアからの手紙を受け取った。


 封には白百合の香りが移っている。


 彼は一瞬だけ眉を寄せた。以前なら、その香りに心が和らいだかもしれない。だが今は、白百合という花そのものに妙な引っかかりを覚えるようになっていた。


 手紙の文面は、相変わらず優しかった。


 辺境の視察団が戻ったこと。

 リシェルが砦で働いていること。

 彼女が無理をしていないか心配していること。

 けれど、辺境の人々が彼女に過度な期待をかけているようで不安だということ。

 そして、エドガーならば、かつての婚約者として彼女を正しい道へ戻せるかもしれないということ。


 読み終えた時、エドガーはしばらく動けなかった。


 正しい道へ戻す。


 その言葉は、美しいようでいて、ひどく傲慢だった。


 自分はリシェルを断罪した。

 婚約を破棄した。

 彼女を守らなかった。


 その自分が、今さら正しい道へ戻す?


 以前なら、そうだと頷いたかもしれない。

 セシリアが望むなら、自分がリシェルに言ってやるべきだと思ったかもしれない。


 だが、今は違う。


 屋敷の乱れ。

 執事長の静かな指摘。

 辺境での報告。

 医務と補給の連携役。

 そして、聖女派の視察団が戻ってきたという事実。


 すべてが、エドガーの中で嫌な形に絡まり始めていた。


「……正しい道、か」


 低く呟く。


 では、あの夜、自分が正しいと思っていた道は本当に正しかったのか。


 その問いを、最近の彼は振り払えなくなっている。


 机の上には、冬期贈答の失敗に関する報告書がまだ積まれている。侍女の配置も乱れ、茶葉の調整も戻らない。リシェルがいなくなってから、屋敷の細部はずっと綻び続けている。


 彼女は、悪女だったのか。


 それとも、自分たちが見ようとしなかったものを、黙って支えていた女だったのか。


 エドガーは手紙を畳んだ。


 セシリアの香りが指先に残る。


 それが、今日はなぜか少し息苦しかった。


「執事長」


 呼ぶと、老執事が静かに入ってきた。


「お呼びでしょうか」


「辺境へ送れる使者を探せ」


 執事長の眉がわずかに動く。


「リシェル嬢へ、ですか」


「違う」


 エドガーは即座に否定した。


 だが、少し間を置いてから言い直す。


「……いや、違わない。直接ではない。北西辺境補給砦について、もっと詳しい報告が欲しい」


「承知しました」


「それと」


 エドガーは手紙へ視線を落とした。


「聖女派が、どこまでリシェルの件に関わっているかも調べろ」


 執事長は一瞬だけ沈黙した。


 それから、深く頭を下げる。


「かしこまりました」


 扉が閉まる。


 エドガーは一人、暖炉の前に残された。


 自分が何をしようとしているのか、まだ完全には分からない。


 リシェルを取り戻したいのか。

 謝りたいのか。

 それとも、自分が間違っていたかもしれないという事実を確かめたいだけなのか。


 どれも認めたくない。


 だが、もう無視できない。


 白百合の香りが、部屋の中に薄く残っていた。


 一方、辺境の砦では、リシェルが視察団の記録をまとめていた。


 エリナの質問。

 白百合の符丁への反応。

 ミラの木札を見た時の微細な沈黙。

 医務棟の仕組みへの評価とも警戒ともつかない言葉。

 そして、去り際の「セシリア様にも伝える」という一言。


 すべてを書き残す。


 王都の言葉は、後から意味を変えることがある。

 だから、その場の空気ごと記録しておく必要がある。


 医務棟の灯は静かに揺れていた。


 トーマスはすでに休み、ベルンも奥へ引っ込んでいる。今はリシェル一人だ。


 けれど、孤独ではなかった。


 少しすると、戸が軽く叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはアルヴェインだった。


「まだ書いていたか」


「はい。今日のうちにまとめたくて」


「無理をするなと言った」


「座って書いているだけです」


「座っていても無理はできる」


 その返しに、思わず笑ってしまう。


 アルヴェインは机の上の記録へ目を落とした。


「エリナは、何か持ち帰ったな」


「ええ」


「こちらも同じだ」


 彼はリシェルの向かいに立つ。


「向こうは、お前が変わったことを王都へ伝える」


「でしょうね」


「セシリアにも届く」


「はい」


「怖いか」


 いつもの問い。


 だが今日のリシェルは、少しだけ違う答えを返した。


「怖いです。でも、見られて困るほど後ろ暗いことはしていません」


 アルヴェインの目が、わずかに和らぐ。


「強くなったな」


「辺境のせいです」


「俺のせいでは?」


 珍しく、彼のほうからそう言った。


 リシェルは少しだけ目を丸くし、それから小さく笑う。


「少しは」


「少しか」


「かなり、かもしれません」


 言ってから、頬が熱くなる。


 アルヴェインは何も言わなかった。


 ただ、静かにこちらを見ていた。


 その沈黙が、言葉よりも近い。


 リシェルは慌てて筆へ視線を戻した。


「……記録、もう少しで終わります」


「終わったら休め」


「はい」


「本当に」


「はい」


「怪しい」


「団長は疑い深いです」


「お前に関してはな」


 その一言で、また胸が鳴る。


 困る。


 最近、この人は不意にこういう言葉を落としてくる。


 リシェルは咳払いをして、記録紙の最後へ筆を置いた。


 「視察団は去った。王都へ、こちらの変化が伝わる」


 そこまで書いて、少し迷う。


 そしてもう一行加えた。


 「それでも、私はここで立つ」


 アルヴェインはその文字を見て、何も言わなかった。


 だが、部屋を出る時に低く一言だけ残した。


「そのつもりでいろ。俺もそうする」


 扉が閉まる。


 リシェルはしばらく、その言葉の余韻を聞いていた。


 王都で白百合が何を咲かせるかは、まだ分からない。


 けれど辺境では、もう別の芽が育ち始めている。


 雪の中でも枯れない、強い薬草のような芽が。

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