第31話 聖女派の視察団
白百合の符丁が村へ広がってから、砦の空気は少し変わった。
怯えではない。
むしろ、逆だった。
王都から何かが来る。
偽薬草が紛れ込む。
見知らぬ荷には注意する。
白百合の印を見つけたら、すぐ知らせる。
そうした警戒は確かに増えた。だが同時に、砦と村のあいだには以前より強い連帯のようなものが生まれていた。
西の林縁村のミラが偽薬草を見抜いた件は、あっという間に周囲の村へ伝わった。小さな少女が、砦で教わった通りに匂いと紐の違いを見分け、行商人を疑い、被害を防いだ。
その話は、ただの噂では終わらなかった。
村人たちは、自分たちでも気づけるのだと知った。
兵たちは、教えたことが役に立つのだと知った。
そしてリシェルは、自分の仕事が一人の手を離れ、誰かの目と判断へ広がっていく瞬間を見た。
それは、王都で失ったものとは違う形の誇りだった。
医務棟の机には、今日もいくつもの札が並んでいる。
西の林縁村。
南東の谷筋の村。
北の沢沿いの小集落。
それぞれから届いた薬草の相談、見慣れない荷の確認、凍傷の処置、煮沸水の使い方。
リシェルはそれを一つずつ確認し、帳面に記していた。
「……この村、白百合の印はなかったけれど、紐の巻き方が妙だったと」
呟くと、隣で湯を運んでいたトーマスが顔を寄せた。
「また偽物ですか?」
「まだ分からないわ。念のため、実物を持ってきてもらいましょう」
「了解です」
トーマスはもう、こうした確認に慣れてきている。以前なら、薬草の違いなど見分けられないと笑っていたかもしれない。けれど今は、少しでも変だと思えばすぐに記録へ残すようになった。
ベルンも、表面上は不機嫌なままだが、村向けの薬草見分け講習を二度目、三度目と続けている。
本人は毎回「面倒だ」「儂は教師ではない」と言う。
だが、机へ並べる薬草の種類は毎回増えている。
リシェルはそれに気づいていたが、あえて言わなかった。
言えば、きっと老人は意地になって否定するからだ。
そんなふうに医務棟が動き始めていた昼前、砦の正門側から伝令が駆け込んできた。
「団長へ、王都から正式文です!」
その声だけで、医務棟の空気が止まった。
王都。
まただ。
リシェルは筆を止めた。
トーマスが不安そうにこちらを見る。ベルンは無言で薬瓶の栓を閉めた。
伝令は医務棟の前を通り過ぎ、応接棟へ向かって走っていく。
しばらくして、ガレスが姿を見せた。
その顔を見た瞬間、今度の文も良い知らせではないと分かった。
「リシェル」
副官は呼び方をもう迷わなかった。
「団長が呼んでいる」
「……はい」
リシェルは静かに立ち上がった。
ベルンが低く言う。
「嫌な顔だな、ガレス」
「ああ。嫌な文だ」
「今度は何を寄越した」
ガレスは一瞬だけ迷い、それから短く答えた。
「聖女派の視察団だ」
医務棟の空気が、さらに冷えた。
応接棟には、すでにアルヴェインがいた。
机の上には封を切られた文。ガレスが入口付近に立ち、砦の事務官が一人、少し青ざめた顔で控えている。
アルヴェインは窓際に立っていた。
黒い外套の裾が動かない。
背筋はまっすぐ。
だが、そこに漂う冷たさはいつもより強い。
「来たか」
短い声。
「はい」
リシェルは机の上の文へ視線を向けた。
「聖女派の視察団と聞きました」
「ああ」
アルヴェインは文を手に取り、読み上げるでもなく要点だけを告げた。
「辺境における薬草流通の混乱と、医療支援の不備を確認するため、神殿および聖女候補支援会から視察団を送る、とある」
医療支援の不備。
その言葉に、リシェルは唇を引き結んだ。
偽薬草を送り込んだ側が、今度は“混乱しているから確認する”という名目で来る。
あまりにも都合が良すぎる。
「目的は」
リシェルは静かに問うた。
アルヴェインの青い目がこちらを見る。
「表向きは、辺境への支援だ」
「本当は?」
「お前を見ることだろうな」
やはり。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
聖女派は、リシェルが辺境で何をしているのか、直接確かめに来るつもりなのだ。
そして同時に、アルヴェインの近くにいる女を測る。
場合によっては、医療支援の名目で介入する。
薬草流通の混乱を理由に、リシェルの役目を揺らす。
あるいは、聖女候補の権威を使って、辺境の医務そのものを上から覆う。
その図が、あまりにもはっきり見えた。
「……早いですね」
リシェルが言うと、ガレスが苦い顔で頷いた。
「こちらが白百合の符丁を広げた途端だ。向こうも焦ったんだろう」
「つまり、見抜かれたことは伝わっている」
「そう考えたほうがいい」
応接棟の中が重く沈む。
だが、不思議とリシェルの心は完全には乱れなかった。
怖くないわけではない。
聖女派。
視察団。
王都の権威。
そして、その後ろにいるかもしれないセシリア。
それらが砦へ来ると思えば、胸は確かに冷える。
けれど、もう何も知らずに断罪の場へ立たされた夜とは違う。
今は、記録がある。
偽薬草がある。
白百合の符丁がある。
村人の証言がある。
ミラが見抜いた事実がある。
そして何より、ここには自分を一人にしない人たちがいる。
「いつ来るんですか」
「三日後」
ガレスが答えた。
「急ですね」
「向こうは、準備させたくないんだろう」
「でも、三日あります」
リシェルは言った。
その声が思いのほか落ち着いていたので、自分でも少し驚いた。
アルヴェインが静かにこちらを見る。
「何をするつもりだ」
「視察団が医療支援の不備を見ると言うなら、こちらは記録を整えます」
自然と言葉が出る。
「薬草の入荷記録。偽薬草の検分記録。白百合符丁の写し。村ごとの相談記録。講習の参加者名。ミラさんが見抜いた偽薬草の報告。全部を時系列にします」
ガレスの目が少し変わった。
「攻める気か」
「守るためです」
リシェルはきっぱりと言った。
「でも、ただ防ぐだけでは不利になります。向こうは“支援”という綺麗な言葉で来る。ならこちらは、支援を拒むのではなく、“すでに何が行われ、何が妨害され、誰が見抜いたか”を見せます」
アルヴェインが低く問う。
「白百合の符丁も出すのか」
「出し方は慎重にします。でも、こちらが何も知らないと思わせる必要はないと思います」
そこで一度、息を整える。
「むしろ、こちらは見ていると示したほうがいい」
沈黙。
風が窓を叩く。
アルヴェインはしばらく黙っていたが、やがてほんのわずかに口元を動かした。
「……本当に、前へ出る女だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めている」
今度は即答だった。
その一言に、胸が少しだけ熱くなる。
ガレスが横で息を吐いた。
「団長、方針は?」
アルヴェインは文を机へ置いた。
「受け入れる」
事務官が目を見開いた。
「よろしいのですか」
「拒めば、隠していると言われる。なら通す」
青い目が鋭くなる。
「ただし、こちらの場でな」
その言葉で、応接棟の空気が決まった。
逃げない。
隠れない。
ただし、王都の作った舞台には乗らない。
この砦の中で、こちらの記録とこちらの人間をもって迎え撃つ。
リシェルは静かに背筋を伸ばした。
「準備します」
「一人ではやるな」
すぐにアルヴェインが言う。
「ベルン、トーマス、ガレスを使え。村への確認も兵を通せ」
「はい」
「無理をするな」
「はい」
「本当に分かっているか」
いつもの確認。
けれど今は、それすら少しだけ心強い。
「分かっています」
そう答えると、アルヴェインはやっと少しだけ目を細めた。
「ならいい」
その日の午後、医務棟は戦場のようになった。
剣も槍もない。
あるのは紙と札と薬草と帳面だ。
リシェルは机の上に三つの山を作った。
一つ目は、医務記録。
誰がいつ来て、何を診たか。
二つ目は、薬草流通記録。
どの村から何が届き、どの荷に違和感があったか。
三つ目は、偽薬草関連。
最初の荷、白百合符丁、ミラの報告、押さえた馬車の写し。
トーマスが紙を写し、ベルンが薬草の実物を瓶に分け、ガレスが兵から聞き取りを集める。
不思議だった。
王都では、一人で抱えていた記録の仕事。
誰にも見えず、誰にも感謝されず、ただ当然のように積まれていた作業。
それが今は、皆の手で動いている。
「この薬草瓶、どっちに置きます?」
トーマスが聞く。
「偽薬草の比較用だから、三つ目の山へ」
「了解です」
「ベルン先生、この本物の見本は村ごとに違いがありますか」
「少しある。林縁の草は匂いが重い。谷筋の草は乾きが早い」
「では、比較表に分けます」
「面倒だな」
「でも必要です」
「分かってる」
そんなやり取りを重ねながら、記録は少しずつ形になっていった。
夕方近く、ミラのいる西の林縁村からも返答が届いた。
ミラ本人の証言を書いた木札だ。
字はまだ拙い。
けれど、はっきり書かれている。
「札を見て、白百合の印を探しました。匂いが変だったので砦へ知らせました」
リシェルはその木札をしばらく見つめた。
聖女派が来る。
彼らはきっと、リシェルを測るだろう。
辺境の医療を測るだろう。
砦の粗さを探し、王都の整った言葉で上から覆おうとするだろう。
だがこの木札には、王都の飾った文にはない強さがある。
村の少女が、自分の目で見て、判断し、動いた証拠。
それは辺境の小さな勝利だった。
「リシェル」
ベルンの声がした。
「はい」
「それも出すのか」
「出します」
「王都の連中は笑うかもしれんぞ。村娘の拙い字だと」
「笑ったら、その程度の人たちだと分かります」
リシェルは静かに言った。
「でも私は、これが一番大事だと思います」
ベルンは黙った。
しばらくして、ぼそりと言う。
「……なら、見やすいように上へ置け」
「はい」
その言葉が、老人なりの賛同だと分かった。
夜、準備が一段落したあと、リシェルは中庭へ出た。
冷えた空気が頬へ当たり、長くこもっていた頭が少しだけ澄む。空には雲が広がり、月は見えない。けれど雪の白さが、足元をぼんやり照らしていた。
中庭の端に、アルヴェインが立っていた。
まるで最初からそこにいると分かっていたように、リシェルは自然に近づいた。
「準備は進んだか」
「はい。まだ全部ではありませんが、形にはなってきました」
「無理は」
「少ししました」
正直に言うと、アルヴェインの眉が動いた。
「お前は」
「でも、途中で休みました。トーマスさんにも手伝ってもらいましたし、ベルン先生にも怒られました」
「ならいい」
意外にも、そこで引いた。
リシェルは少しだけ笑った。
「少し、信じてくれるようになりました?」
「少しだけな」
「少しだけですか」
「今のところは」
その返しに、胸が温かくなる。
少しだけ。
でも、確かに。
アルヴェインはしばらく空を見上げ、それから低く言った。
「聖女派は、綺麗な言葉を使う」
「はい」
「支援、祈り、慈悲、清廉。そういう言葉で場を包む」
「王都らしいですね」
「だが、辺境の雪はそれでは溶けない」
その言い方に、リシェルは顔を上げた。
アルヴェインの青い瞳は、暗い中庭でも静かに光って見える。
「お前の記録で迎え撃て」
低く、真っ直ぐな声。
「王都の言葉ではなく、辺境で積んだ事実で」
その言葉に、胸の奥が強く鳴った。
記録。
それはリシェルの武器だ。
薬草を見る目、匂いを嗅ぎ分ける鼻、帳面を整える手。
王都では評価されなかったそれらが、今ここでは戦うための力になっている。
「はい」
リシェルは頷いた。
「私は、私のやり方で立ちます」
アルヴェインの目が、少しだけ柔らかくなる。
「ああ」
それだけで、不思議と怖さが小さくなった。
聖女派の視察団は、三日後に来る。
王都の花を掲げて。
清らかな言葉を纏って。
リシェルを測り、砦を見下ろし、アルヴェインの近くにあるものを確かめに。
だが、こちらももう何も知らないわけではない。
白百合の符丁を見抜き、偽薬草を記録し、村へ伝え、少女がそれを受け取った。
辺境には辺境の戦い方がある。
その中心に、自分も立つ。
リシェルは雪の中で、静かに息を吸った。
冷たい空気が胸を満たす。
怖さはある。
けれどもう、逃げたいとは思わなかった。




