第30話 白百合を見抜いた少女
白百合の符丁を描いた札は、翌朝には砦から周辺の村へ配られ始めた。
薄い木板に簡単な絵を描き、短い言葉を添えたものだ。王都の文書のように飾った言い回しは使わない。誰が読んでも分かるように、できるだけまっすぐな言葉を選んだ。
知らない荷は、すぐ開けない。
見慣れない薬草は、煎じる前に砦へ。
箱の底に花の印があれば、触らず知らせる。
白百合のような印には注意。
そこに、リシェルが描いた白百合の簡単な図を添えた。
王都では、白百合は清らかさの象徴だった。けれど今、辺境では違う意味を持ち始めている。
隠された手を見抜く印。
誰かがこっそり仕掛けたものを、皆で見つけるための印。
それだけで、リシェルは少しだけ胸が熱くなった。
隠されていたものを、隠れないものへ変える。
それは、彼女が王都でできなかったことだった。
王都では、噂も、証言も、悪意も、いつも見えないところで積み上がっていた。気づいた時には、すでに自分は断罪の場へ立たされていた。誰が何を言い、どこでどんな手紙がすり替えられ、誰がどの証言を用意したのか。すべてが終わったあとでしか分からなかった。
けれど辺境では違う。
見つけたなら、記録する。
危ないなら、皆へ伝える。
不審なものは、一人で抱え込まない。
それだけで、悪意の力は少し削がれる。
「リシェル殿、こっちは南東の谷筋へ持っていきます」
若い兵が木札の束を抱えながら言った。
「お願いします。村長さんだけでなく、水場を管理している方にも見せてください」
「了解です」
「それと、薬草を干している家の方にも。白百合の印だけじゃなく、紐や匂いの違いも説明してください」
「はい。……ええと、紐が新しすぎるやつは注意、でしたよね」
「ええ。村で使う紐は再利用が多いですから、妙に揃いすぎているものは一度確認を」
兵は真面目に頷いた。
以前なら、こうした細かい説明を聞く兵は少し退屈そうにしたかもしれない。だが今は違う。偽薬草が実際に砦へ入り込もうとした以上、誰もそれを他人事とは思わなくなっていた。
医務棟の前では、トーマスが別の束をまとめている。
「こっちは西の林縁村ですね」
「ミラさんがいる村ね」
「はい。昨日の講習、かなり真剣に聞いてましたよね」
「ええ」
リシェルは小さく頷いた。
薬草を見る目のある少女。
白百合の符丁を見つけた後も、怖がるより先に「もっと覚えます」と言った子。
あの子の目は、どこか昔の自分に似ている気がした。
分からないことを怖がるより、知りたいと思う目。
王都では、それが可愛げのなさと見られることもあった。けれど辺境では、そういう目こそ必要になる。
「ミラさんには、簡単な見分け表も渡してください」
「分かりました」
トーマスは札の束とは別に、小さく折った紙を一枚入れた。
リシェルが手書きでまとめた、薬草の特徴表だ。
葉の形、匂い、乾燥の具合、束ね方。絵も添えてある。拙い絵ではあるが、文字だけよりは分かりやすいはずだ。
ベルンがそれをちらりと見て、鼻を鳴らした。
「甘やかすなよ」
「学ぶ気のある子には、材料を渡すべきです」
「生意気を言うようになったな」
「先生の弟子なので」
そう返すと、ベルンは一瞬だけ言葉に詰まり、次いで露骨に嫌そうな顔をした。
「誰が弟子にした」
「違いましたか?」
「勝手に学んでいるだけだ」
「では、勝手に学びます」
トーマスが横で笑いを堪えている。
ベルンはそれを睨んだが、本気で怒っているわけではなかった。
この砦の人々のやり取りにも、少しずつ慣れてきた。厳しく、ぶっきらぼうで、けれど冷たくはない。
王都で交わされる美しい言葉より、こちらのほうが今のリシェルにはずっと心地よかった。
札を持った兵たちがそれぞれの村へ向かってから、医務棟は少しだけ静かになった。
静かといっても、仕事がないわけではない。
リシェルは新しい帳面へ今日の出入りを記し、ベルンは講習で使った薬草の残りを分類し直し、トーマスは湯を沸かす。凍傷気味の兵が二人来て、村からの相談札も一通届いた。
そのすべてをこなしながら、リシェルは時折ふと外を見る。
白百合の札は、今頃どの村へ届いているだろう。
ミラはどう受け取るだろう。
白百合の印を見て、怖がるだろうか。それとも、昨日と同じように目を強くして、「覚えます」と言うだろうか。
そんなことを考えていると、昼を少し過ぎた頃、砦の西門側が急にざわついた。
最初は、戻ってきた兵が何か言い争っているのかと思った。
だが違う。
足音が近づいてくる。かなり急いでいる。しかも複数。
トーマスが戸口へ顔を出した。
「何か来ました」
リシェルも立ち上がる。
次の瞬間、医務棟の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、西の林縁村へ札を届けに行った兵だった。肩に雪を乗せ、息が上がっている。その後ろに、小柄な少女がいた。
ミラだ。
頬を真っ赤にし、息を切らし、両手で布包みを抱えている。
「薬師様!」
ミラは医務棟へ入るなり、まっすぐリシェルへ駆け寄った。
「これ、変なんです!」
その声は震えていた。
けれど泣いてはいない。
怖いのに、それでもここまで持ってきた声だった。
「落ち着いて。見せて」
リシェルはすぐに作業台を空けた。
ミラが布包みを置く。
兵が説明を加える。
「村へ札を配っていたところ、ちょうど別の荷が入ってきていました。薬草を持った行商人だと。で、この子が変だと言い出して」
「行商人は?」
「村の者が足止めしています。こちらへ伝令を出すよう頼んであります」
リシェルは頷き、布包みを開いた。
中にあったのは、乾燥薬草の束だった。
見た目は本物にかなり近い。昨日の偽薬草よりも精巧だ。葉の乾かし方も少し改善されている。束ね紐も古びたものに見えるよう、わざと汚してある。
だが、ミラは見抜いたのだ。
「どこが変だと思ったの?」
リシェルが問うと、ミラは息を整えながら答えた。
「匂いです。昨日教えてもらった本物は、もっと土の甘い匂いがしました。でもこれは、草の匂いの奥に……油みたいなのがあって」
リシェルは薬草を持ち上げ、顔を近づけた。
確かにある。
昨日と同じ、王都風の甘い油の匂い。
ただし昨日よりずっと薄い。
気づくには、かなり注意深く嗅がなければならない。
「……よく気づきました」
リシェルが言うと、ミラの目が少し潤んだ。
「本当ですか」
「ええ。本当です」
ミラはそこで初めて、ほっとしたように唇を震わせた。
「怖かったです。でも、薬師様が、変だと思ったら持ってきてって言ったから」
リシェルの胸が強く熱くなった。
札は、届いていた。
言葉は、届いていた。
そして一人の少女が、それを信じて動いてくれた。
王都が隠して持ち込もうとしたものを、辺境の村娘が見抜いた。
それは小さな出来事かもしれない。けれどリシェルには、まるで大きな勝利のように思えた。
「ミラさん」
リシェルは静かに言った。
「あなたのおかげで、村に偽薬草が入るのを止められます」
ミラは目を見開いた。
「私が?」
「ええ」
リシェルは微笑む。
「昨日、ちゃんと覚えたからです」
ミラの顔が、赤くなった。
照れと安堵と誇らしさが入り混じった、年相応の表情だった。
その時、医務棟の戸口から低い声が落ちた。
「詳しく聞かせろ」
アルヴェインだった。
黒い外套を羽織ったまま、戸口に立っている。隣にはガレスもいた。おそらく西門の騒ぎを聞いて来たのだろう。
ミラは一瞬で固まった。
無理もない。村娘にとって、辺境の騎士団長は近寄りがたい存在だ。
リシェルはそっと声をかける。
「大丈夫。見つけたことをそのまま話せばいいの」
ミラはこくりと頷き、震えながらも説明した。
村へ札が届いたこと。
その直後、行商人を名乗る男が薬草を売りに来たこと。
見た目は本物に近かったが、匂いが変だったこと。
紐も、古く見せているけれど汚れ方が同じだったこと。
箱の底を見ようとしたら、行商人が慌てたこと。
アルヴェインは黙って聞いていた。
ミラが話し終えると、彼は短く言った。
「よく見た」
たったそれだけ。
だがミラは息を呑み、まるで勲章をもらったかのような顔になった。
「は、はい!」
ガレスが兵へ向き直る。
「すぐ村へ戻る。行商人を押さえろ。逃げていたら足跡を追う」
「了解!」
兵が走り出す。
アルヴェインもすぐ動くかと思ったが、彼は一度だけリシェルを見た。
「お前の札が効いたな」
その声には、はっきりとした評価があった。
「ミラさんが覚えてくれたからです」
「教えたのはお前だ」
「ベルン先生もです」
奥からベルンが顔をしかめた。
「儂を巻き込むな」
「巻き込みます。講習をしたのは先生です」
リシェルが言うと、ミラも慌てて頭を下げた。
「ベルン先生、ありがとうございました!」
ベルンは一瞬だけ完全に固まった。
トーマスが横で口を押さえて笑いを堪える。
「……礼を言うな」
ようやくベルンが言った。
その声は不機嫌だったが、少しだけ照れているようにも聞こえた。
午後には、西の林縁村から続報が戻った。
行商人は逃げていた。
だが、村人たちがすぐに足跡を見張り、砦の兵が追ったため、荷の一部と馬車を押さえることができた。行商人本人は森へ逃げ込んだが、荷の中には同じような偽薬草が複数入っていたという。
そして、木箱の一つの底には、やはり白百合の符丁が刻まれていた。
今度は、花弁の下の三本線のうち、一本に小さな横傷が入っていた。
ガレスがそれを見て唸る。
「印を変えている」
「荷の経路ごとに違うのかもしれません」
リシェルは写しを取りながら答えた。
「昨日の砦向けと、今日の村向けで印が少し違う。行き先か、担当か、荷の種類を示している可能性があります」
「つまり、まだ他にもあると」
「はい」
その言葉に、小会議室の空気が重くなった。
しかし、昨日とは違う。
今回は見抜けた。
しかも砦の中ではなく、村で。
それが大きい。
「村へ伝えたことは無駄ではありませんでした」
リシェルが言うと、アルヴェインは静かに頷いた。
「無駄どころではない」
彼は机上の白百合の写しを見た。
「これで、向こうが使った手を一つ潰した」
その言葉に、リシェルは小さく息を吸う。
潰した。
守った、ではなく。
それは受け身ではない言い方だった。
王都の手に対して、辺境が一つ反撃したのだ。
「ミラさんたちのおかげです」
「お前の仕組みのおかげだ」
アルヴェインはすぐに返す。
「一人が見抜けるだけなら、偶然で終わる。だが見抜ける者を増やしたなら、それは仕組みだ」
仕組み。
その言葉が、リシェルの胸に深く落ちた。
自分が王都でしていたことも、きっとそうだった。
家の中の細部を整え、誰も倒れないように、何も滞らないように、見えない仕組みを作っていた。
でも王都では、それを誰も見なかった。
辺境では違う。
ここでは、仕組みが命を守ると皆が知っている。
だから見てもらえる。
だから評価される。
だから広げられる。
「……うれしいです」
思わず言葉が漏れた。
アルヴェインがこちらを見る。
「何がだ」
「私のやり方が、ちゃんと役に立ったことが」
少しだけ照れくさくなりながらも、リシェルは正直に言った。
「一人で気づくだけではなく、誰かが同じように気づけるようになったことが」
アルヴェインの目が、ほんの少し柔らかくなる。
「それが、お前の強さだろう」
その一言で、胸がいっぱいになった。
王都では、細かすぎると疎まれた。
可愛げがないと嫌われた。
何でも見ようとする目が、冷たいと言われた。
でも今、その同じものを、この人は“強さ”と呼んだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな」
「でも、言いたいので」
「そうだったな」
短いやり取りなのに、二人の間に以前より深いものが流れているのを感じる。
ガレスが横で小さく咳払いした。
「二人の空気を作るのは後にしてくれ。今は符丁の話だ」
リシェルの頬が一気に熱くなる。
「す、すみません」
アルヴェインは表情を変えないが、ほんのわずかに視線を逸らした。
ベルンが面倒そうに呟く。
「まったく、砦中が気づいてるぞ」
「先生」
「何も言っとらん」
「言っています」
トーマスは完全に笑いを堪えきれていなかった。
重い話の中でも、こういう空気がある。
それが、リシェルにはたまらなくありがたかった。
夕暮れ前、ミラは村へ戻ることになった。
砦の兵が護衛につき、偽薬草の一部と、新しい白百合符丁の写しも持ち帰る。リシェルは医務棟の前で、ミラへ小さな薬草袋を渡した。
「これは本物の見本。村で皆に見せて」
「はい」
「無理はしないこと。変だと思ったら、必ず大人と一緒に砦へ」
「分かりました」
ミラは両手で薬草袋を抱え、少し迷ったあと、真っ直ぐリシェルを見上げた。
「あの、薬師様」
「何?」
「私も、いつか薬師になれますか」
その問いに、リシェルは一瞬だけ言葉を失った。
雪の中、赤くなった頬。真剣な目。小さな手。
自分が王都で失いかけていたものを、この子は今まさに掴もうとしているのかもしれない。
「なれます」
リシェルは静かに答えた。
「知りたいと思って、見ようとして、覚えようとするなら」
ミラの目が輝く。
「ただし、大変よ」
「はい!」
「地味だし、寒いし、臭い薬もあります」
「はい!」
「怒られることもあるわ」
「ベルン先生にですか?」
あまりにも真面目に聞くので、リシェルは思わず笑ってしまった。
「たぶん、最初は」
少し離れたところで聞いていたベルンが、露骨に顔をしかめる。
「勝手に決めるな」
ミラは慌てて頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「まだ何も言っとらん!」
そのやり取りに、周囲の兵たちが笑う。
辺境の夕方に、少しだけ明るい空気が生まれた。
ミラは荷馬に乗り、護衛兵とともに西門へ向かっていく。
その背を見送りながら、リシェルは胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
王都が白百合の印で偽薬草を送ってきた。
けれど、そのせいで辺境には薬草を学びたい少女が生まれた。
皮肉な話だ。
そして少しだけ、痛快だった。
夜、自室で記録をまとめながら、リシェルは今日の出来事を一つずつ書いた。
西の林縁村でミラが偽薬草を見抜いたこと。
白百合符丁の変形が見つかったこと。
村向け札の効果があったこと。
偽薬草の経路が複数ある可能性。
薬草を学びたい子が現れたこと。
最後に、少しだけ迷いながら一行を足す。
「私のやり方を、団長は強さだと言った」
書いてから、しばらくその文字を見つめる。
強さ。
自分にそんなものがあるとは、王都では思えなかった。
けれど今は、少しだけ信じられる。
見つけること。
記録すること。
伝えること。
誰かが同じように見抜けるようにすること。
それが自分の戦い方なら、きっとこれからも戦える。
窓の外では、雪が静かに降っていた。
白百合の符丁は、もう秘密の印ではない。
辺境の少女が見抜き、砦の薬師が記録し、村へ広がっていく印になった。
王都で咲いた白百合は、辺境の雪の中で、少しずつ意味を変えられていく。




