第29話 触れた熱、ほどけない夜
刺客が去ったあと、砦は眠らなかった。
見張りの数は増え、西壁の下では夜明け前まで雪を掘り返して足跡が追われ、補給庫の周囲には明かりが足された。鍛冶場の火も遅くまで落ちず、医務棟では湯が絶えず沸いていた。
王都は、もう文だけでは済ませない。
その事実を、砦の誰もが骨の近くで理解してしまったからだ。
けれど一番眠れなかったのは、たぶんリシェル自身だった。
刺客の短剣。
鼻を刺した甘く苦い残滓。
そして、自分を庇ったアルヴェインの腕の強さ。
目を閉じるたび、あの瞬間が何度もよみがえる。頬の脇を切り裂いた風。肩を強く引かれる感覚。目の前へ割り込んできた黒い影。いつも冷静なはずの男が、はっきりと怒りと恐怖を露わにしていた顔。
怖かった。
今さら遅れてその実感が押し寄せてくる。
けれど、同じだけ別のことも胸を占めていた。
あの人は、自分のためにああいう顔をするのだ。
そう知ってしまったことの重さと、甘さと、危うさ。
暖炉の火は小さく、毛布は十分温かい。なのに、胸の内側だけがどうしても落ち着かなかった。
眠れぬまま起き上がり、水を飲み、また寝台へ戻る。だが瞼を閉じるたび、肩へ残る手の熱が鮮やかによみがえる。
「……困る」
小さく呟いても、何も変わらない。
困るのは本当だ。
けれど、困るだけではないことも、もう自分で知っている。
夜半をとうに過ぎた頃、戸がかすかに叩かれた。
こんな時間に誰だろうと思った瞬間、胸が先に答えを出してしまう。
「……どうぞ」
開いた戸の向こうに立っていたのは、やはりアルヴェインだった。
黒い外套は脱いでおり、厚手の上着だけを羽織っている。髪は少しだけ乱れ、青い瞳の奥には寝る気配のない光があった。普段よりいくらか近寄りがたいのに、同時にひどく人間らしい疲れも見える。
「起こしたか」
低い声。
「いえ……眠れていなかったので」
そう答えると、アルヴェインの目がわずかに細くなる。
「俺もだ」
その率直さに、胸が少し鳴る。
彼が素直にそう言うのは珍しい。
しかも、自分の前で。
「何か、ありましたか」
「いや」
アルヴェインは一歩だけ中へ入った。
「確認だ」
「確認?」
「お前がここにいることの」
その言い方が、ひどく不器用で、ひどく真っ直ぐだった。
リシェルは一瞬、返す言葉を失う。
ここにいることの確認。
たぶんそれは、砦の薬師としてでも、守るべき一人としてでも、どちらでもあるのだろう。だが今の声色には、それだけでは足りない何かが滲んでいた。
「……います」
やっとのことでそう答える。
「見れば分かる」
「それでも、必要だったんですか」
問うと、アルヴェインは少しだけ視線を逸らした。
「必要だった」
短い肯定。
その二文字の重みが、静かな部屋の中でやけに大きく響く。
しばらく沈黙が落ちた。
暖炉の火が小さく鳴る音だけが聞こえる。外では雪が降っているのだろう。窓の向こうが白くぼやけて見えた。
「入ってください」
気づけば自分からそう言っていた。
「立ったままだと冷えます」
アルヴェインはほんの少し迷ったように見えたが、やがて頷き、部屋の中へもう一歩入る。狭い部屋だ。寝台と机と暖炉だけの空間に、彼の背の高さはやけに大きく見える。
リシェルは椅子を勧めようとして、すぐに気づいた。
一脚しかない。
「……私が寝台へ座ります」
そう言って自分が腰を下ろすと、アルヴェインは椅子へ座った。
距離は近い。
手を伸ばせば触れられそうなほどではないが、この部屋の狭さが互いの気配を濃くしている。
沈黙がまた落ちる。
だが今度の沈黙は、気まずさだけではなかった。互いに何かを言うべきだと分かっていて、その言葉を選んでいる沈黙だ。
「怖かったか」
先に口を開いたのはアルヴェインだった。
問いは静かだった。
それでも、その一言に込められたものは静かではない。彼自身がそれを知りたがっている。確認したいのだ。あの瞬間、自分がどれだけ傷ついたかを。
「……はい」
リシェルは嘘をつかなかった。
「今さらですけど、すごく」
アルヴェインの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「そうか」
「でも」
そこで言葉が自然に続く。
「怖かったのに、助けてもらった瞬間に、別の意味で苦しくなりました」
言ってから、自分で顔が熱くなる。
何をそんなに正直に言っているのだろう。
だが、もう引っ込められない。
「別の意味?」
アルヴェインが低く問い返す。
青い瞳が真っ直ぐこちらを見る。その視線だけで、胸の内側がじわりと熱を持つ。
「……あんなふうに庇われたら、分からなくなります」
「何が」
「どこまでが団長としてで、どこからが」
言葉が詰まる。
その先を言えば、何かが決まってしまいそうで。
だがアルヴェインは逃がしてくれなかった。
「どこからが?」
低い声。
静かなのに、逃げ道を塞ぐような強さがある。
リシェルは指先をぎゅっと握った。
「……個人的な気持ちなのか、です」
言い切った瞬間、部屋の空気が一段深くなった気がした。
暖炉の熱とは違う。もっと直接的で、肌に近い熱だ。
アルヴェインはすぐには答えない。
その沈黙が、かえって答えに近かった。
やがて彼は、ゆっくりと言う。
「団長としてなら、もっと冷静に動けた」
リシェルの呼吸が止まりそうになる。
「昨日のあれは、冷静ではなかった」
その言葉に、胸の奥が強く震えた。
やはりそうなのだ。
責任だけではない。
規律だけでもない。
もっと個人的で、もっと危うい感情が、あの瞬間の彼を動かしていた。
「……そう言われると」
リシェルはうまく息を整えられないまま言う。
「私ばかり揺れていたわけじゃないんだと、少し安心します」
アルヴェインの口元が、ごくわずかに動く。
「お前ばかりだと思っていたのか」
「だって、団長はあまり顔に出さないから」
「出しているつもりはない」
「でも、見えます」
言いながら、ふと気づく。
こういう時に、自分はもうあまり怖がっていない。
この人の表情の変化を読むことが、以前よりずっと自然になっている。
アルヴェインは少しだけ身を乗り出した。
「何が見える」
距離がまた縮まる。
椅子に座ったままの彼と、寝台に腰掛けた自分。少しでも前へ傾けば、息が触れそうなほど近い。
「……怒っている時と、疲れている時と、我慢している時、です」
「我慢?」
「はい」
「何を」
問いが重なるたび、胸の鼓動が速くなる。
これ以上は危うい。
そう思うのに、逃げたくない。
リシェルはアルヴェインの青い瞳を見上げた。
「今も、少し」
その一言で十分だったのだろう。
アルヴェインの目が、はっきりと細くなる。
それは怒りではない。獲物を見る目でもない。ただ、隠していたものを指先でなぞられた時の、静かな緊張だった。
「お前は」
低く、少しかすれたような声。
「本当に、危ないところばかり触るな」
危ない。
その言い方の意味が、もう分かる。
リシェルの喉が小さく鳴った。
「嫌でしたか」
問うと、アルヴェインはすぐには答えなかった。
代わりに、ゆっくりと手を上げた。
逃げたほうがいいのかもしれない。
けれど身体は動かなかった。
大きな手が、そっと頬の脇へ触れる。
指先は思ったより熱い。
あの夜、自分を引き寄せた時と同じ熱。
「嫌なら、来ていない」
その声は低く、ひどく近かった。
触れられた場所から、じわりと熱が広がっていく。頬だけではない。喉も、胸も、指先も、全部が少しずつ熱を帯びる。
アルヴェインの親指が、頬骨の下をほんのわずかになぞった。
それだけの動きなのに、息が乱れる。
こんなに静かな触れ方なのに、どうしてこんなに強いのだろう。
「団長」
呼ぶ声が、自分でも少し甘くなってしまったのが分かった。
アルヴェインの目が、その音へ反応するように揺れる。
「今、その呼び方は少し危うい」
かすかに低くなった声で言われ、胸がまた大きく鳴る。
危うい。
それはつまり、彼も同じところまで来ているということだ。
リシェルは唇を湿らせた。
「では、何と呼べば」
問いは、半分挑むようでもあり、半分逃げ道を与えるようでもあった。
だがアルヴェインは逃げなかった。
「今は、そのままでいい」
言いながら、指先はまだ離れない。
そのことが、ひどく甘い。
キスをするわけではない。
抱き寄せるわけでもない。
それなのに、この距離は告白より深く感じる。
名前を変えないまま、境界だけが変わっていく。
「……ずるいです」
思わず漏れる。
「何がだ」
「そこまでして、まだ何も決めさせないところが」
言った瞬間、自分でも驚いた。
こんなことを言うつもりではなかったのに。
だがアルヴェインは目を逸らさない。
「決めたら戻れなくなる」
「もう戻れません」
ほとんど反射で返していた。
その言葉は、自分の中で驚くほど真実だった。
王都には戻れない。
もう心まで戻れない。
アルヴェインの指先が、わずかに強く頬へ触れる。
「……そう言うな」
「どうして」
「本当にその通りなら」
そこで彼の声が少しだけ掠れた。
「俺のほうが、引けなくなる」
胸の奥が、熱と痛みでいっぱいになる。
その言葉は、ほとんど告白だった。
けれどまだ、最後の線だけは越えていない。
越えれば、きっともう戻れない。
王都も、断罪も、王位も、全部を巻き込んだまま、それでも二人だけの答えを持ってしまうから。
だから今夜は、ここで止まるのだろう。
分かっているのに、少しだけ惜しいと思ってしまう自分がいた。
「……なら」
リシェルは小さく息を吐く。
「今夜は、ここまでにしておきます」
アルヴェインの目が、わずかに和らぐ。
「賢いな」
「本当は全然賢くありません」
「知っている」
その返しに、ふっと笑ってしまう。
指先がようやく頬から離れる。
離れた瞬間、ひどく名残惜しい。
だが、だからこそこれでよかったのだとも思う。
アルヴェインはゆっくり立ち上がった。
「今夜は部屋を出るな」
「はい」
「何かあれば、すぐ呼べ」
「団長も」
「俺は呼ばれなくても来る」
あまりにも自然にそう言うので、また胸がうるさくなる。
彼は戸口まで歩き、それから一度だけ振り返った。
「リシェル」
「はい」
「さっきの確認は終わった」
確認。
今ここにいることの確認。
「なら、今度は俺の番だ」
その言葉だけを残し、アルヴェインは部屋を出ていった。
戸が閉まる。
暖炉の火が静かに揺れる。
リシェルはしばらく寝台の上で動けなかった。頬にはまだ指先の熱が残っていて、胸の奥には、それ以上に消えないものがある。
今度は俺の番だ。
その意味を、考えないふりはできなかった。
しばらくしてから、ようやく机へ向かう。
筆を取る指先が少しだけ落ち着かない。
書くべきことはたくさんある。
刺客のこと。
王都式の符。
見張りの増員。
補給路の再点検。
それなのに最初に書いてしまうのは、やはり別のことだった。
「団長は、嫌なら来ていないと言った」
「私は、もう戻れませんと言った」
そこまで書いて、顔が少し熱くなる。
だが今夜は、それでいいと思った。
物語の外へ落ちるような熱ではなく、むしろ物語の中心に近づく熱だ。
王都の手が忍び寄るほどに、二人の距離もまた危うく近づいていく。
その事実を、もう見ないふりはできない。
窓の外では雪が静かに降っている。
白い夜は、まだ終わらない。
けれどその長い夜の中で、触れた熱だけは、しばらくほどけそうになかった。




