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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第28話 見張り台の熱

 夜の砦は、昼よりも本音が出やすい。


 昼間は誰もが役目の顔をしている。

 団長は団長として。

 副官は副官として。

 薬師は薬師として。

 兵は兵として。


 だが夜になると、その輪郭が少しだけ曖昧になる。


 雪が音を吸い、灯が少なくなり、人の気配がまばらになるぶん、一つ一つの声や視線が昼より濃くなるのだ。


 その夜も、北西辺境補給砦は静かに張りつめていた。


 西壁の外で見つかった王都式の符。

 「女を返せ」と読める断片。

 王都からの“返還”要求を拒んだ直後に、それが見つかったという事実。


 砦の者たちは表向きいつも通り働いていたが、誰もが一段深く警戒している。見張りの交代は早く、物音への反応も鋭く、夜の巡回路には普段より影が多い。


 医務棟でも同じだった。


 リシェルは夕刻からずっと、いつも以上に細かく薬棚と帳面を見て回っていた。必要物資の確認、煮沸用の樽の配置、夜間当番に渡す小袋の数、村から預かった相談札の整理。どれも些細だ。だが、こういう時ほど細部が崩れると一気に響く。


「……よし」


 小さく呟いて最後の木箱の札を整えると、背後でトーマスが「またやってる」と半ば呆れたように笑った。


「今日はもう四回目ですよ」


「四回なら少ないほうよ」


「団長みたいなこと言いますね」


 またそれだ。


 最近、妙にそう言われることが増えた。


 リシェルは木箱の蓋へ手を置いたまま、少しだけ眉を寄せる。


「似てきたかしら」


「張りつめ方がです」


 トーマスは湯桶を持ち直しながら言う。


「でも、前より怖くないです」


「怖かったの?」


「最初はちょっと。王都の偉い令嬢って感じで」


 言ってから、若い兵は慌てて付け足す。


「今は、その、ちゃんと砦の人っていうか」


 その言い直しが、妙に可笑しくて、少しだけ笑ってしまう。


 王都の令嬢。

 砦の人。


 以前なら、その落差に傷ついたかもしれない。

 けれど今は、後者のほうがずっとしっくりくる自分がいる。


「見張り、気をつけて」


 リシェルが言うと、トーマスはいつもより真面目な顔でうなずいた。


「はい。リシェルさんも、一人で出歩かないでくださいね」


「それ、最近みんなに言われるわね」


「だって本当に危ないですから」


 彼はそう言って出ていった。


 残された静けさの中で、リシェルは小さく息を吐く。


 危ない。

 そうだろう。


 王都が何をどこまでしてくるか分からない以上、自分が完全に安全な立場ではないことはもう分かっている。


 それでも不思議と、ただ怯えるだけの気持ちにはならなかった。


 ここには見張る人がいて、守る人がいて、支える手がある。

 そして何より、自分自身ももう、守られるだけの存在ではなくなっている。


 それが大きかった。


 夜番へ引き継ぐ前に、医務棟の裏手の水桶を見ておこうと思い立ったのが、たぶん良くなかった。


 いや、行くこと自体は必要だった。

 裏手の桶は冷えやすく、夜のうちに表面が薄く凍ることがある。朝に備えて蓋と位置だけでも確かめておきたかった。


 ただ、その時間が、見張り交代のほんの隙間だった。


 外へ出ると、風は弱いが空気は重い。雪は降っていないのに、空が低く沈み、音が遠い。こういう夜は、物陰に人の気配があっても気づきにくい。


 医務棟の裏手へ回る。


 桶は無事だ。蓋も締まっている。

 ほっとして手を伸ばしかけた、その時だった。


 石壁の陰で、かすかな衣擦れがした。


 反射的に振り向く。


「誰――」


 言い終わる前に、黒い影が一つ、壁際から滑り出た。


 兵の歩き方ではない。

 巡回の足音でもない。

 静かすぎる。


 リシェルの背筋が一気に冷えた。


 相手の顔は布で半分隠れている。月明りの下で見えたのは、濡れたように光る短剣の刃だけだった。


 逃げる。


 そう思った時にはもう足が動いていた。

 だが声を上げるより先に、相手が距離を詰める。


 速い。


 雪道の襲撃の時とは違う。今度は完全にこちら一人を狙ってきている。


「っ」


 後ろへ下がろうとして、足が石段の縁へ触れた。ほんの一瞬、体勢が崩れる。


 その瞬間、鋭い声が夜を裂いた。


「伏せろ!」


 アルヴェインだった。


 ほとんど同時に、黒い影がもう一つ飛び込んでくる。

 火花のような金属音。

 短剣が弾かれ、石壁へ当たって嫌な音を立てた。


 リシェルは反射的に身を低くする。


 次の瞬間には、アルヴェインが自分と刺客の間へ完全に割り込んでいた。


 黒い外套が夜の中で翻る。

 低く沈んだ重心。

 一歩で間合いを奪う剣筋。


 相手は短剣を立て直そうとしたが遅い。アルヴェインの一撃は深くはない。しかし十分に鋭く、手首と肩の動きを殺すにはそれで足りた。


 男が低く呻き、雪の上へ膝をつく。


 だが終わりではない。


 影がもう一つ、壁の陰から動いた。


 複数いたのだ。


「下がれ!」


 アルヴェインが言う。


 リシェルは言われた通り後ろへ下がろうとする。だが次の刺客は、最初の者と違って自分を狙わなかった。腰から何かを投げる。


 小さな包みが石畳へ落ち、乾いた煙のようなものが弾けた。


 鼻の奥に刺さる、甘いのに苦い匂い。


「っ……!」


 リシェルは咄嗟に口元を袖で覆った。


 この匂い。

 王都の使者の外套に薄く残っていたもの。

 アルヴェインの古傷に触れた時、もっと奥で感じたもの。


 毒と呪の残滓。


 量は少ない。

 だが、目的は殺傷ではないのかもしれない。

 混乱させ、隙を作るためのもの。


「見るな!」


 アルヴェインの声が飛ぶ。


 意味が分かるより早く、彼の腕がリシェルの肩を強く引いた。次の瞬間、短剣がさっきまで自分の顔があった位置を切り裂く。


 風圧だけで頬がひりついた。


 怖い。


 遅れてそれが全身へ広がる。


 もし今、引かれていなければ。

 もし今の一瞬が少しでも遅ければ。


 アルヴェインは片腕でリシェルを背へ隠すように押しやり、もう片方で剣を返した。動きに一切の迷いがない。だが、その代償に脇腹のあたりが一瞬だけ硬くなるのを、彼女は見てしまう。


 傷が疼いている。


 それでも止まらない。


 刺客の二人目は形勢が悪いと見るや、笛のような短い音を鳴らした。すぐ遠くで見張り兵の怒声が上がる。気づいたのだ。


「くそっ……!」


 男たちは一気に身を翻し、壁沿いの暗がりへ逃げる。


 アルヴェインは追わない。


 その代わり、完全にリシェルを庇う位置を崩さなかった。


 見張りの兵が駆けつけた時には、もう刺客の影は雪の向こうへ消えていた。


「団長!」


「西壁と裏手を塞げ。足跡を追え。生け捕りは一人でいい、無理なら印を拾え」


 即座に命令が飛ぶ。


 兵たちが散る。


 そのあいだも、アルヴェインは一歩もこちらから離れなかった。


 ようやく周囲が動き始めたところで、彼は振り返る。


「怪我は」


 声が低い。

 だが、その低さの底にあるものが、いつもと違った。


「……ありません」


 自分でも少しかすれた声だった。


「本当に?」


「はい」


 答えながらも、呼吸がうまく整わない。

 怖かったのだと、今さら身体が気づき始めている。


 アルヴェインはそんなリシェルを見て、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


 それは安堵だった。

 そう分かるほど、彼の表情は今、隠れていなかった。


「医務棟へ戻る」


 短く言う。


「でも」


「戻る」


 有無を言わせない声音。


 そのまま肩へ手を置かれ、半ば囲うようにして歩かされる。

 近い。

 外套越しでも分かるほど、彼の体温はいつもより高かった。戦闘の熱と、怒りと、安堵と、その全部が混じっているみたいに。


 医務棟へ入ると、ベルンが顔色を変えた。


「何だその顔は」


「裏手に二人」


 アルヴェインが簡潔に言う。


「薬師狙いだ」


 その一言で、部屋の空気が凍りついた。


 ベルンもトーマスも、奥にいた夜番の兵まで息を呑む。


「怪我はない」


 アルヴェインは続けた。


「だが、匂い袋を使った」


 リシェルは小さく息を吸う。


「王都で使われた毒と呪の残りに近い匂いでした」


 ベルンの目が鋭く細まる。


「やはり、そこまで繋がるか」


「先生」


「分かってる。水を」


 老人はすぐに棚へ向かい、口を覆うための湿布と、残り香を流すための煎じ湯を準備し始めた。


 そのあいだ、アルヴェインはまだリシェルの肩へ手を置いたままだった。


 離れていない。

 いや、離せないのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなるほど熱くなる。


「団長」


 そっと呼ぶと、彼はようやく視線を寄越した。


「何だ」


「大丈夫です」


 言った瞬間、アルヴェインの目がわずかに揺れた。


「……大丈夫じゃない」


 低く、押し殺した声だった。


「一歩遅れていたら」


 そこで言葉が切れる。


 最後まで言わなくても分かった。


 一歩遅れていたら。

 刃は届いていた。

 あるいは匂い袋のほうが深く入っていた。


 彼はそれを想像したのだ。

 だから今、こんな顔をしている。


 怒りでもなく、冷静な判断でもなく、もっと個人的で、生々しいものが剥き出しになっている顔。


 リシェルは思わず、小さく言った。


「間に合いました」


 それは彼を慰めるような言葉であり、同時に自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。


 アルヴェインはしばらく黙っていたが、やがてごく低く言う。


「だから余計に腹が立つ」


 胸の奥がまた強く鳴る。


 この怒りは、責任感だけじゃない。

 そこへ、もう言い訳の余地はないほど、個人的な感情が混ざっている。


 ベルンが煎じ湯を持って戻ってくる。


「令嬢、これを飲め。鼻と喉を洗う」


「はい」


「団長、お前は手を離せ」


 言われて初めて、アルヴェインも自分がまだ肩へ手を置いたままだと気づいたらしい。ほんのわずかに指先が動き、それから静かに離れた。


 触れていた熱がなくなり、一瞬だけ寒く感じる。


 その感覚に自分で驚いているうちに、ベルンが匂い袋の残りを布へ包んで机へ置いた。


「追った連中が何か拾えばいいが」


「印は残る」


 アルヴェインが言う。


「今回の狙いは明白だ」


「ええ」


 リシェルも頷く。


「“返せ”の文だけでは足りなくなった」


 王都は、本当に手を伸ばしてきたのだ。

 ただの圧ではなく、自分の身体へ届く位置まで。


 その事実に、遅れて背筋がぞくりとした。


 怖い。

 けれど、それ以上に、はっきりしたものがある。


 ここで引くわけにはいかない。


 引いたら本当に、向こうの思う通りに“返されるもの”へ戻ってしまう。


 夜半を少し過ぎた頃、追った兵が戻った。


 結果は半分成功、半分失敗だった。


 一人は逃げ切られた。

 もう一人は手首を切って逃げたが、途中で落とした小袋と、短剣の鞘が拾われた。


 鞘の内側には、やはり王都西側の工房系統に似た刻印。

 小袋には、前回より少し強い残滓の香り。

 そして袋の縫い合わせには、王都の高価な香油瓶を包む時に使う細い絹糸が混じっていた。


 ベルンがそれを見て吐き捨てる。


「もう隠す気もないな」


「隠しているつもりだろう」


 アルヴェインの声は冷たい。


「王都の手が直接届いていると断言できない程度にはな」


 その言い方に、怒りが混じっていた。


 リシェルは机の上の証拠を見つめながら、小さく息を吐く。


 王都の文。

 返せ、の言い回し。

 忍び寄る手。

 自分を狙った刃。

 全部が一本の線になり始めている。


 そしてその線は、もう後戻りできないところまで来ていた。


 夜が完全に更けたあと、医務棟の小部屋で、リシェルはようやく一人になった。


 手はまだ少し冷たい。

 頬には刃の風圧が残っている気がする。

 肩には、アルヴェインの手の熱がまだ薄く残っている気がした。


 記録紙を開く。


 書くべきことは多い。


 「医務棟裏手で刺客二名」

 「狙いは私」

 「王都式の残滓を確認」

 「工房印の系統一致」


 そこまで書いて、筆が止まる。


 次に書いたのは、もっと個人的な一行だった。


 「団長は、今回だけは本気で怯えた顔をした」


 書いた瞬間、胸が少しだけ苦しくなる。


 嬉しいのではない。

 そういう顔をさせたくないと思う。

 けれど同時に、その顔を見てしまったことで、もう引き返せないところまで来たのだとも分かってしまう。


 王都は忍び寄る。

 辺境は構える。

 そしてその真ん中で、自分とアルヴェインの距離だけが、危険と一緒に少しずつ縮まっていく。


 窓の外では、ついに雪が降り始めていた。

 白い夜は静かだ。

 だが、その静けさの下で、確かに次の嵐が近づいている。

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