第27話 返書の夜、忍び寄る手
王都への返書を出した夜から、砦の空気は少しだけ変わった。
静かになったわけではない。
むしろ逆だ。
見張り台の交代は一段厳しくなり、門番の確認は増え、補給庫の鍵は二重に改められ、夜更けの巡回路には必ず二人一組で兵が立つようになった。
王都を拒絶した。
その事実は、誰も口にせずとも、砦の者たちの足取りを少しだけ重くし、少しだけ速くした。
何か来る。
そう思っているのだ。
王都が文を引っ込めて終わるはずがない。
返せと言ってきたものを拒まれたのだ。
ならば次は、もっと見えにくい手で揺さぶってくるかもしれない。
リシェルも、その予感を捨てられずにいた。
だからこそ、その夜はいつもより念入りに医務棟の薬棚を見回った。
煎じ葉の残量。
樹脂の質。
熱冷ましの最低ライン。
予備箱の鍵。
水桶の位置。
巡回班へ渡す小袋の数。
王都が何をしてくるにせよ、まず守るべきはここだ。
怪我人が来た時に薬があること。
村から助けを求められた時に煎じ方を渡せること。
補給路がまた揺れても、すぐには崩れないこと。
目の前のそれを守れなければ、大きな陰謀だの王位だのを考える意味はない。
「まだやってるんですか」
振り向くと、トーマスが湯桶を抱えたまま立っていた。夜番へ入る前なのだろう、肩には少し厚手の外套をかけている。
「確認だけ」
「今日だけで三回目です」
「三回で足りると思う?」
聞き返すと、トーマスは困ったように笑った。
「足りない顔してますね」
「そういう顔に見える?」
「見えます。団長に似てきました」
そのひと言に、リシェルは思わず手を止めた。
「……それ、喜んでいいのか困るのか分からないわね」
「たぶん半分ずつです」
やけに的確な返答だ。
リシェルは小さく笑い、それから棚の扉を閉めた。
「あなたも夜番でしょう。無理しないで」
「それ、今日は俺が言う番じゃないですか?」
「何が」
「無理しないで、って」
トーマスは少しだけ声を潜める。
「返書のあとから、ずっと張ってますよね」
図星だった。
自覚はあった。
気を抜いたら何かを見落としそうな気がして、ずっと内側が強張っている。
けれどそれを認めるのは少し悔しくて、リシェルは曖昧に肩をすくめた。
「……必要だから」
「それも団長っぽいです」
また言われる。
トーマスは悪気なく笑ってから、今度は少し真面目な顔になった。
「でも、砦のみんな、ちゃんと見てますよ」
「何を?」
「リシェルさんがここにいて、ちゃんと動いてることです」
その言葉は、思っていたより静かに胸へ入った。
王都では、見られているのはいつも“見栄え”だった。
姿勢、服、婚約者の隣に立つ顔、失敗しないこと。
ここでは違う。
棚を閉める手、薬袋の結び方、夜に何度も確認する癖、そういうものを見られている。
それが不思議と、今は怖くない。
「……ありがとう」
小さく言うと、トーマスは逆に少し驚いた顔をして、それから照れたように頭を掻いた。
「いえ。じゃあ俺、見張り行ってきます」
軽く手を上げて去っていく背を見送り、リシェルはふと暖炉の火へ視線を落とした。
見られている。
ここにいることを、動いていることを。
その実感は、じわじわと人の背筋を伸ばす。
怖さもある。
でも、それ以上に、ここで立つ理由になる。
夜がさらに深まった頃、医務棟の外で乾いた足音が止まった。
この時間に軽くはない歩き方。
巡回兵ではない。
門番でもない。
規則正しく、迷いなく、けれど急ぎすぎない足音。
リシェルは自然と戸口へ向いた。
すぐに、低い声がした。
「起きているか」
アルヴェインだった。
「はい」
戸を開けると、冷たい空気と一緒に黒い外套の影が入ってくる。雪は降っていないが、肩口には白い粉のようなものが少しだけついていた。見張り台か、門の上から降りてきたところなのだろう。
青い瞳はいつも通り静かだ。
だが、その静けさが少しだけ硬い。
「どうしましたか」
「中で話せるか」
その言い方に、リシェルはすぐにうなずいた。
「もちろんです」
医務棟の奥、普段は記録を書く机のある小部屋へ通す。暖炉の火は小さいが、冷え切った廊下よりはずっとましだ。アルヴェインは戸が閉まるのを待ってから、懐から小さな紙片を取り出した。
「夜警が西壁の外で見つけた」
差し出されたのは、掌に収まるほどの薄い紙だ。雪に濡れたのか端が少しよれている。表には短い線と記号がいくつか書かれていた。
「これ、は」
「見覚えがあるか」
リシェルは灯りへ近づける。
最初はただの走り書きに見えた。だがよく見ると、記号の置き方と省略の仕方に、王都の内向き書簡で使われる簡略符が混じっている。正式な文書ではない。むしろ、急ぎでやり取りする時にだけ用いられる癖の強い書き方だ。
「王都式です」
即座に答える。
「完全に同じとは言えません。でも、王都で内輪向けに使う省略の癖がある」
「内容は読めるか」
リシェルは少しだけ眉を寄せた。
文字そのものは崩れている。だが、いくつか拾える。
返
女
北
前
そして、最後のほうにある短い線の繰り返し。
「断片的ですけど……」
指先で追いながら言う。
「“女を返せ”に近い言い回しと、“北”と、“前に”……たぶん、“返せぬなら前に動く”みたいな省略かもしれません」
言った瞬間、部屋の空気が少しだけ冷たくなる。
アルヴェインは腕を組み、紙片を受け取った。
「やはりな」
「やはり?」
「あからさまに門へ文を寄越して断られた以上、次は別の形で圧をかける」
淡々とした口調だが、その中に怒りがある。
「これは脅しですか」
「半分はな。残り半分は確認だ」
リシェルは息を呑む。
「確認?」
「俺がどこまで本気か。お前がどこまで砦の中へ組み込まれているか。向こうも測っている」
その言葉に、ぞくりと背中が冷えた。
王都は本気だ。
文を出すだけではない。
こちらの反応、砦の空気、自分とアルヴェインの距離、その全部を測ろうとしている。
ならば、ここから先はもう“返書を出した”だけでは済まない。
「団長」
気づけば口を開いていた。
「私、囮になりますか」
アルヴェインの視線が一気に鋭くなる。
「何を言っている」
「だって、狙っているのが私なら」
「違う」
間髪入れずに切られる。
「狙っているのは“俺が渡したくないもの”だ」
その言葉が、胸の中心へ強く落ちた。
私、ではない。
俺が渡したくないもの。
それはもっとはっきりした線引きだった。
「お前を餌にはしない」
アルヴェインは低く続ける。
「二度とだ」
その声音に、先日の襲撃の時とは違う種類の強さがあった。あれは怒りだった。今は決意だ。
リシェルは何も返せない。
嬉しいと思ってしまう自分と、そんなふうに言われるほど深く彼の側へ入ってしまっていることへの怖さと、その両方が一度に押し寄せる。
「……はい」
やっとそれだけ言うと、アルヴェインは少しだけ視線を緩めた。
「分かればいい」
短く、だが以前よりやわらかい。
そして次の瞬間には、もう団長の顔へ戻っていた。
「今夜から見張りを一枚増やす。医務棟の裏手もだ」
「そこまで?」
「そこまでだ」
「村への連絡は」
「明日の朝、ガレスが出す」
隙がない。
いや、本当はまだ隙だらけなのかもしれない。
だからこそ、こうして人の手で埋め続けている。
ふと、リシェルは彼の外套の裾が少し濡れているのに気づいた。
見つけた紙片を自分で回収しに行ったのだろう。
他の兵に任せず、自分の目で確かめた。
「団長」
「何だ」
「少し座ってください」
即座に返ってきたのは、案の定の言葉だった。
「必要ない」
「あります」
「ない」
「あります」
数拍、視線がぶつかる。
そしてアルヴェインは、小さく息を吐いた。
「お前は本当に」
「面倒ですか」
「そうだ」
そう言いながらも、結局は椅子へ腰を下ろす。
リシェルは暖炉のそばの小鍋へ手を伸ばした。今夜用に残しておいた軽い煎じ湯がある。喉を守り、冷えを少し抜く程度のものだ。
「飲んでください」
「毒は入っていないな」
「入れるならもっと高価なものを使います」
そう返すと、アルヴェインはほんの少しだけ口元を動かした。
笑った、とまでは言えない程度。
だが確かに、張りつめた空気が少しだけほどける。
湯気の立つ杯を受け取り、彼は一口だけ飲んだ。
「……悪くない」
「辺境の褒め言葉ですね」
「王都式に言えば何だ」
「『思ったよりは』が頭に付きます」
今度は、はっきりと小さく笑った。
その音を聞いた瞬間、リシェルの胸の奥がふっと緩む。
こんな時でも、こうして少しだけ笑えるなら大丈夫だと思ってしまうのは、たぶんもうかなり深いところまで、この人を信じ始めているからだ。
しばらくして、アルヴェインは杯を机へ戻した。
「今日はもう部屋へ戻れ」
「団長は?」
「見張りの組み直しをしてからだ」
やはりそうなる。
リシェルは少しだけ眉を寄せたが、今夜は無理に止めなかった。止めても行く顔をしているし、それに今の彼が動くべき理由も分かるからだ。
代わりに、少しだけ声を落として言う。
「無茶はしないでください」
「していない」
「それ、信用していません」
「だろうな」
あっさり認めるところが、妙に可笑しい。
「でも」
アルヴェインは立ち上がりながら続けた。
「お前も一人で動くな」
「分かっています」
「今は特にな」
「はい」
そのやり取りは、もう半ば習慣みたいになっている。
なのに今夜は少し違った。
互いに同じ危険を見ているからだ。
王都が手を伸ばしてきている。
それを二人とも知っている。
そのうえで、ここに立っている。
戸口まで歩いたところで、アルヴェインがふと足を止めた。
「リシェル」
「はい」
「……あの文を見たあと、お前が残ると言ったのは正しかったと思っている」
振り向かないままの声。
けれど、そのひと言は驚くほどまっすぐだった。
リシェルは目を見開く。
残ると言ったのは正しかった。
王都を選ばず、辺境を選んだことを、この人はそう言うのだ。
胸の奥が熱くなって、少しだけ息が詰まる。
「……ありがとうございます」
やっと答えると、彼はほんのわずかに顎を引き、そのまま出ていった。
戸が閉まる。
暖炉の火が小さく鳴る。
残された静けさの中で、リシェルはしばらく動けなかった。
王都は“返せ”と言った。
この人は“渡さない”と言った。
そして今、“残ったのは正しかった”と言った。
それだけで、どれだけ自分の足元が固まるのか、彼はきっと分かっていない。
その夜、自室へ戻ったリシェルは、すぐには机へ向かわなかった。
窓辺に立ち、外を見る。
見張り台の灯が一つ増えている。
西壁の下にも新しい影が動いている。
王都の手に備えて、砦は今夜から少し形を変えたのだ。
自分のせいで。
自分のために。
その事実は重い。
けれど、もう逃げたいとは思わない。
机へ座り、記録紙を開く。
「西壁の外で王都式の符が見つかった」
「内容は“女を返せ”に近い」
「団長は私を餌にはしないと言った」
そこまで書いて、筆が止まる。
次の一行を、少しだけ迷う。
けれど結局、正直に書いた。
「王都が手を伸ばすたび、私は辺境へ残る理由を強くしている」
それが今の自分の本音だった。
王都が怖くないわけではない。
むしろ前より、何をしてくるか分からない分だけ恐ろしい。
それでも、だからこそ、ここで立つ意味がはっきりしてくる。
白い夜は長い。
けれどその長さの中で、火を守る場所が自分にはある。
それだけで、今夜は十分だった。




