第26話 拒まれた文、揺れる砦
王都からの「返せ」の文を拒絶した翌日、砦の空気は静かに変わっていた。
目に見えて何かが違うわけではない。
補給庫の戸はいつも通り重く開き、厩舎では馬が藁を踏み、見張り台では交代の声が上がる。医務棟では煎じ鍋が湯気を立て、鍛冶場では鉄を打つ音が響いている。
それでも、何かが違う。
兵たちは誰もそのことを口にしない。だが、誰もが知っているのだ。
団長は王都を拒んだ。
しかも、あの女――いや、もうそう呼ぶ者は減っていたが――リシェルを渡さないと明言した。
それは王都の命令をただ保留したのではない。
辺境が、自分たちの意思で一度立ったということだった。
その重みは、雪のようにじわじわと砦の隅々へ積もっていく。
リシェルは朝の医務棟で、その変化を最初に兵たちの目つきで感じた。
若い兵が煎じ薬を受け取りながら、いつもより少しだけ真面目な顔で頭を下げる。
見張り帰りの兵が、喉の薬を受け取ったあと妙に何か言いたそうにして、結局「助かります」とだけ言う。
村から来た女が「薬師殿」と呼ぶ時の声音も、昨日までより一段深くなっている。
感謝や信頼に、別のものが混ざっていた。
――残ってくれてよかった。
――渡されなくてよかった。
言葉にすれば、たぶんそんな感情だ。
それを自分が受け取っていいのか、まだ少し戸惑う。
だが、王都の文を読んだあとでは、戸惑っているだけではいられなかった。
自分はもう、本当に“返される側”として扱われている。
ならばなおさら、ここでの立場を曖昧にしてはいけない。
「リシェルさん」
トーマスが薬棚の前から振り返った。
「この咳止め、残りがちょっと微妙です」
指差された木箱を見る。最低ラインの印まではまだ少しあるが、今の季節なら次の巡回まで持つかどうか怪しい量だ。
「西の村でも使うでしょうから、補給札を一段上げて」
「はい」
トーマスはもう、こういう時に迷わない。
前ならベルンを振り返っていたところを、今はまっすぐリシェルを見る。
その変化も、いつの間にか当たり前になりつつあった。
ベルンが奥で薬瓶の封を確かめながらぼそりと言った。
「今日は相談が多いな」
「ええ」
「王都の文のせいだろう」
そのひと言に、リシェルは一瞬だけ手を止める。
ベルンは顔も上げないまま続けた。
「村の連中も兵の連中も、こっちが思う以上に空気を読む。団長が何かを拒んだことだけは分かってるんだろう」
「……そうでしょうね」
「で、お前が医務棟にいるのを見て、少し安心してる」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その意味はまっすぐ伝わった。
自分がここにいることそのものが、辺境の人間にとって一種の確認になっているのだ。
王都へ戻されていない。
まだここにいる。
なら、砦は昨日のままではないが、壊れてもいない。
「先生」
「何だ」
「そんなに大きなことなんでしょうか」
ぽつりと漏れた問いに、ベルンはようやく少しだけ顔を上げた。
「王都の命令を突っぱねるのは、辺境じゃ大きい」
短い返答。
「まして理由がお前だとなればな」
理由がお前。
その言葉の重さが胸に残る。
王都では、自分は都合で切られた。
辺境では、その自分が“理由”になる。
同じ一人の女なのに、置かれた場所が違うだけで、これほど意味が変わるのかと少し眩暈がしそうになる。
昼前、補給庫から呼び出しが入った。
行ってみると、ガレスが木箱の山の前に立っていた。副官の顔はいつも通り厳しいが、今日はそれに加えて少しだけ寝不足の影がある。
「忙しいところ悪い」
「何かありましたか」
「西へ出す補給箱の見直しだ」
そう言って顎で示す。
「王都への返書を出した以上、次の動きがあると見たほうがいい。今まで以上に、何をどの順で出すかを詰める」
つまり、補給路が再び狙われる可能性を考えているのだ。
当然だろう。
王都が“返せ”と言ってきた以上、こちらが断れば別の形で揺さぶるかもしれない。
「この三つは別便に分ける」
ガレスは木箱を指す。
「傷薬系、熱病系、煮沸補助。まとめて狙われると面倒だ」
「賛成です」
リシェルはすぐにうなずいた。
「あと、村へ渡す説明札も増やしましょう」
「説明札?」
「はい。煮沸の時間、水桶の洗い方、初期症状が出た時の順番。砦から人が行けない日でも、最低限動けるように」
ガレスは腕を組んだ。
「前より考え方が広くなったな」
「広くならざるを得ません」
「違いない」
副官は一枚の紙を差し出した。
「それと、これだ」
見ると、西と南の小村からの相談依頼がまとめてある。病人の数ではない。欲しいのは“誰に聞けばいいか”という確認と、薬草の見分け方、冬の間の飲み水管理、老人の膝痛の扱い――そうした日常の困りごとだ。
「こんなに」
思わず言うと、ガレスは小さく鼻を鳴らした。
「お前が思っているより、村はお前を当てにしてる」
その言葉が、また少し胸を熱くする。
当てにしている。
王都で向けられたのは、期待ではなく役割だった。
ここで向けられるのは、もっと生活に近い頼り方だ。
「……副官殿」
「何だ」
「王都の文、兵たちはどこまで知っているんですか」
ガレスは少しだけ黙った。
「中身までは知らん」
「でも」
「団長が強く断ったことは分かってる」
やはりそうか。
王都の使者が来て、団長が返書を出した。しかも砦の空気が明らかに変わった。そこまであれば、中身の細部を知らずとも、何か重大な拒絶があったことくらいは皆感じ取る。
「不安がっていますか」
「半分は」
ガレスは淡々と答えた。
「だが残り半分は、妙に腹が据わってる」
「どうして」
「団長が残るからだ」
即答だった。
「それに」
副官は少しだけ目を細める。
「お前もまだここにいる」
そのひと言に、リシェルは何も返せなくなる。
残る。
いる。
ただそれだけのことが、この砦では大きい。
自分の存在が、そこまで砦の空気へ影響しているのだと、ようやく現実味を持って分かってきた。
「……重いですね」
ぽつりと漏らすと、ガレスは肩をすくめた。
「辺境で必要とされるってのは、そういうことだ」
その日の午後は、珍しく医務棟の前に村人が列を作った。
重病人ではない。
だが、今のうちに聞いておきたいことがある人たちだ。
「水を煮る時、蓋はしたほうがいいのか」
「膝が冷える夜に巻く草はどれがいい」
「子どもが腹を壊した時、先に飲ませるのは湯か煎じか」
「霜焼けしやすい指に詰める薬草袋は、何を混ぜればいい」
以前なら、こういう細かな相談は“そのうちでいい”と後回しにされていただろう。
けれど今は違う。村人たちは、早めに聞いておけば悪化を防げると知り始めている。
その変化そのものが、辺境の暮らしを少しずつ変えていく。
リシェルは一人一人へ丁寧に答え、必要なら紙へ簡単な絵と文字でまとめ、トーマスへ写しを取らせた。忙しい。だが、不思議と嫌ではない。むしろ、自分の知識がそのまま人の明日に繋がる感覚があった。
列の最後に並んでいた年配の男が、帰り際にぼそりと言った。
「お前さん、ほんとに王都の人間か」
リシェルは少しだけ目を瞬いた。
「たぶん、そうです」
「たぶん、か」
男は小さく笑った。
「王都の人間ってのは、もっと遠い顔してるもんだと思ってた」
その言葉に、胸のどこかが少しだけちくりとする。
王都の人間。
かつては自分も、間違いなくそちら側だった。
けれど今や、その呼び方が自分に少しだけ似合わなくなっていることも感じる。
「今は、砦の薬師ですから」
そう答えると、男は大きくうなずいた。
「そっちのほうがしっくりくるな」
去っていく背を見送りながら、リシェルは小さく息を吐く。
王都の名より、辺境の役目のほうが自分にしっくりくる。
そんな日が来るとは、少し前まで想像もしていなかった。
夕刻、中庭へ出ると、補給隊の戻りを待つ兵たちが空を見上げていた。
雪はまだ落ちていないが、風が変わり始めている。空気が湿り、冷たさの質が少し変わった。夜にはまた降るかもしれない。
リシェルが空を見ていると、後ろから低い声がした。
「その顔だと、雪の予感でもしているのか」
振り向くと、アルヴェインが立っていた。
黒い外套、少しだけ疲れを含んだ横顔、だが真っ直ぐな青い目。昨日よりも表情は静かだ。王都へ返書を出したあとで、ある種の腹は据わったのかもしれない。
「ええ、少し」
リシェルは答える。
「風が湿っています」
「医務棟の薬師だけじゃなく、空まで見るようになったか」
「辺境で生きるには必要でしょう?」
「そうだな」
その短い肯定が少しだけ嬉しい。
アルヴェインは中庭の向こう、戻りつつある荷車へ目を向けた。
「今日は相談が多かったらしいな」
「もう聞いていたんですか」
「ガレスから」
「副官殿は、なんでも報告が早いですね」
「それが役目だ」
淡々とした返事。
けれどその口ぶりから、彼自身もちゃんと気にしていたのだと分かる。
「村人が増えたか」
「はい」
「兵も」
「はい」
「面倒だな」
そう言いながら、声には少しだけ柔らかさが混じる。
リシェルは思わず笑ってしまう。
「それ、もう“面倒”では済んでいないのでは」
「では何だ」
「頼られている、です」
言い切ると、アルヴェインは一瞬だけ黙った。
それから静かに言う。
「そうだな」
また、まっすぐ認める。
この人は昔なら、もう少し誤魔化していたのではないかと思う。
少なくとも今の自分の前では、必要なことを必要だと認める速さが少しずつ変わっている気がした。
「団長」
「何だ」
「昨日、“渡さない”と言ってくれましたよね」
口にした瞬間、自分でも少し早いと思った。
だが、言わずにはいられなかった。
アルヴェインの目が、わずかに細くなる。
「言ったな」
「……そのあと、少し考えていたんです」
胸の前で指先をそっと組む。
「もし私が、まだ王都へ戻ることに未練を持っていたら、あの言葉は迷惑だったかもしれないなと」
自分で言いながら、妙に冷静になる。
王都へ帰りたい人間にとって、“渡さない”は束縛になり得る。
でも自分は、あの言葉を聞いた時、苦しくなるくらい安堵した。
それがもう答えなのだろう。
アルヴェインは少しだけ視線を落とした。
「迷惑だったか」
問いは短い。
だが、その声には珍しく不安が混じっていた。
それが胸へ刺さる。
「いいえ」
リシェルははっきり答えた。
「少しも」
アルヴェインはしばらく何も言わなかった。
中庭では兵たちが荷を受け取り、馬を引き、普段通りの夕方の音が流れている。なのに、その一角だけは妙に静かに思えた。
「……ならいい」
やがて落ちた声は、低くて、少しだけほどけていた。
その一言だけで十分だった。
今、確かに互いの気持ちの一部を確かめたのだと分かる。
告白ではない。
だが、もうただの励ましでもない。
少しだけ、近づきすぎるほど近い。
その時、補給隊の若い兵が気を利かせたつもりなのか、遠くでやけに大きな声を出した。
「団長! 荷、全部戻りました!」
空気が少しだけ現実へ引き戻される。
アルヴェインはごく小さく息を吐いた。
「行く」
「はい」
「お前も、今日はもう無理をするな」
「団長も」
「毎回返すな」
「大事なので」
少しだけ笑いを含めて言うと、彼もほんのわずかに口元を和らげた。
それだけで、胸がまた温かくなる。
夜、自室へ戻ったリシェルは、机へ向かう前に長く息を吐いた。
今日一日で起きたことを思い返す。
相談に来る村人たち。
自然に回り始めた医務棟。
ガレスの言葉。
ベルンの認め方。
そしてアルヴェインの不安と安堵。
必要とされる。
頼られる。
選ばれる。
その重みが、以前よりずっとはっきりと肩へ乗っている。
けれど不思議と、もう逃げたいとは思わなかった。
記録紙を開き、今日の分を書く。
「王都の文を拒絶した余波はまだ続いている」
「それでも、砦も村も私を必要としている」
「団長は私を渡さないと言い、私はそれを迷惑だと思わなかった」
そこまで書いて、筆を止める。
次の一行は、少しだけ迷ってから、しかしはっきりと書いた。
「辺境で選ばれた私は、もう王都へ戻るための女ではない」
書いた瞬間、胸の奥がすっと静かになった。
王都がどう動こうと。
断罪の裏に何があろうと。
もう自分は、あの夜のままの女ではない。
それは強さであり、同時に危うさでもある。
だがその危うさごと、自分はもう引き受け始めているのだ。
窓の外では、やはり雪が降り始めていた。
白い夜は長い。
けれど、その長い夜の向こうに、まだ名のつかない未来が少しずつ形を取り始めている気がした。




