第25話 王都からの正式命令
雪は止んでいた。
だが、北西辺境補給砦の朝は、まるで昨夜から続く見えない吹雪の中にあるようだった。
空は低く、灰色に重い。外壁の上にはまだ白く雪が残り、見張り台の旗は風を受けるたび鈍い音を立てる。門を開ける音、馬の鼻息、兵たちの掛け声――どれもいつも通り砦に満ちているはずなのに、今日だけは、どの音にもひとさじの緊張が混じって聞こえた。
理由ははっきりしている。
王都から、また文が来たのだ。
しかも今度は、使者が口頭で伝えたものでも、私的な確認でもない。
封蝋付きの正式命令。
砦の誰が見ても、あれは“王都の意思”だった。
リシェルは朝一番で医務棟の帳面を開いたものの、筆が思うように進まなかった。
煮沸水の配分。
夜勤者の軽熱。
西の村からの相談札。
薬棚の最低ライン。
どれも本来ならすぐに手が動く内容なのに、今日は頭の片隅にずっと別の文面が張り付いている。
身辺確認。
召還の可否審査。
王都への帰還可能性。
言葉は整っている。だが、その丁寧さの下にあるものは露骨だった。
お前はまだ王都の手の届くところにいる。
必要なら引き戻す。
そう言われているのと同じだ。
「リシェルさん」
トーマスが少し声を潜めて呼んだ。
振り向くと、若い兵はいつものような明るさを抑え、妙に真面目な顔をしている。
「どうしたの」
「北門側の兵、みんな変な感じです」
「変な感じ?」
「その……誰もちゃんと聞いてないのに、“王都が誰かを取りに来る”って顔してて」
リシェルは小さく息を呑んだ。
噂は早い。
だがこれは、噂の広がりというより、空気の変化を皆が本能的に感じているのだろう。
王都からの命令は、辺境ではただの紙では済まない。人を動かし、秩序を揺らし、誰かの居場所を変える力を持つ。
そして今、その“誰か”の中心に自分がいる。
そこへベルンが奥から低く言った。
「顔に出すな」
リシェルははっとする。
老人は薬瓶の封を確かめる手を止めずに続けた。
「お前が揺れると、周りが余計に揺れる」
「……はい」
正しい。
今ここで自分が不安を見せれば、医務棟も兵たちも、もっとざわつく。
リシェルは一度だけ深く息を吸い、帳面へ視線を戻した。
そうだ。
少なくとも今この場では、自分が先に足元を崩すわけにはいかない。
王都は命令を送ってきた。
だが、この砦の朝はそれでも始まる。
熱を出す兵もいれば、指先のかじかむ見張り兵もいて、村から届く相談も途切れない。
ならばまず、自分の役目を果たすしかない。
だが、現実はそう簡単に仕事だけへ閉じ込めてはくれなかった。
午前のうちに、ガレスが医務棟へ顔を出したのである。
副官は普段から必要なことしか言わない男だ。だが今朝の彼は、その必要なことすら一度で言い切るのをためらうような顔をしていた。
「リシェル」
呼び方が、もう自然に名だけになっている。
「はい」
「団長と砦主で話が終わった」
その一言で、医務棟の空気が少しだけ張る。
トーマスが手を止め、ベルンは表情を動かさないまま耳だけこちらへ向けた。
「それで」
リシェルは静かに問うた。
「命令の中身は?」
ガレスは短く息を吐く。
「表向きは、お前の身辺確認と召還可否の審査だ」
「やっぱり」
「だが実質は違う」
副官の目が少しだけ鋭くなる。
「王都は、“今のリシェル・フォルディアが何者なのか”を見極めたいんだろう」
リシェルはわずかに眉を寄せた。
「何者、ですか」
「ああ。婚約破棄で消えた侯爵令嬢か、辺境の薬師か、それとも」
そこまで言って、ガレスは少し言葉を切った。
「団長の近くにいる危険な札か」
その表現は胸に重く落ちた。
危険な札。
王都の論理では、もう自分は“捨てた女”ではなくなっているのだ。
利用価値か、脅威か、そのどちらかとして見直され始めている。
ベルンが鼻を鳴らした。
「ろくな見方じゃないな」
「王都だ」
ガレスは即答する。
「まともな情で動くと思うほうが甘い」
リシェルは帳面の上に置いた指をゆっくり握った。
悔しい、と思う。
王都は、切り捨てる時は好き勝手に切り捨てておいて、今度は必要かもしれないとなった途端に“確認”という言葉で手を伸ばしてくる。
だが、驚きはなかった。
むしろどこかで、そう来るだろうと分かっていた気もする。
「団長は何て」
問いかけると、ガレスの口元がわずかに固くなった。
「本人抜きで決める話ではない、と」
その言葉に、リシェルは一瞬だけ目を見開く。
本人抜きで決める話ではない。
それは当たり前のことのはずなのに、王都ではあまりにも当たり前ではなかった言葉だ。
断罪の夜、自分の意思は一度も問われなかった。
婚約破棄も、辺境行きも、誰かが決めて、自分はただ従うものとして扱われた。
そんな経験のあとで、その一言はひどく真っ直ぐ胸に入る。
「それと」
ガレスは続けた。
「団長は、査問だろうが審査だろうが、砦で働く人間としてのお前を前提に話すと言っている」
辺境の薬師としての自分を前提に。
つまり、王都の悪役令嬢の札ではなく、今ここで積み上げている役目を基準にするということだ。
リシェルは小さく息を吐いた。
「……それだけで、かなり救われます」
「だろうな」
ガレスの声は乾いているが、そこに否定はない。
副官はしばらくリシェルの顔を見て、それから少しだけ低い声で言った。
「だが甘く見るな。王都は“丁寧に奪う”のがうまい」
その言い方は、警告というより経験から来る実感に近かった。
「脅すだけじゃない。名誉回復、誤解の訂正、侯爵家との和解、将来の保証――そういう形でお前を揺らしに来る」
「……はい」
「揺れるなと言うつもりはない」
ガレスは珍しく、少しだけ言葉を選んだ。
「だが、揺れるなら自分の足で揺れろ。向こうの手で引かれるな」
その一言は、辺境らしい励ましだった。
優しくはない。
だが真っ直ぐだ。
リシェルはゆっくりとうなずいた。
「分かりました」
昼を過ぎる頃には、砦の空気はさらに微妙に変わっていた。
正式命令の存在そのものは、公にはされていない。
けれど兵たちは、何かただならぬものが来たことだけは感じ取っている。
中庭で荷を運ぶ若い兵が、普段より声を抑えている。
補給庫の前で談笑するはずの二人組が、今日は妙に早く会話を切り上げる。
見張り台へ上がる兵が、無意識に応接棟のほうを一度見てから階段を上る。
誰も聞かない。
だが皆、考えている。
王都は誰を動かしたいのか。
団長か。
それとも。
その視線の端に、自分がいることをリシェルは感じていた。
医務棟の前で村人へ煎じ方を説明している最中にも、後ろを通る兵の気配がどこか少しだけ慎重だ。
それは距離を取る慎重さではない。
むしろ逆に、“大丈夫か”と見てくる慎重さだった。
辺境の人間は、ひどく不器用だ。
心配なら心配と口にすればいいのに、それができない。
だから少し遠くから見る。
荷を持つ手をいつもより早く差し出す。
医務棟の戸を開ける時だけ少し静かにする。
そんな形でしか、気遣いを表さない。
「……変な感じね」
思わず小さく呟くと、ちょうど近くを通ったトーマスが聞きつけたらしい。
「何がですか」
「皆が、私に対して少しだけ静か」
「ああ」
トーマスは納得したようにうなずく。
「たぶん、変に聞いて傷つけたくないんですよ」
リシェルは少しだけ目を瞬いた。
「そんなふうに見える?」
「見えます。みんな不器用なんで」
若い兵は笑う。
「でもそれって、だいぶ“砦の人間”ってことです」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
砦の人間。
王都から見れば、たかが辺境の補給砦だろう。
けれど今の自分には、その呼ばれ方のほうが、侯爵家の長女よりずっとしっくり来る。
夕刻、ようやくアルヴェインと話す機会が訪れた。
場所は応接棟ではなく、医務棟と補給庫の間にある石造りの回廊だった。風は通るが、人目は少ない。彼らしい選び方だと思う。
アルヴェインは最初から文を手にしていた。
封は切られ、紙はすでに何度か読み返されたあとらしく、端が少しだけ硬くなっている。
「読め」
差し出された文を受け取り、リシェルは静かに目を落とした。
文面は整っていた。
ひどく整っていた。
フォルディア侯爵家長女リシェル・フォルディアの現在の身辺。
辺境での役務実態。
王都への再召還が本人および公的秩序に与える影響。
必要であれば査問使を送る用意あり。
一見すれば冷静で公正な文だ。
だが、読み進めるほどに分かる。
これは“尋ねている”形をしながら、“引き戻す理由”を探している文だ。
しかもそこに、自分自身の意思を最初から中心に置く気配はない。
「……気持ちが悪いですね」
思わず口にすると、アルヴェインの口元がわずかに動いた。
「同感だ」
文を返す。
指先が少しだけ冷えていた。
「団長は、どう返すつもりなんですか」
「あくまで砦の運用を前提に返す」
「私を?」
「お前をだ」
青い瞳が真っ直ぐにこちらを見る。
「リシェル・フォルディア個人ではなく、今この砦で医務と村との連携を担う人間として」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
個人の情ではなく、役目として守る。
それは冷たいようでいて、今の自分には一番ありがたい守られ方だった。
王都では、役目ごと否定されたのだから。
「……ありがとうございます」
リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけ眉を寄せた。
「礼を言うことか」
「言います」
静かに返す。
「私の役目ごと見てくれることに」
風が二人のあいだを抜ける。
アルヴェインはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「お前は、役目があると強いな」
「王都では、それを見てもらえませんでした」
「だろうな」
短い返答。
だが、その“だろうな”の響きに、怒りに近いものが滲んでいた。
リシェルは少しだけ目を細める。
「団長は、怒っているんですね」
アルヴェインは否定しなかった。
「そう見えるか」
「はい」
「ならそうなんだろう」
いつものように、自分の感情を飾らない答え方だ。
「王都は、お前を切る時は都合で切った。今度は使えるかもしれないと見て、また都合で手を伸ばしている」
その言葉はひどく静かだった。
だからこそ、怒りの芯がよく見えた。
「気に食わん」
たったそれだけ。
それなのに、胸が痛いほど熱くなる。
自分のために怒ってくれている。
ただ婚約破棄された女に同情するのではなく、“扱われ方”そのものに怒っている。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「団長」
小さく呼ぶ。
「何だ」
「私は、王都へ戻りません」
はっきりと言い切る。
アルヴェインの目が少しだけ細くなる。
「命令が来ても」
「はい」
「名誉回復をちらつかされても」
「戻りません」
「侯爵家が呼んでも?」
「戻りません」
一つずつ確かめるような問いだった。
そのたび、リシェルは迷わず返した。
自分でも驚くほど、もう答えは固まっている。
「今の私を必要としているのは、王都ではありません」
静かな声で続ける。
「ここです」
アルヴェインが黙る。
「だから、ここにいます」
その言葉を聞いた時の彼の目を、リシェルはきっと忘れない。
安堵。
誇り。
そして、抑えきれない何かがほんの少しだけ滲んだ目。
「……そうか」
低い声。
それだけなのに、空気の重さが少し変わる。
「なら」
アルヴェインはゆっくりと言った。
「俺も、次は遠慮しない」
「え?」
「王都が建前で来るなら、こっちも建前だけでは返さない」
その一言に、胸の奥が強く鳴る。
それは、ただの政治的な駆け引きの話ではなかった。
“お前を守る”と、別の言葉で言い直されたように聞こえたからだ。
その夜、返書はすぐに整えられた。
表向きは冷静だ。
リシェル・フォルディアは現在、辺境補給砦において医務および村落連携に不可欠な任務を担っている。
軽々な召還は、補給体制および辺境民の安定を損なう恐れがある。
よって当面は現地任用を継続すべき。
そういう文面になるのだろう。
だが、それを起草するアルヴェインの背中から伝わってくるものは、もっとはっきりしていた。
王都には渡さない。
その意思だ。
リシェルは少し離れた場所からその横顔を見ていた。
灯りに照らされる輪郭は冷たく鋭い。
それでもその手元には迷いがなく、筆はすらすらと動いている。
王位継承に近い男。辺境最強の騎士団長。毒と呪の古傷を抱えた人。
その人が今、自分を守るための文を書いている。
そう思うだけで、どうしようもなく胸が熱くなる。
ふと、アルヴェインが顔を上げた。
「どうした」
「いえ」
リシェルは少しだけ笑った。
「……本当に、渡さないつもりなんだなと思って」
彼はほんのわずかに目を細める。
「今さらそこを疑うのか」
「疑ってはいません」
「ならいい」
また筆が動く。
その横顔が、妙に頼もしく見えて、そして少しだけ愛しく思えてしまうことに、リシェルは気づかないふりをした。
返書が出されたあと、砦の空気は少しだけ落ち着いた。
もちろん問題が解決したわけではない。むしろ王都はこの返答で、さらに強い手を打ってくるかもしれない。
それでも、兵たちの間には一つ確かなものが残った。
団長は、砦の人間を簡単には渡さない。
その事実だ。
そしてその“砦の人間”の中に、自分が入っていることを、リシェルもまたはっきり知っていた。
自室へ戻り、机へ向かう。
いつものように今日の記録紙を広げる。
正式命令。
召還可否審査。
砦内の動揺。
団長の返答。
書くべきことは多い。
だが筆が最初に落ちたのは、やはり別の一行だった。
「私は、もう王都から選ばれ直されるのを待つ女ではない」
その文字を見て、リシェルは静かに息を吐く。
そうだ。
もう違う。
王都に見捨てられた令嬢ではない。
誰かの許しを待つ女でもない。
必要だからと、勝手に拾われ直すのを待つつもりもない。
今の自分には、選び返す力がある。
そして、そのことを最初に信じてくれたのは、たぶん――。
そこまで考えて、リシェルは顔を少しだけ熱くした。
窓の外ではまた雪が降り始めている。
辺境の夜は冷たい。
けれど、その冷たさの中でも、自分の居場所は少しずつ揺るがないものになりつつあった。




