第24話 辺境で選ばれる女
辺境で生きる者は、言葉より先に“誰が役に立つか”を見る。
王都のように、家名や肩書や笑みの形で相手を測る余裕がないからだ。雪は待ってくれない。熱は待ってくれない。補給は止まれば人が死ぬ。だからこの土地では、どれほど身分が高かろうと、実際に手を動かし、誰かを助け、明日を少しでも良くした者の名だけが残る。
それを、リシェルはようやく肌で知り始めていた。
雪明りの夜から三日。
辺境の朝は相変わらず容赦がなかった。見張り交代の声、厩舎からの嘶き、薪を割る音、鍛冶場の槌。だが医務棟へ入った瞬間に感じる空気だけは、数日前と少し違っていた。
忙しいことに変わりはない。
軽熱の兵。
凍傷の初期症状。
村からの相談札。
煮沸水の配分見直し。
補給帳の確認。
だが、視線が違う。
以前のような“王都から来た厄介者を見る目”ではない。何かあればまずこちらを探し、相談する相手を見る目だ。
「リシェル殿」
医務棟へ入ってすぐ、北門詰めの若い兵が声をかけてきた。
殿。
もう“令嬢”ですらない。
リシェルは少しだけ目を瞬き、それから自然を装って振り向いた。
「どうしました」
「西の見張り台で一人、指先の痺れを訴えてます。大したことはなさそうですが、前みたいに悪化すると困るので」
「今、診ます」
そう答えると、兵は明らかにほっとした顔をした。
その“ほっとした”という表情が、胸の奥へ静かに沁みる。
頼られている。
しかもそれが、社交の場の建前ではなく、本当に困っている者からの頼り方だ。
奥で薬瓶を並べていたベルンが、ちらりとこちらを見た。
「すっかり馴染んだな」
「何にですか」
「呼ばれ方だ」
老人はぶっきらぼうに言う。
「最初は“あの令嬢”だった。今は“リシェル殿”だ」
リシェルは苦笑した。
「殿は少し大げさでは」
「辺境の連中にとっては、そうでもない」
ベルンは薬瓶の栓を閉める。
「生き延びるのに役立つ奴には、それなりの呼び方をする」
それはつまり、認められたということだ。
ひどく地味で、ひどく辺境らしい言い方だった。だが王都のどんな上品な美辞麗句より、ずっと重い。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。呼ばれ方を決めたのは儂じゃない」
その通りだ。
誰か一人が決めたのではなく、この砦の空気そのものが、少しずつそう変わったのだろう。
辺境の薬師。
砦の医務担当。
名で呼ばれる女。
それはもう、誰かに一方的に貼られた札ではない。自分で積み上げた仕事の先に生まれた呼び名だった。
昼前になると、砦の中庭にはさらに目に見える変化があった。
西と南の小村から、相談のための馬が二頭来ていたのである。
一頭には腰の痛む老人。もう一頭には、子どもの咳を気にする若い母親。さらに、同道した村人が小さな包みをいくつか抱えている。
中庭の兵たちが自然に道を空ける。
「医務棟のほうへ」
ガレスが短く指示すると、誰も迷わず従った。
リシェルはその動きを見ながら、自分がこの流れの一部になっていることを、改めて実感する。
以前なら、村人が来ても砦側がどう処理するか分からず、誰に繋ぐかでもたついていたかもしれない。
だが今は違う。
“相談なら医務棟、医務棟ならリシェル”という流れがすでにできている。
それは一朝一夕にできるものではない。
この数日の積み重ねが、ようやく形になってきたのだ。
「お嬢……いえ、薬師様」
若い母親が、医務棟の前でぎこちなく言い直した。
その言い直しに、少しだけ胸が熱くなる。
「どうしました」
「この前教わった煎じ方で、熱は下がったんです。でも咳が夜だけ残ってしまって」
「診ましょう」
中へ通し、子どもの胸の音を聞き、喉を見て、熱を確かめる。重くはない。乾いた咳が長引いているだけだ。辺境の冬では珍しくない。
「心配はいりません」
そう言うと、母親の肩から目に見えて力が抜けた。
「夜の煎じを少し変えます。水は沸かしたものを続けて、寝具は乾かしてください。あと、家の中で火を焚きすぎて煙がこもるなら、少しだけ逃がして」
「はい、はい」
何度も頷くその顔には、本物の安堵がある。
その横で村人が差し出したのは、手のひらほどの包みだった。中には小さな芋と、干した山菜、それから粗い木札。
「砦の薬師さまへ」
またその呼び名だ。
そして今度は、もう少し堂々と受け取れた。
「ありがとうございます」
「助かった礼です」
「では、私も次に困った時、ちゃんと力になります」
そう返すと、村人は嬉しそうに目を細めた。
医務棟の入口でそれを見ていた若い兵が、ぽつりと呟く。
「ほんとに村の人ら、みんな頼りにしてるんだな……」
その声は小さかったが、アルヴェインの耳にも届いたらしい。
彼は少し離れた場所からその様子を見ていた。
黒い外套。静かな立ち姿。何も言わない。けれど視線だけは、はっきりとリシェルへ向いている。
その目を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
昨日までとは違う。
見守るだけでも、評価するだけでもない。
何かを誇るようでいて、同時に少し落ち着かないような視線。
それが何か、名前をつけるのはまだ怖い。
けれど、まったく分からないわけでもなかった。
午後、補給庫と医務棟の連携帳面を確認していた時だった。
ガレスが珍しく急ぎ足で入ってきた。表情はいつもより硬い。
「令嬢……いや、リシェル」
呼び方が途中で変わる。
それだけで、今の話が公的なものか私的なものか、副官の中でも一瞬揺れたのだと分かった。
「どうしました」
「王都から正式文だ」
その一言で、医務棟の空気がぴたりと止まった。
トーマスが息を呑み、ベルンが露骨に顔をしかめる。
「今度は何だ」
老人の問いに、ガレスは答えず、代わりに一通の封書を見せた。
封蝋は王都の正式文書用。しかも送り先は砦主ではなく、アルヴェイン経由での“確認対象”として書かれている。
「内容はまだ砦内でも限られている」
ガレスは低く言う。
「だが、ざっくり言えばこうだ。王都側が、お前の身柄確認、もしくは召還の正当性を探り始めている」
リシェルは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「私の……」
「名が届き始めたんだろうな」
ガレスの声音は苦い。
「辺境で薬師として働いていること。村の熱病を抑えたこと。補給路襲撃に立ち会ったこと。どこまで向こうに伝わってるかは分からんが、少なくとも“消えて終わった令嬢”ではなくなった」
その事実が、遅れて胸に落ちる。
王都に、自分の名が届いている。
役に立っているという報せと一緒に。
誇らしい気持ちがまったくないわけではない。
だが、それ以上に背筋へ冷たいものが走った。
王都は、価値のないものをわざわざ拾い直さない。
つまり、自分に何かの価値を見出し始めたということだ。
「召還、ですか」
小さく問う。
「まだ“確認”の段階だ」
ガレスは答える。
「だが、次はもっと露骨に来るかもしれん」
ベルンが低く吐き捨てた。
「面倒なことになったな」
「最初から面倒ではありました」
リシェル自身、驚くほど落ち着いた声でそう言った。
怖い。
だが、取り乱しても状況は変わらない。
それは辺境に来て、もう嫌というほど学んだ。
ガレスが続ける。
「団長が読む。お前はまだ表へ出るなと言われている」
「……はい」
「ただし」
副官はわずかに視線を逸らした。
「多分、そう長く隠してもいられない」
その言葉は重かった。
王都の手が、とうとうはっきりこちらへ伸び始めたのだ。
夕刻、空はまた雪を孕んで暗く沈んだ。
医務棟の仕事を一通り終えた頃には、外壁沿いの灯にも早く火が入り始めている。兵たちの間にも、何か新しい文が来たらしいという気配が少しずつ広がっていた。だが今回は、前の使者の時より皆が慎重だ。
たぶん、もう分かっているのだ。
これはただの王都の都合ではない。
砦の誰かを、何かを、持っていこうとする手だと。
その張りつめた空気の中、リシェルは自室へ戻ろうとしていた。
だが、回廊の角で足を止める。
向こうから、アルヴェインが歩いてきたからだ。
黒い外套。静かな足取り。表情は読みにくい。だが、いつも以上に空気が冷たい。
ただの無愛想ではない。
怒っている。
しかもかなり本気で。
「団長」
呼びかけると、アルヴェインは足を止めた。
青い瞳がまっすぐ向く。その中にあるものを見て、リシェルの背筋が少しだけ粟立つ。
怒りだ。
けれど自分へ向けられている怒りではない。
「文は」
小さく問う。
アルヴェインは一歩だけ近づいた。
「読んだ」
「私のことが」
「ああ」
短い。
その短さが逆に危うい。
「何と」
聞き終わる前に、彼は低く言った。
「お前を渡せと言っているのと同じだ」
その一言に、呼吸が止まりそうになった。
確認。召還の正当性。身柄把握。
言葉は柔らかく飾られていても、要するにそういうことなのだ。
リシェルという存在を、もう一度王都の秤へ戻したい。
必要なら、手元へ引き寄せたい。
そういう意志が、文の中にある。
「……団長」
声が少し掠れる。
「どうするんですか」
アルヴェインは答える前に、ほんのわずかだけ視線を落とした。
そして次の瞬間には、ひどく静かで、ひどくはっきりとした声で言った。
「渡さない」
胸の奥で、何かが大きく鳴った。
たった四文字。
それなのに、これまでのどの言葉より深く落ちる。
「リシェルは渡さない」
今度は名前まではっきり入った。
逃げ場のない言葉だった。
それは団長としての判断かもしれない。
砦の医務を守るためかもしれない。
王都への反発かもしれない。
けれど、そのどれだけを並べても、今この瞬間の彼の声に宿っていたもの全部は説明できない。
もっと個人的で、もっと剥き出しの何かがあった。
リシェルは言葉を失い、ただその目を見ることしかできない。
青い瞳は、一切逸れなかった。
「ここで役目を持っている者を、向こうの都合で引き抜かせるつもりはない」
アルヴェインは続ける。
「お前はもう、王都が好きに線を引いて動かせる駒じゃない」
その言葉が、痛いほど胸に沁みる。
王都が好きに動かせる駒じゃない。
それは、リシェルがずっと欲しかった言葉なのかもしれない。
自分は切り捨てられるだけの女じゃない。
置かれて終わるだけの女じゃない。
誰かの都合で消されたままの存在じゃない。
そのことを、今この人は、これ以上なくはっきりと言っている。
「……はい」
やっとのことで返した声は、少し震えていた。
アルヴェインはその震えを見逃しただろうか。たぶん、見逃してはいない。だが何も言わず、代わりに一歩だけ距離を詰めた。
近い。
回廊の窓から入る雪明りが、外套の黒を淡く照らしている。
「怖いか」
低い問い。
リシェルは少しだけ考えた。
怖い。
王都がまた手を伸ばしてくることは。
断罪が終わっていないと知ることは。
自分がその中心へ近づいていることは。
けれど、それ以上に。
「……前よりは怖くありません」
静かに答える。
「団長が、そう言ってくれるなら」
アルヴェインの目がわずかに細まる。
それがどんな感情なのか、今はもう少しだけ分かる気がする。
誇り。
安堵。
そして、自分でも制御しきれない独占欲のようなもの。
だが彼はそれを言葉にはしなかった。
ただ、低く言う。
「そうでいい」
それだけで十分だった。
その夜、自室へ戻ったリシェルは、机に突っ伏しそうになるのをどうにかこらえ、記録紙を開いた。
書くべきことは山ほどある。
村からの相談増加。
医務担当としての正式な巡回表。
王都からの正式文。
身柄確認。
召還の気配。
だが筆が最初に落ちたのは、やはり別のところだった。
「団長は、私を渡さないと言った」
そこまで書いて、しばらく手が止まる。
灯りの中で、その一行がやけに大きく見えた。
自分は辺境で選ばれたのだ。
王都で捨てられたあと、今度は必要だから選ばれた。
役目があるから。
ここにいてほしいから。
渡したくないと思われるほどに。
それがどれほど大きな救いか、今さらながらようやく分かる。
窓の外では雪が静かに降り始めていた。
白い闇の向こうで、王都はきっと次の手を考えている。
そしてこちらも、もうそれを待つだけでは終わらない。
だが今夜だけは、少しだけ胸の奥を温めてもいい気がした。
辺境で、選ばれる。
その意味を、ようやく手にしたのだから。




