第23話 雪明りの告白未満
雪の夜は、時に世界を静かにしすぎる。
北西辺境補給砦の夜もそうだった。見張り台の灯は揺れている。厩舎では馬が時おり鼻を鳴らし、どこかの詰所では兵が低い声で交代を告げる。音は確かにある。けれどそれらはすべて、分厚い雪の向こう側で鳴っているように遠い。
こういう夜は、言葉が少しだけ本音に近づく。
昼のあいだは、誰もが役目の顔をしている。団長は団長の顔をし、薬師は薬師の顔をし、兵は兵の顔をする。だが夜になると、その境目がほんの少しだけ曖昧になる。
そのことを、リシェルは辺境へ来てから何度も感じていた。
けれど今夜は、いつもよりその感覚が強い。
自室の机へ向かっていても、記録紙へ筆を置いていても、胸の奥が妙に落ち着かなかった。昼間にアルヴェインと交わした言葉が、思いのほか深く残っているからだろう。
断罪の裏にあるもの。
自分が盤上の駒として使われた可能性。
彼の古傷と王都の毒。
そして、「次は俺から話す」という約束。
あのひと言が、ずっと胸のどこかで鳴っている。
次は俺から話す。
それは、ただ情報を開示するという意味だけではない気がしていた。彼が、自分をもう完全には外へ置かないと決めた、その証のように思えたのだ。
だからだろうか。
夜が深まるにつれて、じっと部屋へ閉じこもっているのが少し苦しくなった。
暖炉の火は小さい。毛布はある。外は寒い。普通なら部屋を出る理由はない。
それなのに、気づけばリシェルは上着を羽織り、音を立てないよう戸を開けていた。
「……少しだけ」
誰にともなく呟く。
ただ、冷たい空気を吸いたかった。
ただ、それだけのつもりだった。
回廊を抜け、医務棟の裏手を通り、見張り台へ続く石段のほうへ足を向ける。
雪は止んでいた。
雲の切れ間から淡い月明りが落ちていて、砦の石壁や手すりの上に薄い銀色が乗っている。雪明りというものは不思議だ。昼のように明るいわけではないのに、輪郭だけはやけにはっきり見える。
見張り台へは行かず、その手前の外壁沿いで足を止める。
そこから見えるのは、白く沈む森と、かすかに浮かぶ補給路の筋、そして遠くで灯る村の小さな火だ。
辺境は広い。
王都の屋敷の中にいた頃には、世界はもっと狭かった。いや、狭いのではなく、見てよい範囲だけが切り取られていたのだろう。ここへ来て初めて、世界には手の届かない広さと、届く範囲で守るべきものの両方があるのだと知った。
「眠れなかったか」
低い声がして、肩がわずかに跳ねた。
振り向くと、アルヴェインがいた。
黒い外套を羽織り、風の中でもまるで揺るがぬ立ち姿。いつからそこにいたのか分からないほど気配が静かだ。だが、その青い瞳だけは雪明りの中でもはっきり見える。
「団長こそ」
反射的に返す。
「傷に障るのでは」
「お前は本当に、そればかりだな」
呆れたように言われたが、声にはもう棘がなかった。
むしろ、どこかでそれを当然のように受け入れている響きがある。
アルヴェインはリシェルの少し斜め後ろへ立ち、同じように外の暗い景色を見た。
「今夜は、少しだけ静かだ」
「ええ」
「だから余計なことを考える」
「団長もですか」
「ああ」
短い肯定。
その素直さが少し意外で、リシェルは思わず横顔を見た。月明りを受けた頬はいつもより色が薄く見え、強い輪郭の中にわずかな疲れが浮いている。
この人も、考えているのだ。
王都のことを。
帰還命令のことを。
自分の立場を。
そして、たぶん、こちらのことも。
そう思った瞬間、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。
「……次は俺から話すと言ったな」
不意にアルヴェインが口を開いた。
リシェルは少しだけ息を整えた。
「はい」
「今が、その“次”だ」
風が二人のあいだを抜ける。
冷たいはずなのに、その瞬間だけは空気が少し濃くなった気がした。
アルヴェインは外へ視線を向けたまま、静かに言葉を選ぶように口を開く。
「俺は、王都で生まれて、王都で育った。だが、最初から王都に馴染んでいたわけではない」
リシェルは何も挟まない。
これはきっと、彼が自分から差し出そうとしてくれたものだ。ならば、急かさず、遮らず、受け取るべきだと思った。
「名だけ見れば、俺は傍流だ。だが、血の近さだけで人は勝手に計算を始める」
その声音には、自嘲でも誇りでもない、ただ長く付き合ってきた現実への疲れがあった。
「誰が病むか。誰が落ちるか。誰が子を残すか。誰に兵がつくか。誰が民に好かれるか。王都の人間は、そういうものを年若いうちから自然に測る」
リシェルはゆっくり息を吸う。
知ってはいた。王都がそういう場所だということは。けれど、それを王位継承に近い側の人間の声で聞くと、まるで別の重さがあった。
「幼い頃から、俺の周りには“何をするか”より“何になり得るか”を気にする人間が多かった」
アルヴェインは続ける。
「だから早くから剣を持たされ、護衛をつけられ、表では笑えと教えられ、裏では誰を信用するなと教えられた」
その言葉に、胸の奥が少し痛む。
王都の貴族の子どもたちは、早くから“役目”を着せられる。リシェルも知っている。けれど、この人が背負ってきたものは、そのさらに上なのだ。
「辺境へ来たのは、逃げたかったからですか」
気づけば、問いが口をついていた。
アルヴェインは少しだけ目を細める。
「半分は」
その正直さに、リシェルも少しだけ肩の力を抜く。
「残り半分は、ここなら王都から遠いまま、必要な働きができると思ったからだ」
王都から遠いまま、必要な働き。
その言い回しが、この人らしいと思った。
完全に背を向けることはしない。だが近づきすぎても飲まれる。だから距離を取りながら、剣と責任だけは手放さずに生きる。
そんなふうにしてきたのだろう。
「古傷も」
リシェルは小さく言う。
「その頃のものですか」
アルヴェインは少しだけ沈黙した。
そして、否定も誤魔化しもしなかった。
「ああ」
短い返答。
「王都でついた」
「毒と呪の残滓を受けるようなことが」
「ある」
その言い方は、ひどく乾いていた。
王都では、そういうことが“ある”のだ。
あり得る、ではなく、ある。
リシェルは無意識に手を握りしめた。
この人が抱えているものは、想像していたよりずっと深い。
それでも彼は、辺境へ逃げ込んで怯えていたわけではない。
ここで兵を率い、村を守り、補給をつなぎ、必要なら王都へ戻る覚悟も残したまま生きている。
その在り方が、まぶしいと思った。
そして同時に、ひどく危ういとも。
「……戻らなくていいなら」
ぽつりと零れる。
「このまま辺境にいたいですか」
アルヴェインは今度こそ少し長く黙った。
月明りの下、横顔が静かに固まる。簡単に答えられない問いなのだと分かる。
やがて、低い声が落ちる。
「いたい」
その一言に、リシェルは目を見開いた。
あまりにも率直で、だからこそ胸の奥へ深く落ちた。
「だが」
彼は続ける。
「俺一人がそう思っても、国はそれで済まん」
「……はい」
「いずれ戻る時が来るかもしれない。その時に、逃げるつもりはない」
それは王位を欲する人間の言葉ではなかった。
責任を嫌いながらも、投げることだけはしない人間の言葉だった。
リシェルはその横顔を見つめ、胸の中にひどく複雑な感情が広がるのを感じた。
この人が辺境にいたいと思っていることが嬉しい。
でも、いつか戻るかもしれないと知ってしまうと苦しい。
それでも、その時に逃げないと彼が言うことを誇らしくも思う。
全部が一度に来て、息が少し詰まった。
「リシェル」
名前を呼ばれ、はっとする。
「はい」
「お前は、今も王都へ戻る気はないか」
昼に一度似たことを聞かれた。
けれど今の問いは、昼よりずっと近い。
団長としてでもなく、王位継承に連なる男としてでもなく、もっと個人的な何かとして聞かれている気がした。
リシェルは少しだけ目を伏せ、それから正直に答える。
「今はありません」
「そうか」
「王都には、私を必要としている場所がありませんでした」
雪明りの下で、自分の声は思ったより静かだった。
「でもここにはある。医務棟も、村も、薬棚も、帳面も、相談に来る兵たちも」
一つずつ言いながら、自分でもそれが本当だとよく分かる。
「だから、今はここにいたいです」
そこで少しだけ言葉が止まる。
けれど、続けずにはいられなかった。
「……団長のいる場所に」
言った瞬間、心臓が大きく鳴った。
風が止まったような気がしたのは、きっと気のせいではない。
アルヴェインはすぐには何も言わない。
ただ、ゆっくりとこちらを見た。
青い瞳が、まっすぐにリシェルを捉える。その視線の強さに、逃げたくなるような、逃げたくないような、ひどく不安定な気持ちになる。
「……それは」
彼が低く言う。
「俺にとって、かなり危うい言葉だな」
危うい。
その言葉の意味が分かってしまい、リシェルの頬が一気に熱くなる。
完全な告白ではない。
けれど、もう告白未満の線を大きく越えている気もする。
「す、すみません」
反射的にそう言いかけると、アルヴェインが一歩だけ近づいた。
「謝るな」
低い声。
「謝られると、余計に困る」
近い。
距離が、昨夜の医務棟より少しだけ遠い程度に縮まる。
雪明りの中で見るアルヴェインの顔は、普段よりずっと静かで、そしてずっと危うく見えた。
この人も揺れているのだと、今なら分かる。
「団長は」
リシェルは小さく問う。
「困りますか」
「困る」
即答だった。
「王都がどう動くかも、お前がどこまで巻き込まれるかも、俺自身がどこまで引き返せるかも、全部分からなくなる」
それは拒絶ではない。
むしろ逆だ。
分からなくなるほど、自分の存在が彼の中へ入り始めているということなのだと、言葉にしなくても伝わってしまう。
「でも」
アルヴェインは続ける。
「それでも、お前がここにいたいと言うなら」
ほんのわずかに目を細める。
「俺は、それを嬉しいと思っている」
胸の奥で、何かが大きくほどけた。
それだけで泣きそうになるくらい、真っ直ぐな言葉だった。
王都では、こんな言葉をもらったことがない。
打算も、見栄も、社交もない。ただ本心だけの言葉。
リシェルはどうにか息を整えた。
「……ずるいです」
思わず零れる。
「何がだ」
「そんなふうに言われたら、もう戻れなくなります」
アルヴェインは、その言葉にほんの少しだけ口元を和らげた。
「戻るな」
それは命令のようで、願いのようだった。
リシェルの心臓がまた強く鳴る。
今にも何かが決まってしまいそうなほど、空気が近い。
けれど同時に、まだ今ではないのだとも分かる。
王都の影は消えていない。
断罪の裏もまだ暴けていない。
この人の正体も、まだ全部は明かされていない。
だからこれは、告白ではない。
告白未満の、だがはっきりとした何かだ。
それがかえって甘くて、苦しい。
その時、不意に遠くの見張り台から交代の合図が鳴った。
現実が戻る。
アルヴェインが少しだけ距離を取った。
「……今夜はここまでだ」
低い声で言う。
その言い方には、名残があった。
リシェルも小さくうなずく。
「はい」
けれど、その場を離れる前に、どうしても一つだけ確かめたくなった。
「団長」
「何だ」
「今、私が見たものは……」
言葉を探す。
「幻ではないですよね」
あまりにも不器用な問いだった。
だがアルヴェインは笑わなかった。
むしろごく真面目な顔で、はっきりと答える。
「幻なら、俺のほうが困る」
その返答に、リシェルはとうとう小さく笑ってしまった。
頬は熱い。
胸はうるさい。
けれど心は不思議なくらい静かだった。
告白ではない。
まだ名前のつかない感情だ。
それでも今夜、二人のあいだにあるものは、もう“団長と薬師の信頼”だけではなかった。
部屋へ戻ったあとも、しばらく眠れなかった。
暖炉の火は小さく、毛布は十分に温かい。けれど目を閉じると、雪明りの中の青い瞳がすぐに浮かぶ。
いたい。
戻るな。
嬉しいと思っている。
どれも短い言葉なのに、胸のどこへ置いても収まりきらない。
机へ向かい、記録紙を開く。
本当なら、今夜聞いた王都のことや、傍流としての立場や、辺境を選んだ理由を書き残すべきなのだろう。
けれど筆が最初に落ちたのは、やはり別のところだった。
「団長は辺境にいたいと言った」
そこまで書いて、少しだけ迷い、さらに続ける。
「そして、私がここにいたいと言ったことを、嬉しいと言った」
書いた瞬間、また顔が熱くなる。
これは記録というより、ほとんど私情だ。
けれど今夜だけは、そう書かずにいられなかった。
雪の砦の夜は長い。
王都の影はまだ遠ざからない。
それでもその只中で、二人のあいだに灯った小さな火は、もう見なかったことにはできないほどはっきりしていた。




