表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/39

第23話 雪明りの告白未満

 雪の夜は、時に世界を静かにしすぎる。


 北西辺境補給砦の夜もそうだった。見張り台の灯は揺れている。厩舎では馬が時おり鼻を鳴らし、どこかの詰所では兵が低い声で交代を告げる。音は確かにある。けれどそれらはすべて、分厚い雪の向こう側で鳴っているように遠い。


 こういう夜は、言葉が少しだけ本音に近づく。


 昼のあいだは、誰もが役目の顔をしている。団長は団長の顔をし、薬師は薬師の顔をし、兵は兵の顔をする。だが夜になると、その境目がほんの少しだけ曖昧になる。


 そのことを、リシェルは辺境へ来てから何度も感じていた。


 けれど今夜は、いつもよりその感覚が強い。


 自室の机へ向かっていても、記録紙へ筆を置いていても、胸の奥が妙に落ち着かなかった。昼間にアルヴェインと交わした言葉が、思いのほか深く残っているからだろう。


 断罪の裏にあるもの。

 自分が盤上の駒として使われた可能性。

 彼の古傷と王都の毒。

 そして、「次は俺から話す」という約束。


 あのひと言が、ずっと胸のどこかで鳴っている。


 次は俺から話す。


 それは、ただ情報を開示するという意味だけではない気がしていた。彼が、自分をもう完全には外へ置かないと決めた、その証のように思えたのだ。


 だからだろうか。


 夜が深まるにつれて、じっと部屋へ閉じこもっているのが少し苦しくなった。


 暖炉の火は小さい。毛布はある。外は寒い。普通なら部屋を出る理由はない。


 それなのに、気づけばリシェルは上着を羽織り、音を立てないよう戸を開けていた。


「……少しだけ」


 誰にともなく呟く。


 ただ、冷たい空気を吸いたかった。


 ただ、それだけのつもりだった。


 回廊を抜け、医務棟の裏手を通り、見張り台へ続く石段のほうへ足を向ける。


 雪は止んでいた。


 雲の切れ間から淡い月明りが落ちていて、砦の石壁や手すりの上に薄い銀色が乗っている。雪明りというものは不思議だ。昼のように明るいわけではないのに、輪郭だけはやけにはっきり見える。


 見張り台へは行かず、その手前の外壁沿いで足を止める。


 そこから見えるのは、白く沈む森と、かすかに浮かぶ補給路の筋、そして遠くで灯る村の小さな火だ。


 辺境は広い。


 王都の屋敷の中にいた頃には、世界はもっと狭かった。いや、狭いのではなく、見てよい範囲だけが切り取られていたのだろう。ここへ来て初めて、世界には手の届かない広さと、届く範囲で守るべきものの両方があるのだと知った。


「眠れなかったか」


 低い声がして、肩がわずかに跳ねた。


 振り向くと、アルヴェインがいた。


 黒い外套を羽織り、風の中でもまるで揺るがぬ立ち姿。いつからそこにいたのか分からないほど気配が静かだ。だが、その青い瞳だけは雪明りの中でもはっきり見える。


「団長こそ」


 反射的に返す。


「傷に障るのでは」


「お前は本当に、そればかりだな」


 呆れたように言われたが、声にはもう棘がなかった。


 むしろ、どこかでそれを当然のように受け入れている響きがある。


 アルヴェインはリシェルの少し斜め後ろへ立ち、同じように外の暗い景色を見た。


「今夜は、少しだけ静かだ」


「ええ」


「だから余計なことを考える」


「団長もですか」


「ああ」


 短い肯定。


 その素直さが少し意外で、リシェルは思わず横顔を見た。月明りを受けた頬はいつもより色が薄く見え、強い輪郭の中にわずかな疲れが浮いている。


 この人も、考えているのだ。


 王都のことを。

 帰還命令のことを。

 自分の立場を。

 そして、たぶん、こちらのことも。


 そう思った瞬間、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。


「……次は俺から話すと言ったな」


 不意にアルヴェインが口を開いた。


 リシェルは少しだけ息を整えた。


「はい」


「今が、その“次”だ」


 風が二人のあいだを抜ける。


 冷たいはずなのに、その瞬間だけは空気が少し濃くなった気がした。


 アルヴェインは外へ視線を向けたまま、静かに言葉を選ぶように口を開く。


「俺は、王都で生まれて、王都で育った。だが、最初から王都に馴染んでいたわけではない」


 リシェルは何も挟まない。


 これはきっと、彼が自分から差し出そうとしてくれたものだ。ならば、急かさず、遮らず、受け取るべきだと思った。


「名だけ見れば、俺は傍流だ。だが、血の近さだけで人は勝手に計算を始める」


 その声音には、自嘲でも誇りでもない、ただ長く付き合ってきた現実への疲れがあった。


「誰が病むか。誰が落ちるか。誰が子を残すか。誰に兵がつくか。誰が民に好かれるか。王都の人間は、そういうものを年若いうちから自然に測る」


 リシェルはゆっくり息を吸う。


 知ってはいた。王都がそういう場所だということは。けれど、それを王位継承に近い側の人間の声で聞くと、まるで別の重さがあった。


「幼い頃から、俺の周りには“何をするか”より“何になり得るか”を気にする人間が多かった」


 アルヴェインは続ける。


「だから早くから剣を持たされ、護衛をつけられ、表では笑えと教えられ、裏では誰を信用するなと教えられた」


 その言葉に、胸の奥が少し痛む。


 王都の貴族の子どもたちは、早くから“役目”を着せられる。リシェルも知っている。けれど、この人が背負ってきたものは、そのさらに上なのだ。


「辺境へ来たのは、逃げたかったからですか」


 気づけば、問いが口をついていた。


 アルヴェインは少しだけ目を細める。


「半分は」


 その正直さに、リシェルも少しだけ肩の力を抜く。


「残り半分は、ここなら王都から遠いまま、必要な働きができると思ったからだ」


 王都から遠いまま、必要な働き。


 その言い回しが、この人らしいと思った。


 完全に背を向けることはしない。だが近づきすぎても飲まれる。だから距離を取りながら、剣と責任だけは手放さずに生きる。


 そんなふうにしてきたのだろう。


「古傷も」


 リシェルは小さく言う。


「その頃のものですか」


 アルヴェインは少しだけ沈黙した。


 そして、否定も誤魔化しもしなかった。


「ああ」


 短い返答。


「王都でついた」


「毒と呪の残滓を受けるようなことが」


「ある」


 その言い方は、ひどく乾いていた。


 王都では、そういうことが“ある”のだ。

 あり得る、ではなく、ある。


 リシェルは無意識に手を握りしめた。


 この人が抱えているものは、想像していたよりずっと深い。

 それでも彼は、辺境へ逃げ込んで怯えていたわけではない。

 ここで兵を率い、村を守り、補給をつなぎ、必要なら王都へ戻る覚悟も残したまま生きている。


 その在り方が、まぶしいと思った。


 そして同時に、ひどく危ういとも。


「……戻らなくていいなら」


 ぽつりと零れる。


「このまま辺境にいたいですか」


 アルヴェインは今度こそ少し長く黙った。


 月明りの下、横顔が静かに固まる。簡単に答えられない問いなのだと分かる。


 やがて、低い声が落ちる。


「いたい」


 その一言に、リシェルは目を見開いた。


 あまりにも率直で、だからこそ胸の奥へ深く落ちた。


「だが」


 彼は続ける。


「俺一人がそう思っても、国はそれで済まん」


「……はい」


「いずれ戻る時が来るかもしれない。その時に、逃げるつもりはない」


 それは王位を欲する人間の言葉ではなかった。


 責任を嫌いながらも、投げることだけはしない人間の言葉だった。


 リシェルはその横顔を見つめ、胸の中にひどく複雑な感情が広がるのを感じた。


 この人が辺境にいたいと思っていることが嬉しい。

 でも、いつか戻るかもしれないと知ってしまうと苦しい。

 それでも、その時に逃げないと彼が言うことを誇らしくも思う。


 全部が一度に来て、息が少し詰まった。


「リシェル」


 名前を呼ばれ、はっとする。


「はい」


「お前は、今も王都へ戻る気はないか」


 昼に一度似たことを聞かれた。

 けれど今の問いは、昼よりずっと近い。


 団長としてでもなく、王位継承に連なる男としてでもなく、もっと個人的な何かとして聞かれている気がした。


 リシェルは少しだけ目を伏せ、それから正直に答える。


「今はありません」


「そうか」


「王都には、私を必要としている場所がありませんでした」


 雪明りの下で、自分の声は思ったより静かだった。


「でもここにはある。医務棟も、村も、薬棚も、帳面も、相談に来る兵たちも」


 一つずつ言いながら、自分でもそれが本当だとよく分かる。


「だから、今はここにいたいです」


 そこで少しだけ言葉が止まる。


 けれど、続けずにはいられなかった。


「……団長のいる場所に」


 言った瞬間、心臓が大きく鳴った。


 風が止まったような気がしたのは、きっと気のせいではない。


 アルヴェインはすぐには何も言わない。


 ただ、ゆっくりとこちらを見た。


 青い瞳が、まっすぐにリシェルを捉える。その視線の強さに、逃げたくなるような、逃げたくないような、ひどく不安定な気持ちになる。


「……それは」


 彼が低く言う。


「俺にとって、かなり危うい言葉だな」


 危うい。


 その言葉の意味が分かってしまい、リシェルの頬が一気に熱くなる。


 完全な告白ではない。

 けれど、もう告白未満の線を大きく越えている気もする。


「す、すみません」


 反射的にそう言いかけると、アルヴェインが一歩だけ近づいた。


「謝るな」


 低い声。


「謝られると、余計に困る」


 近い。


 距離が、昨夜の医務棟より少しだけ遠い程度に縮まる。


 雪明りの中で見るアルヴェインの顔は、普段よりずっと静かで、そしてずっと危うく見えた。


 この人も揺れているのだと、今なら分かる。


「団長は」


 リシェルは小さく問う。


「困りますか」


「困る」


 即答だった。


「王都がどう動くかも、お前がどこまで巻き込まれるかも、俺自身がどこまで引き返せるかも、全部分からなくなる」


 それは拒絶ではない。


 むしろ逆だ。


 分からなくなるほど、自分の存在が彼の中へ入り始めているということなのだと、言葉にしなくても伝わってしまう。


「でも」


 アルヴェインは続ける。


「それでも、お前がここにいたいと言うなら」


 ほんのわずかに目を細める。


「俺は、それを嬉しいと思っている」


 胸の奥で、何かが大きくほどけた。


 それだけで泣きそうになるくらい、真っ直ぐな言葉だった。


 王都では、こんな言葉をもらったことがない。


 打算も、見栄も、社交もない。ただ本心だけの言葉。


 リシェルはどうにか息を整えた。


「……ずるいです」


 思わず零れる。


「何がだ」


「そんなふうに言われたら、もう戻れなくなります」


 アルヴェインは、その言葉にほんの少しだけ口元を和らげた。


「戻るな」


 それは命令のようで、願いのようだった。


 リシェルの心臓がまた強く鳴る。


 今にも何かが決まってしまいそうなほど、空気が近い。


 けれど同時に、まだ今ではないのだとも分かる。


 王都の影は消えていない。

 断罪の裏もまだ暴けていない。

 この人の正体も、まだ全部は明かされていない。


 だからこれは、告白ではない。


 告白未満の、だがはっきりとした何かだ。


 それがかえって甘くて、苦しい。


 その時、不意に遠くの見張り台から交代の合図が鳴った。


 現実が戻る。


 アルヴェインが少しだけ距離を取った。


「……今夜はここまでだ」


 低い声で言う。


 その言い方には、名残があった。


 リシェルも小さくうなずく。


「はい」


 けれど、その場を離れる前に、どうしても一つだけ確かめたくなった。


「団長」


「何だ」


「今、私が見たものは……」


 言葉を探す。


「幻ではないですよね」


 あまりにも不器用な問いだった。


 だがアルヴェインは笑わなかった。


 むしろごく真面目な顔で、はっきりと答える。


「幻なら、俺のほうが困る」


 その返答に、リシェルはとうとう小さく笑ってしまった。


 頬は熱い。

 胸はうるさい。

 けれど心は不思議なくらい静かだった。


 告白ではない。

 まだ名前のつかない感情だ。


 それでも今夜、二人のあいだにあるものは、もう“団長と薬師の信頼”だけではなかった。


 部屋へ戻ったあとも、しばらく眠れなかった。


 暖炉の火は小さく、毛布は十分に温かい。けれど目を閉じると、雪明りの中の青い瞳がすぐに浮かぶ。


 いたい。

 戻るな。

 嬉しいと思っている。


 どれも短い言葉なのに、胸のどこへ置いても収まりきらない。


 机へ向かい、記録紙を開く。


 本当なら、今夜聞いた王都のことや、傍流としての立場や、辺境を選んだ理由を書き残すべきなのだろう。


 けれど筆が最初に落ちたのは、やはり別のところだった。


 「団長は辺境にいたいと言った」


 そこまで書いて、少しだけ迷い、さらに続ける。


 「そして、私がここにいたいと言ったことを、嬉しいと言った」


 書いた瞬間、また顔が熱くなる。


 これは記録というより、ほとんど私情だ。


 けれど今夜だけは、そう書かずにいられなかった。


 雪の砦の夜は長い。

 王都の影はまだ遠ざからない。

 それでもその只中で、二人のあいだに灯った小さな火は、もう見なかったことにはできないほどはっきりしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ