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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第21話 拒絶された王都、揺れる辺境

王都からの呼び声は、雪の砦ではいつも少し遅れて重くなる。


 使者が去った翌日までは、皆どこか現実味を持てずにいた。

 その次の日になると、今度は逆に“あの使者は何を持ってきたのか”という問いが、砦の中に静かに沈み始める。


 辺境で働く者たちは、噂好きではある。だが王都の貴族たちのように、面白半分で人の秘密へ群がることは少ない。何かがあれば、それが自分たちの暮らしにどう響くかを先に考えるからだ。


 団長が王都へ戻るのか。

 戻るなら、いつなのか。

 戻った後、この砦はどうなるのか。


 誰も口にしないが、皆その一点を気にしている。


 リシェルもまた、その一人だった。


 医務棟の朝はいつも通り忙しかった。

 熱病の名残で喉を傷めた兵が一人。

 見張り交代の最中に足首をひねった若い兵が一人。

 西の村から届いた相談札が二通。

 薬棚の最低ラインを割りかけた煎じ葉が一箱。

 そして、補給庫との帳面合わせ。


 手を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。


 そう思っていたのに、目に入るものすべてが、どこかでアルヴェインに繋がってしまう。


 巡回表。

 補給表。

 村からの問い合わせ。

 木札についた王都西側の工房印。

 そして、自分の名前が「医務担当」として書かれた紙。


 もしあの人がいなくなれば、砦の流れは確実に変わる。


 それだけは、もうはっきり分かっていた。


「リシェルさん」


 トーマスが少し声をひそめて呼んだ。


「何?」


「副官が、また応接棟に呼ばれてます」


 手元の帳面から顔を上げる。


「また?」


「はい。今朝、砦主あてじゃなくて、団長あてに封書が来たみたいで」


 リシェルは小さく息を呑んだ。


 また王都だ。


 もう第二の文が届いたのか。


 こんな雪深い土地にまで、急かすように。


「中身は?」


「分かりません。でも、見張りの人が“副官の顔がやばい”って」


 やばい、という言い方があまりにトーマスらしくて、一瞬だけ可笑しくなる。だがその奥にある事実は、可笑しくない。


 王都は急いでいる。


 つまり、それだけ向こうでも何かが動いているのだ。


 ベルンが帳面の端から顔を上げた。


「聞くな」


「まだ何も」


「その顔は、今にも行きそうだ」


 老人は面倒そうに言った。


「団長から呼ばれてないなら、今は医務棟にいろ」


「……はい」


 素直に返事はしたものの、胸の奥はまるで落ち着かなかった。


 呼ばれていない。

 なら行くべきではない。


 分かっている。


 だが、知ってしまった者として、何も知らないふりで棚と帳面だけを見ていろと言われるのは、思った以上に苦しかった。


 王都の毒も、補給路の襲撃も、自分の断罪も、もう全部が一本の糸の先にある気がしているのに。


 そこへ再び王都からの文が来た。


 なら自分にも関係がないとは、もう言えないはずなのに。


 昼過ぎ、医務棟へは不思議な静けさが落ちていた。


 兵の出入りはある。鍋も煮えている。トーマスも動いている。けれど誰も大きな声を出さない。皆、砦のどこかがぴんと張っているのを感じ取っているのだろう。


 リシェルは煎じた葉を乾かす棚の前で、表向きは手を動かしながら、耳だけは外へ向けていた。


 回廊を横切る足音。

 門の開閉。

 補給庫からの怒鳴り声。

 応接棟のほうからの、遠くて聞き取れぬ低い声。


 そのどれもが、いつもの砦の音なのに、今日は妙に引っかかる。


 その時、戸口にガレスが現れた。


 普段の副官なら、まず用件を短く言う。

 だが今は、戸口に立ったまま一拍の沈黙を置いた。


 その沈黙だけで、ろくでもない話だと分かる。


「令嬢」


 低い声。


「はい」


「団長が呼んでいる」


 リシェルの心臓が一つ強く打った。


 ベルンが露骨に嫌そうな顔をする。


「面倒な顔をするな、ガレス。どうせ碌でもない話だろう」


「碌でもない」


 副官は即答した。


「しかも急ぎだ」


 医務棟の空気が少しだけ重くなる。


 トーマスが無意識に背筋を伸ばした。


 リシェルは手を拭き、上着の襟を整える。


「応接棟ですか」


「いや、外だ」


「外?」


 ガレスは短くうなずいた。


「団長は今、北門の上にいる」


 その言葉に、なぜか少しだけ胸がざわついた。


 応接棟ではなく、北門の上。


 人目の少ない、風の強い場所。


 つまりこれは、王都の文の中身そのものを話すのではなく、それを受けてどうするかを、彼なりの場所で整理しているのだろう。


 そして、そこへ自分を呼んだ。


 その意味の重さを、リシェルはちゃんと感じていた。


 北門へ上がる階段は、いつも以上に風が強かった。


 石段の角には雪が入り込み、踏み外さぬよう注意が要る。上へ行くほど空気は冷たく、視界は広がる。遠く、白く沈んだ森と、補給路の細い筋が見えた。さらにその先には、灰色の空に溶けるような山の影。


 辺境は今日も広く、厳しい。


 門楼の上には、アルヴェインが一人立っていた。


 黒い外套を風に揺らし、手には封を切られた文が一通。背筋はまっすぐで、見下ろす横顔にはいつもの静けさがある。


 だが、それが普段より少しだけ硬いことくらい、今のリシェルには分かる。


「来たか」


 振り返らずに言う。


「はい」


 近づきすぎない位置で足を止める。


 門楼の石壁に寄りかかるようにして立つと、風は少しだけましになった。


「王都からですか」


 問いかけると、アルヴェインは手の中の文を一瞥した。


「ああ」


「急ぎの返答を求めている?」


「そうだ」


 短い返答。


 だが、その一言に込められた疲れは、前よりはっきり見えた。


 リシェルは慎重に言葉を選ぶ。


「戻れ、と」


 今度は少しだけ間があった。


 やがて、アルヴェインは低く言う。


「戻ってほしい、ではない。戻れ、だ」


 命令。


 王都はそういう文を寄越したのだ。


 アルヴェインほどの男に対して。


「理由は」


 思わず聞く。


 問いとしては踏み込みすぎているかもしれない。だが彼は咎めなかった。


 風の向こうを見たまま言う。


「表向きは北部の統治再編。王都近辺の警備権限の整理。傍流筋の再確認」


 どれも、それらしく聞こえる言葉だ。


 だが“表向き”とわざわざ言うなら、当然裏がある。


「本当は?」


 アルヴェインはそこで初めて、ゆっくりとリシェルへ目を向けた。


 青い瞳の奥にあるのは、怒りでも諦めでもない。もっと乾いたものだ。


「王都が揺れている」


 その声は低かった。


「揺れているから、名のある血を近くへ置きたい。それだけだ」


 名のある血。


 その言い方が、ひどく冷たく聞こえた。


 王位継承に関わる人間であることを、自分の意志や生ではなく、血と名前でしか見ていない響き。


 そこに、アルヴェインが王都へ抱く疲れの正体の一端が見えた気がした。


「……それで、どうするつもりなんですか」


 問いながら、心のどこかでは答えを先に欲していた。


 戻らないでほしい。


 たぶんもう、そう思っている。


 けれどそれを自覚するのは、少し怖い。


 アルヴェインは視線を外し、手の中の文を無造作に折った。


「断る」


 たった二文字。


 なのに、その言葉が胸へ落ちた瞬間、リシェルは自分の中にあった張りつめたものが少しだけほどけるのを感じた。


 安堵してしまった。


 あまりにもはっきりと。


 そのことに自分で気づいて、少し息を呑む。


「……いいんですか」


「良くはない」


 アルヴェインは淡々と答える。


「だが、今は戻らない」


「砦のため、ですか」


「それもある」


 それ“も”。


 リシェルはその言葉を胸の中で繰り返した。


 砦の補給路はまだ揺れている。熱病の余波も消えていない。薬草箱を狙った襲撃の正体も掴みきれていない。たしかに、今この人が去れば辺境は困る。


 だが、それだけではないということだ。


 アルヴェインは少しだけ目を細めた。


「お前は、戻れと言われたらどうする」


 不意打ちのような問いだった。


「私が?」


「ああ」


「王都に」


「呼び戻す文が来たら」


 リシェルは少しだけ息を止めた。


 昨日までなら、そんな問いに迷っていたかもしれない。名誉回復、侯爵家、婚約、断罪の訂正。そういうものが頭をよぎったかもしれない。


 けれど今は、答えがもう少しはっきりしている。


「戻りません」


 静かに言う。


「少なくとも、今の王都には」


 アルヴェインの目がわずかに動く。


 驚いたのではない。むしろ、その答えを確かめたかったのだろう。


「理由は」


「戻っても、また誰かの都合で立たされるだけだからです」


 言葉は思ったより淀まなかった。


「今ここには、私が見て、考えて、必要だと思って動ける場所があります。王都にはそれがありませんでした」


 一拍置く。


「……それに」


「それに?」


 問われ、ほんの少しだけ言葉が詰まる。


 それに、この砦にはあなたがいる。


 そこまで口にする勇気は、まだなかった。


「辺境をこのままにしたくないんです」


 代わりにそう言う。


 嘘ではない。


 それもまた本当だった。


 補給路のこと。熱病のこと。村と砦のこと。薬棚と帳面。まだ手を離したくないものが、もうこんなにある。


 そしてその中に、アルヴェインも含まれていることを、自分だけが知っていればいいと思った。


 アルヴェインはしばらく黙っていた。


 風が二人のあいだを吹き抜ける。


 やがて彼は低く言う。


「そうか」


 それだけ。


 だがその声には、わずかな安堵があった。


 たぶん、彼も聞きたかったのだ。

 自分が王都に引かれていないか。

 まだ“戻るべき場所”を王都だと思っているのではないか、と。


 その問いに、今、自分ははっきり答えた。


 ここだ、と。


 しばらくして、アルヴェインは文をリシェルへ差し出した。


「見るか」


 予想外の申し出に、リシェルは目を見開いた。


「いいんですか」


「ここまで聞いたなら、今さら隠しても仕方ない」


 受け取った文は短い。


 文面そのものは整っている。

 国の安寧。

 王都の安定。

 速やかな帰還。

 必要な血脈の再集約。


 だが、読み進めるほどに冷たさが増す。


 そこには“アルヴェイン本人”がいない。


 あるのは、王家に連なる一つの駒としての扱いだけだ。


 リシェルはそっと文を返した。


「ひどいですね」


「そうか?」


「はい」


 迷わず言う。


「砦にいる団長を、誰も見ていない文です。ここで何をしてきたかも、何を守っているかも、どう痛むかも、何も」


 自分でも驚くほど感情が乗っていた。


 アルヴェインはそんなリシェルを見て、わずかに目を細める。


「怒るのはお前か」


「だって、腹が立ちます」


 言い切ると、アルヴェインの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「……変わった女だな」


「そうでしょうか」


「王都の連中なら、まず“名誉ある帰還”と言う」


「私はそう思いません」


「知っている」


 短い返答。


 だがその“知っている”は、以前よりずっと柔らかかった。


 自分の考えを、この人はもう少し分かってくれているのかもしれない。


 その事実が、胸の奥へ静かに沁みる。


「では、本当に断るんですね」


「ああ」


「いつ返事を」


「今日中だ」


 それはまた早い。


 王都が急げば、彼も早く切るのだろう。曖昧に保留して、人を長く揺らすのを嫌う人だから。


「怖くないですか」


 思わず問う。


「王都を拒絶して」


 アルヴェインは少しだけ遠くを見る。


「怖くないわけではない」


 その答えに、リシェルは少しだけ目を見開いた。


 この人が“怖い”を認めるのは、珍しい。


「だが」


 彼は続ける。


「今ここを離れるほうが、俺にはよほど後味が悪い」


 その言葉の意味を、リシェルは完全には飲み込めなかった。


 砦を置いていくこと。補給路を放ること。熱病の余波を残すこと。そういう実務の話でもあるだろう。


 けれど、それだけではない何かが混じっている気がして、胸が少しだけ騒いだ。


「……それは、砦のせいですか」


 問いは小さく出た。


 自分でもひどく曖昧だと思う。


 砦のせいか。

 辺境のせいか。

 それとも。


 アルヴェインは答える代わりに、ほんの少しだけ視線を落とした。


「全部だ」


 その一言で十分だった。


 全部。


 砦も、兵も、補給路も、村も。

 そしてその“全部”の中に、自分も入っているのだと、言われなくても分かってしまう。


 雪よりも静かな熱が、胸の奥へ広がる。


 北門を下りる時、リシェルはふと立ち止まった。


「団長」


「何だ」


「断ることで、王都がもっと強くこちらへ手を伸ばしてくるかもしれません」


「ああ」


「それでも?」


 アルヴェインは振り返った。


 青い瞳が、まっすぐにこちらを見る。


「それでもだ」


 その迷いのなさが、ひどく強い。


「お前も覚えておけ」


 低い声。


「これで向こうは、俺だけじゃなく、この砦そのものを意識する」


「……はい」


「お前の名も、もっと届くようになる」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ冷える。


 辺境の薬師。

 砦の医務担当。

 村を救った女。

 そういう名前が、王都まで届く。


 それは誇らしいことではある。だが同時に、目立つことでもある。王都の誰かにとって、それは利用価値にも、邪魔にもなり得る。


「怖いか」


 また問われる。


 今度は少しだけ考えてから答えた。


「……少し」


「少しで済むのか」


「前よりは」


 正直に言う。


「前は、王都の誰かに見られるだけで苦しかったです。でも今は、見られたら見られたで、その時考えればいいと思えます」


 アルヴェインはそれを聞いて、ほんのわずかに目を細めた。


「辺境に染まったな」


「団長のせいでは」


「俺のせいか」


「少しは」


 そう返すと、彼は珍しく、はっきりと笑ったわけではないが、たしかに口元を和らげた。


 それを見た瞬間、リシェルは胸の奥で何かがふっとほどけるのを感じた。


 拒絶された王都。


 それはただの政治上の出来事ではない。


 彼がここに残ると決めたこと。

 自分もここに残ると答えたこと。

 その二つが重なって、砦そのものを少し揺らしたのだ。


 だがその揺れの中で、辺境のほうは逆に、少しずつ形を固め始めているのかもしれない。


 その日の夕方、王都への返書は本当に出された。


 内容を知る者は少ない。だが、封を持って砦を出る伝令兵の背中を見送った兵たちは、皆どこかで理解していた。


 団長は、王都を断ったのだと。


 その事実は、雪の砦の空気を少しだけ揺らした。


 不安がないわけではない。むしろ逆だ。王都に背を向けたことで、何か別のものがこちらへ来るかもしれない。


 それでも、兵たちの表情には奇妙な落ち着きもあった。


 団長が残る。


 今はそれだけで十分なのだ。


 一方で、リシェルは自室の机に向かいながら、自分の指先がまだ少し震えていることに気づいていた。


 王都は拒絶された。

 それで終わりではない。

 むしろ始まりだ。


 そしてその始まりに、自分ももう深く関わっている。


 帳面を開き、今日のことを簡単に書き留める。


 「王都は団長を呼び戻そうとした。団長は断った」


 そこまで書いて、筆が止まる。


 次の一行は、少しだけ迷ったあとで加えた。


 「私は、その返答に安堵した」


 事実だった。


 どうしようもなく、はっきりと。


 窓の外では雪がまた降り始めていた。

 白い夜の向こうで、王都はきっと別の手を考え始めている。

 そして辺境もまた、その影を受け止める準備を始めるのだろう。


 拒絶された王都。

 揺れる辺境。

 その中で、リシェルの居場所は少しずつ、さらに深く根を張ろうとしていた。

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