第20話 辺境の薬師、名が広がる
名が広がる時というのは、案外、本人の知らないところから始まる。
大声で喧伝されるのではない。華やかな紹介状が出回るのでもない。むしろ逆で、井戸端の短い会話や、荷車の行き来の途中で交わされる礼や、食堂の隅でぽつりと出るひと言が、雪の上へ落ちた種みたいに少しずつ根を張る。
北西辺境補給砦の朝も、ぱっと見にはいつも通りだった。
見張り台から交代の声が飛び、鍛冶場では朝一番の槌音が鳴り、厩舎では馬が床を鳴らしている。雪は薄く積もり直し、夜のあいだに凍った桶を割る音が中庭に響いていた。
だが、その“いつも通り”の中に、最近ひとつ増えたものがある。
「薬師殿、こっち見てもらってもいいですか」
医務棟の戸口からそう声をかけてきた兵士に、リシェルは思わず顔を上げた。
薬師殿。
最初に砦へ来た頃は、“令嬢”とか、“王都の人”とか、ひどい時には“厄介払い”に近い扱われ方をしていた。もちろん今も全員が敬意に満ちているわけではない。けれど少なくとも、表立ってそういう目を向けられることは減った。
そして最近は、ごく自然に“薬師”として呼ばれることが増えてきた。
「どうしました」
リシェルが近づくと、兵士は少し気まずそうに後頭部をかいた。
「大したことじゃないんですが、あの、指がちょっと切れて……」
見れば、本当に小さな裂傷だ。鍛冶場で薪割りでもした時にやったのだろう。以前ならこんな傷、兵たちは気にせず布を巻いて終わらせたかもしれない。
だが今は違う。
熱病が出て、補給路が狙われ、寒さの中で傷が化膿する怖さを皆が知っている。だから“たいしたことない”うちに医務棟へ来るようになった。
それは良い変化だった。
「水で洗いましたか」
「はい」
「じゃあ、もう少しだけ綺麗にしましょう。傷自体は浅いので、今日は濡らしすぎないように」
消毒用の薄い薬液をつけながら言うと、兵士は素直に頷く。
「……前だったら、このくらい来なかったです」
「来てください」
リシェルは布を巻きながら答えた。
「小さいうちに済めば、それで終わるので」
「はい、薬師殿」
その返事に照れも打算もなくて、リシェルは少しだけ目を細めた。
辺境の人間は、不器用だ。
けれど、その不器用さは王都みたいに人を値踏みするためではない。ただ、必要なことを必要な言葉で言うのが下手なだけだ。
だからこそ、こうして名前が変わることの意味も大きい。
令嬢ではなく、薬師。
その呼び方の変化が、胸の奥で静かに温かかった。
昼前、砦の食堂へ顔を出すと、いつもより少しだけ人が多かった。
前線へ向かう前の兵、見張りを終えた者、補給庫から戻った若い兵、外れ村へ荷を出す準備をしている者。皆、湯気の立つ薄いスープや黒パンを手に、それぞれの短い休憩を取っている。
リシェルが入った瞬間、数人が自然に場所をずらした。
「ここ、空いてます」
言ったのは若い補給兵だった。以前、雪道で横転した荷車の件を見ていた兵の一人だ。
「ありがとう」
礼を言って座ると、食堂の女主人がすぐに温かい椀を持ってきてくれる。
「今日は根菜多めよ。村の人たちが持ってきてくれたの」
「村の?」
「ええ。あんたに礼だって、いろいろ置いてったのよ」
女主人はそう言って笑った。
そこへ、別の兵士が口を挟む。
「またですか」
「またよ。昨日も南東の谷筋から干し肉が来たし、今日は西側の小村から小さな蜜漬けが来たわ」
「すごいな、薬師殿」
向かいの兵が感心したように言う。
「そこまでしてもらうこと、あります?」
その問いに、リシェルは一瞬だけ答えに迷った。
自分では、ただ必要なことをしただけのつもりだ。村の熱病も、砦の薬棚も、補給帳も、どれも“やらなければ困るからやった”にすぎない。
けれど、やられた側にとっては違うのだろう。
熱が下がることも、子どもが夜を越えることも、水桶がきちんと洗われることも、全部が生き延びるための大きな出来事だ。
そう思っていると、女主人が鍋の蓋を押さえながら言った。
「あるのよ、そういうのは」
振り向くと、彼女は手を止めないまま続ける。
「助けられたほうにとっては、ちゃんとあるの。自分が無事に冬を越せるかもしれないって思えたら、何か返したくなるものよ」
その言葉が、すとんと胸へ落ちた。
王都では、誰かの役に立っても“して当然”で終わることが多かった。何かが滞りなく進むのは、上手くいって当たり前。乱れた時だけ責められて、整っていた時の手は見えない。
だが辺境では、違う。
助かった者は、それを助かったと口にする。何か返したいと思えば、ちゃんと返す。
その単純さが、リシェルにはひどく新鮮だった。
「……うれしいです」
ぽつりと本音が漏れる。
すると向かいの兵が、少しだけ笑った。
「薬師殿、そういう時、顔に出ますね」
「出ていますか」
「出てます」
別の兵も言う。
「最初に砦へ来た時は、もっと硬い顔してましたよ」
「そうかしら」
「そうです。今のほうがずっと話しやすい」
さらりと告げられたそのひと言に、リシェルは少しだけ目を伏せた。
王都を出る時、自分はどんな顔をしていただろう。
たぶんずっと、傷つく前に身構えた顔をしていたのだと思う。誰かに値踏みされる前に、こちらから距離を取るような。
それが今は少しずつほどけてきている。
それもきっと、この砦にいる人々が、必要以上に飾らないからだ。
午後、医務棟へ戻る途中で、リシェルは中庭の一角に小さな人だかりを見つけた。
見ると、南東の村から来たらしい年若い女が、小さな包みをいくつか兵へ渡している。兵は困ったような顔でそれを受け取り、何度も首を振っていた。
「どうしたんですか」
近づいて問うと、若い女がぱっと顔を上げた。
「あ、あの、薬師様ですか」
“薬師様”。
また少し呼び方が上がった。
「そう呼ばれるほどではありませんけど」
苦笑しながら答えると、彼女は慌てて包みを差し出した。
「この前、熱を見ていただいた子の母です。うちの子、今はもう走り回るくらい元気で……これ、ほんの少しなんですけど」
包みの中には、粗い焼き菓子と、小さな瓶に入った蜜、それから冬でも保存の利く乾燥豆が入っていた。どれも高価ではない。けれど、辺境の冬に余分として持てるほど安いものでもない。
「こんなにいただけません」
リシェルが言うと、母親は首を振る。
「受け取ってください。あの夜、もう駄目かもしれないって思ってたんです。だから……」
言葉の先が詰まり、代わりに深く頭を下げた。
その姿に、リシェルは何も言えなくなる。
あの夜の子ども。高い熱に焼かれ、苦しそうに呼吸していた小さな顔。母親の泣きそうな目。煮沸した湯の匂い。灰で洗われる水桶。
あれが、こうして冬の日差しの中の礼へ繋がっている。
受け取らなければ、たぶんこの人は逆に落ち着かないだろう。
「……では、ありがたくいただきます」
そう言うと、母親の顔がぱっと明るくなった。
「はい」
「お子さん、無理をしていませんか」
「昨日は走りすぎて転びました」
「それなら元気すぎるくらいですね」
思わず笑うと、母親もようやく笑った。
その様子を少し離れたところから見ていた兵たちが、何となくほっとしたような顔をする。
そこへガレスが通りかかった。
包みを抱えたリシェルと村の女を見て、状況を一瞬で察したらしい。
「また礼か」
「はい」
リシェルが答えると、副官は半ば呆れたように言った。
「このままだと、医務棟が保存庫になるぞ」
「困りますか」
「少しは」
そう言いながらも、その声には露骨な拒否はなかった。
「まあ、村が砦へ顔を出しやすくなるなら悪くない」
その言葉に、リシェルは目を上げる。
ただ礼を受け取るだけではない。村と砦の空気が少し柔らかくなる。それもまた、辺境では意味のあることなのだ。
ガレスはそれ以上何も言わずに去っていったが、その去り際に小さく付け足した。
「薬師殿、食いきれない分は医務棟で回せ」
薬師殿。
今度は副官からだった。
ごく自然に使われたその呼び方に、胸の奥がまた少しだけ熱くなる。
その日の夕方、砦の中庭は風が強かった。
空は重く曇っている。夜にはまた雪になるだろう。荷車の縄を締め直す音と、見張り交代の声が風に流されていく。
リシェルは村から受け取った包みの一部を医務棟へ置いたあと、残りを小さく分けていた。働きづめのベルンへ焼き菓子を一つ、トーマスへ乾燥豆の包み、食堂の女主人へ蜜の小瓶を少し。自分一人で抱え込むより、分けたほうがこの砦らしい気がしたからだ。
「何してる」
低い声が背後から落ちる。
振り向くと、アルヴェインが立っていた。
黒い外套に雪の気配をまとい、いつものように静かな顔でこちらを見ている。脇腹の傷を庇う癖はまだ少し残っているが、昨日ほど表には出ていない。
「お裾分けです」
リシェルは包みを掲げて見せた。
「村からまたいただいたので」
アルヴェインの視線が包みへ落ちる。
「また、か」
「はい。熱病の時の子のお母様から」
そう答えると、彼はごく短く頷いた。
「名が広がっているな」
そのひと言に、少しだけ照れくさくなる。
「大げさです」
「村で礼を返そうとする相手の名は、だいたい広がる」
アルヴェインはそう言いながら、中庭の向こうを見た。
ちょうどその時、南側の村から来た荷運びの男が、医務棟の若い兵に「薬師様に渡してくれ」と何か預けているところだった。
「ほら」
静かな指摘。
リシェルは思わず苦笑する。
「……本当ですね」
「王都の札とは違う」
その言葉に、胸が少しだけ強く鳴る。
王都の札。
悪役令嬢、婚約破棄、追放。
そんな言葉ではなく、ここでは別の名が少しずつついていく。
薬師殿。薬師様。村を助けた人。
その一つ一つが、彼女の中で静かに形を変えていく。
「団長」
「何だ」
「もし……」
少し迷ってから言う。
「王都へ戻っても、辺境でのこういう呼ばれ方は、なくならないでしょうか」
問うてから、自分で少し驚いた。
これは自分の話をしているようでいて、本当は違う。
王都へ戻る可能性を持つ男に対して、自分が辺境で得たものが消えるのかと、遠回しに確かめているのだ。
アルヴェインはすぐには答えなかった。
風が二人のあいだを吹き抜ける。
やがて、低い声が落ちる。
「消えない」
短い。だが、迷いのない答えだった。
「人に助けられた事実は、王都の都合では消えん」
その言葉が、深く胸へ落ちる。
ああ、この人は本当に、そういうところがまっすぐなのだ。
王位に近い者でありながら、王都の論理だけでは人を測らない。
だから兵も、村人も、この人を信じるのだろう。
そして自分も。
そこまで考えて、少しだけ胸が熱くなる。
リシェルは包みの中から小さな焼き菓子を一つ取り出した。
「団長にも」
差し出すと、アルヴェインはわずかに目を細めた。
「何だ」
「村のお礼です。私だけ食べるのも変なので」
「俺は必要ない」
「必要です」
言い切ると、彼は少しだけ困った顔をした。
最近、その表情を見る頻度が少し増えてきた気がする。
「団長、こういうの断るの下手ですよね」
「初めて言われた」
「では、これから言います」
そう返すと、アルヴェインはごく小さく息を吐き、結局その焼き菓子を受け取った。
大きな手の中に、辺境の素朴な菓子がちんまりと収まる。
妙に可笑しくて、リシェルは少しだけ笑った。
「何だ」
「いえ」
「気になる言い方をするな」
「食べてみてください」
促すと、アルヴェインは観念したように一口かじった。
硬い焼き菓子だ。王都の菓子職人が作る繊細なものとは比べようもない。だが蜜と粉の香ばしさがあって、噛むほどに少しだけ甘い。
「……悪くない」
そのひと言に、リシェルの頬が緩む。
「ですよね」
「お前が作ったわけでもないだろう」
「でも、嬉しいので」
そう言うと、アルヴェインは何も言い返さなかった。
ただ、青い瞳が少しだけ柔らかくなる。
その瞬間、中庭の向こうでトーマスがこちらを見て、ぎょっとしたように目を丸くしたのが見えた。たぶん“団長が村の焼き菓子を食べている”ことに驚いたのだろう。
それだけでも、この砦でどれほど珍しいことか分かる。
夜、医務棟の仕事が終わる頃には、またいくつかの礼が届いていた。
南西の小村から乾燥した葉豆。
北側の狩人小屋から小ぶりな燻製肉。
砦の若い兵たちからは、うまくいった補給再編の礼にと、妙に綺麗に磨かれた小さな乳鉢まで。
「これ、誰が磨いたの」
リシェルが驚くと、トーマスが照れくさそうに顔をそらした。
「その……俺たちです」
「俺たち?」
「ええと、補給庫組と医務棟の手伝い組と……」
「趣味が悪いな」
横からベルンが言う。
「こういうのは使ってなんぼだ。綺麗すぎると逆に落ち着かん」
そう言いながらも、老人の手つきはその乳鉢を一度きちんと確かめていた。
リシェルはそっとそれを抱えた。
高価なものではない。王都の工房ならもっと良い石と細工で作れただろう。
けれど、これほど自分のために磨かれたものを受け取ったのは、初めてかもしれない。
「……ありがとうございます」
思わずそう言うと、トーマスが嬉しそうに笑う。
「やっぱり、似合うと思って」
「乳鉢が似合う令嬢って、たぶん王都にはいないわね」
「でも砦にはいます」
その返しに、思わず声を立てて笑ってしまった。
砦にはいます。
その言葉の意味が、思った以上に大きい。
王都にはいない。
でも、砦にはいる。
ここでなら、自分の手と知識と匂いの感覚が、浮くものではなくちゃんと役に立つ。
そうやって少しずつ、自分の居場所が形になっていくのだ。
その夜、部屋へ戻ったリシェルは、机の上に並んだ包みや乳鉢を見て、しばらく動けなかった。
王都の部屋にはもっと高価なものがいくらでもあった。宝石、刺繍、ドレス、銀器。けれど、今机の上にある辺境の粗い礼のほうが、ずっと胸へ沁みる。
理由は分かっている。
これは“自分で立って得たもの”だからだ。
誰かの娘だからでも、婚約者だからでも、侯爵令嬢だからでもない。
薬師として見た熱。整えた薬棚。助けた村。守った補給。
その結果として、名前が広がっていく。
ふと、窓の外へ目を向ける。
見張り台の灯が小さく揺れている。そのどこかにアルヴェインもいるのだろうかと思うと、胸の奥がまた少しだけ温かくなる。
彼は今日、“王都の札とは違う”と言った。
あのひと言は、リシェルが思っていた以上に大きかった。
王都が押しつけた名ではなく、辺境で自分の手で得た名がある。
それを彼も見ている。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
机へ向かい、記録紙へ一行書き足す。
「辺境では、名前は少しずつ手の働きで決まっていく」
それを書いてから、少しだけ考え、もう一行。
「その呼び方を、団長も見ていた」
筆を置く。
雪の砦で、薬師としての名が広がっていく。
それは地味で、静かで、けれど何より確かなざまぁだったのかもしれない。
王都が捨てた女は、ここで少しずつ、別の名で呼ばれ始めているのだから。




