第19話 王都ではじまる後悔
王都の冬は、辺境の冬ほど苛烈ではない。
雪が膝まで積もることもなければ、水桶が朝には丸ごと凍りつくことも稀だ。けれど、そのぶん王都の冬には別の冷たさがある。磨き抜かれた石畳に反射する淡い光、硝子窓の向こうでだけ守られる暖炉の火、社交界の微笑みの下にひそむ値踏みと計算。
その冷たさは、人の失敗や綻びを、雪よりも静かに、そして確実に凍らせる。
レヴェント公爵家の朝も、見た目だけなら完璧だった。
長い食卓には白いクロスが張られ、銀器は曇りなく磨かれ、湯気の立つ卵料理と薄切りの肉、香り高い茶葉の紅茶、焼きたての白パンが整然と並んでいる。召使いたちは足音を消して動き、扉の開閉一つにも無駄がない。
けれど、その完璧な風景の中に、最近になって確実に混じり始めたものがある。
小さな、だが無視すると後を引く違和感だ。
「冷めている」
エドガーは、ほとんど苛立ちを隠しもせずに言った。
銀のフォークが皿に当たり、小さな硬い音を立てる。視線の先には、温め直したはずの卵料理。見た目は悪くない。だが一口入れた瞬間に分かる。火の通りが微妙にずれ、塩気も少し強い。そして何より、食卓へ出るタイミングが遅かった。
以前なら、こんなことはなかった。
それがここ数日、何度も起きている。
給仕の侍女が青ざめて頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝れば済むと思っているのか」
声が思ったより鋭くなった。
食堂の空気がぴんと張る。執事長も料理長も、顔色を変えずに立ってはいるが、緊張が広がるのが分かる。
エドガー自身、怒鳴りたいわけではなかった。
だが、苛立つのだ。
たかが少し冷めた朝食。以前なら、そんな細部に目を止めることすらなかっただろう。出されたものを当然のように口へ運び、次の予定へ頭を向ける。それが公爵家嫡男としての朝だった。
なのに今は、その“当然”が崩れるたび、妙に目につく。
いや、本当は前からそうだったのかもしれない。ただ、それを感じる前に誰かが整えていたのだ。
その“誰か”の名を、今この場で思い出したくはない。
だが、食堂の空気は残酷だった。
料理長が慎重に口を開く。
「……以前は、朝の献立と火入れの順番に関して、季節ごとの細かい指示がございまして」
来た。
エドガーは奥歯を噛みしめた。
「またそれか」
料理長はひるまなかった。
「事実です。以前の婚約者様が、坊ちゃまの予定に応じて、朝食が重くなりすぎぬよう、また夜会明けには塩分を少し落とすよう細かく」
「黙れ」
低く切った声は、思った以上に冷えていた。
料理長は頭を下げ、口を閉ざす。
だが、言葉を止めても、事実は消えない。
リシェルがいた頃、食卓は滞りなく整っていた。朝食の温度、昼食の量、夜会前の軽さ、狩りのあとの塩加減。そんなものを、エドガーは一度たりとも意識したことがなかった。なぜなら、それらは常に“そうあるもの”として出てきていたからだ。
空気のように当然であるものは、なくなるまで誰にも見えない。
その当然が失われた今、食卓の一口ごとに不快が混じる。
「下がれ」
それだけ言って皿を押しやる。
朝食の場は、それで壊れた。
エドガーは立ち上がると、外套を肩へ掛け、何も言わずに食堂を出る。背後で使用人たちが静かに動き始める気配がしたが、もうどうでもよかった。
問題は朝食ではない。
問題は、自分がいちいち気づいてしまうことだ。
そして、そのたびに頭の片隅で同じ名が浮かぶことだ。
リシェル。
追い払ったはずの女。
切り捨てたはずの婚約者。
なのに、今はもう、彼女がいないことの不便ばかりが目につく。
それが何より面白くなかった。
執務室へ入ると、待っていたように執事長が書簡の束を差し出した。
「本日の確認事項です」
「多いな」
「いつも通りです」
いつも通り。
その言葉に、エドガーは無言のまま書簡を受け取る。
封蝋を切って一通目を開く。冬季贈答に対する礼状。二通目は軽い苦情。三通目は次の夜会への返答。四通目は夫人方の茶会での着席順についての確認。
ここまでは、王都の公爵家なら日常の範囲だ。
だが五通目を開いた瞬間、眉間の皺が深くなる。
「……何だこれは」
執事長が一歩進み出る。
「侯爵家の夫人より、“今年の贈答はレヴェント家にしては配慮が浅い”との」
配慮が浅い。
遠回しな言葉だ。だが遠回しであるぶん、余計に響く。
貴族社会では、直接的な非難よりも、こうした柔らかな失望の表現のほうが長く尾を引く。
「まだあるのか」
「はい」
執事長は淡々と答えた。
「香料が強すぎた、茶葉の選定が昨年と違う、甘味が多すぎる、贈る相手の体調への理解が感じられない、など」
エドガーは書簡を机へ置いた。
置いた、というより少し乱暴に落とした。
分かっている。
全部、分かっている。
以前の贈答が異様なほど滑らかだったことも、それが今崩れていることも、誰がそれを裏で整えていたのかも。
認めたくないだけだ。
「セシリアは何をしている」
思わず出た言葉は、半ば八つ当たりだった。
執事長の顔に、ほんのわずかな困惑が浮かぶ。
「聖女候補様、ですか」
「そうだ。あれだけ“人の心が分かる”ように振る舞うのなら、夫人方への贈答の一つも」
そこまで言いかけたところで、自分でも言葉の浅さに気づき、苛立ちが増した。
セシリアは可憐だ。人前で泣く術を知っている。守られるべき顔をしている。そういう意味では、社交界での立ち回りも上手い。
だが、贈答品の裏にある嗜好と持病と季節の相性を読み切るような種類の実務は、まるで別物だ。
執事長は慎重に言った。
「聖女候補様を、裏方の管理へそのまま当てはめるのは難しいかと」
「つまり、役に立たんと」
「私はそうは申しません。ただ、種類が違うのです」
種類が違う。
その通りだ。
だが、そうだと認めることは、すなわちリシェルが担っていた“種類”の価値を認めることでもある。
エドガーは机の縁を強く掴んだ。
「面倒だ」
低く漏れた本音に、執事長は何も答えなかった。
面倒なのは贈答のことではない。
リシェルという女を失って初めて、自分が何を失ったのかを理解し始めていること、それ自体が面倒なのだ。
もし彼女が本当に、ただ陰湿で嫉妬深いだけの女だったなら、こんなふうに後から困ることなど何もなかったはずだ。
なのに現実は違う。
現実だけが、容赦なく違うのだ。
一方その頃、フォルディア侯爵家でも、静かな綻びは確実に広がっていた。
長女が消え、屋敷の空気はむしろ軽くなったと、最初の数日は多くの者が思っていた。
あの重苦しい娘がいなくなれば、もっと華やかになる。セレナが中心に立てば、家の空気は柔らかくなる。継母マルティナはそう信じたし、セレナ自身もそう思っていた。
だが屋敷というものは、華やかさだけでは回らない。
昼下がりの応接間で、マルティナは露骨に眉をひそめていた。
「また香りが強すぎるのよ」
卓上に飾られた花束から、甘く濃い香りが立っている。冬の花ではあるが、閉め切った室内にはやや重い。以前なら、この時間の応接にはもっと青く軽い香りの枝物が選ばれていたはずだ。
侍女頭が頭を下げる。
「申し訳ございません。花屋から届いたものをそのまま」
「そのまま? 以前はどうしていたの」
問いかけた瞬間、マルティナ自身の顔がわずかに強張った。
答えは分かっているからだ。
以前は、リシェルがその場に合わせて花を替え、強すぎる香りのものは廊下や広間へ回していた。
継母は一度もそれに礼を言ったことはない。だが、礼を言わなかったことと、その事実がなかったこととは違う。
侍女頭は慎重に答える。
「以前は長女様が……」
「もういいわ」
マルティナは苛立たしげに扇を開いた。
最近、使用人たちの口から何かにつけて“以前は長女様が”という言葉が出る。それが気に入らない。追放された娘の名をいつまでも屋敷の中へ残されている気がするからだ。
だが、気に入らないからといって、現実まで消えるわけではない。
紅茶の補充はずれる。花は香りが重い。保存庫の果物は傷みやすくなる。夜会前のドレス修繕の段取りは遅れる。厨房への指示も、細かなものほど抜けが増える。
すべては些細な綻びだ。
しかし屋敷は、そういう些細な綻びが積み重なるほど、表面の優雅さを保ちにくくなる。
「セレナ」
マルティナは扇の陰から義娘を見た。
「帳面はどうなったの」
セレナは目を伏せる。
机の上には、リシェルが残していた複数の管理帳が開かれていた。茶葉、花、保存食、侍女の持病、仕入れ先、客人ごとの禁忌。ページをめくるたびに文字がびっしり並んでいて、それだけで目眩がする。
「写しは進めています」
可憐な声でそう言ったが、その実、進みはひどく遅かった。
いや、写すこと自体はできる。
だが問題は中身を理解することだ。
なぜこの季節にこの花を避けるのか。なぜこの夫人にはこの茶葉なのか。なぜこの侍女には夜勤を続けさせてはいけないのか。なぜ厨房の塩加減にまで印があるのか。
どれも“ただ書けばいい”わけではない。
理由が分からなければ応用が利かない。
そしてセレナは、その理由を考えること自体に苛立っていた。
「お姉様は、どうしてこんな細かいことばかり……」
ぽつりと零れた本音に、侍女頭がほんの一瞬だけ顔を曇らせる。
その反応を見て、セレナの胸にちくりと小さな苛立ちが走った。
まただ。
また皆、リシェルを思い出すような顔をする。
追放されたのは姉だ。選ばれなかったのも姉だ。勝ったのはこちらのはずなのに、どうして屋敷の空気の端々に、まだあの女が残っているのだろう。
「好きでやっていただけでしょう」
つい強い調子で言う。
「そんな地味な帳面仕事、わたくしは別にしなくても……」
言いかけたところで、侍女頭の視線が下がった。
それは反論ではない。
だが、否定も肯定もしない沈黙のほうが、時に人を苛立たせる。
セレナは扇を握る指先へ力を込めた。
もしこの帳面が本当に必要なものなら、ここから先、自分はずっとリシェルの残したものをなぞることになる。
それだけは、どうしても面白くなかった。
その日、王都ではもう一つ、小さな報告が静かに届いていた。
表向きは地方の定期報だ。王都の上層では、辺境の砦や村の様子など日々膨大に上がってくる。重要でなければ、ほとんどは目を通されず積み上がるだけだ。
だが、その中の一枚へ目を止めた者がいた。
簡潔な文面だった。
『北西辺境第三駐屯区にて、新任薬師リシェル・フォルディア到着以後、医務対応の初動迅速化が確認される。村落熱病への介入も成功。周辺村にて名が広まりつつあり』
それだけ。
だが、そこへ記された名は、王都で既に一度消えたはずのものだった。
リシェル・フォルディア。
婚約破棄された悪役令嬢。
追放された侯爵令嬢。
そのはずの女が、辺境で“名が広まりつつある”。
報告書を読んだ男は、ゆっくりと紙を机へ置いた。
年齢不詳の痩せた指先。装飾を抑えた上等な衣服。窓の外の冬空を背にしていて、顔は影になっている。
「……面倒なことになってきたな」
低い呟きは、誰に聞かせるでもないものだった。
だがその声音に含まれた不機嫌は本物だ。
辺境へ流した駒が、そのまま埋もれてくれれば都合がよかった。なのにその駒は、どうやら新しい場所で勝手に価値を持ち始めている。
それは好ましくない。
しかも、その女の近くには“今は辺境にいるあの男”がいる。
偶然にしては、少々できすぎていた。
「見ておけ」
男は、部屋の隅に控えていた従者へ短く命じた。
「ただし、まだ触るな」
「は」
「今はまだ、どこまで繋がっているか分からん」
その言葉とともに、報告書は別の束へ分けられる。
重要だが、まだ表へ出す段階ではない。
王都の闇は、いつもそうやって整理されていく。
同じ日の夕方、レヴェント公爵家では、エドガーがまた一つ別の苛立ちを味わっていた。
今度は夜会の席順だった。
明後日の小規模な集まりに関して、誰をどこへ座らせるか、その最終確認の場である。本来なら執事と家人が詰めれば済む話だ。だが、夫人方の微妙な相性や、最近の派閥の動きを考えると、置き方一つで空気が変わる。
以前のリシェルは、こういう場で必要以上に口を出さなかった。
だが黙っていたわけでもない。必要な時には、驚くほど簡潔に、そして厄介ごとを避ける形で配置を提案した。
エドガーはそれを“気の利く婚約者”程度にしか思っていなかった。
いや、そんなふうにさえ思っていなかったかもしれない。ただ、毎回うまくいくものだから、それが当然だと思っていた。
今、その当然がない。
「違う」
エドガーは配置図へ指を打ちつけた。
「ここへその夫人を置けば、向かいの席がまずいだろう」
執事が頭を下げる。
「しかし他の配置候補は」
「以前はどうしていた」
口にした瞬間、自分で嫌になる。
以前はどうしていた。
またその問いだ。
そして答えも分かっている。
以前は、リシェルがうまくやっていた。
その一言へ行き着くのが、たまらなく面白くない。
執事は慎重に答える。
「以前は、リシェル様が夫人方の最近のご様子とお茶会の空気を踏まえて」
「もういい!」
鋭く遮る。
部屋が一瞬で静まり返る。
エドガーはその沈黙の中で、自分が苛立っていることを嫌というほど自覚していた。
リシェルがいたから上手くいっていた。
たったそれだけの事実を、認めることがこんなにも不快だとは思わなかった。
彼女は重い女だった。面倒な時もあった。感情が見えにくく、何を考えているか分からないこともあった。
だが同時に、失って初めて見える形で、あらゆる細部を支えていた。
それを今さら知るのは、あまりにも遅い。
「……下がれ」
低く言う。
執事たちは静かに一礼し、部屋を出ていく。
一人きりになった執務室で、エドガーは配置図を睨みつけた。
どう並べても、どこかが不自然に見える。
たったそれだけのことが、ひどく癪に障る。
そして最悪なのは、自分の頭の中で、リシェルならどう直したかと考え始めてしまうことだった。
「くそ……」
低く吐き捨てる。
婚約を破棄したのは正しかったはずだ。
セシリアを守るためだった。王都中の前で断罪し、悪評のある婚約者を切り捨てた。誰もがそう言った。誰もが彼を責めなかった。
ならばなぜ。
どうして今、自分だけがこうして不機嫌な現実に付きまとわれなければならないのか。
答えは出ない。
だが、答えの形だけは少しずつ見えてきている。
リシェルを失ったことで、自分の周囲から“当然に整っていたもの”が次々と消えていっているのだ。
それは、ただの感傷より厄介だった。
感傷なら忘れれば済む。
だが実務は、忘れても崩れる。
その頃、北西辺境補給砦では、当のリシェルが薬棚の前で新しい帳面へ最後の線を引いていた。
熱病対策の残量。傷薬用の樹脂。補充優先。補給路の不安。すべてを一つずつ目に見える形へ落としていく。
外では雪がまた降り始めている。
静かで、白くて、冷たい。
けれど今のリシェルにとって、その冷たさは王都のものとは違っていた。
辺境の雪は容赦がない。だが少なくとも、何かを飾ってはこない。
だからこそ、ここで差し出される言葉も、役目も、痛みも、少しだけまっすぐに感じられる。
王都ではじまる後悔を、彼女はまだ知らない。
エドガーが苛立っていることも、侯爵家の帳面が回らなくなっていることも、使用人たちの中で“長女様がいた頃は”という囁きが増えていることも。
だが知らなくていい、と今は思えた。
今はまだ。
今は、自分がここで何を積み上げられるかのほうが大事だ。
その積み上げが、やがて王都を振り返らせる日が来るのだとしても。




