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婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第18話 王都の毒、辺境の傷

 翌朝の医務棟は、妙に静かだった。


 静かといっても、誰もいないわけではない。暖炉の火は生きており、煎じ鍋は小さく湯気を立て、奥の寝台では昨夜からの軽熱の兵が寝返りを打つ音もする。だが、いつものような怒鳴り声やせわしない足音が少ない。


 雪道の襲撃の翌日だからだろう。


 皆、表向きは普段通りに動いていても、内側ではまだ緊張を解いていない。何をいつどこで失いかけたのか、それぞれの形で思い返しているのだ。


 リシェルもまた、その一人だった。


 眠れなかったわけではない。むしろ疲労で身体はよく眠った。けれど目を覚ましてからずっと、胸の奥に小さな熱が残っている。


 箱より先に自分を守れと言った声。

 別の感情が先に出た、と不器用に認めたひと言。

 そして、慎重すぎるほど慎重だった大きな手。


 思い出すたびに落ち着かなくなる自分が、少し悔しい。


 だからこそ、今朝は意識して手を動かしていた。


 薬棚の確認。煮沸水の補充。襲撃後の補給帳の修正。木札の写しの整理。考えるより先に仕事を積むほうが、余計なことを思い出さずに済む。


 そう思っていたのに。


「令嬢」


 低い声が落ちた瞬間、手が止まる。


 振り向くと、ベルンが帳面を小脇に抱えて立っていた。


「はい」


「団長だ」


 それだけ。


 だが、その二文字だけで鼓動がわずかに跳ねる。


「何かありましたか」


「傷だ」


 老人は短く言った。


「昨夜、お前に少し休むと大嘘をついた後で、結局夜半まで見張り台に上がっていたらしい」


 リシェルは眉を寄せた。


「……やっぱり」


「今朝になって古傷が疼いてる。新しい脇腹の傷じゃない。古いほうだ」


 その言葉に、胸のざわめきが一瞬で別の種類の緊張へ変わる。


 古傷。


 それは、ただの戦傷ではないもの。


 焼き消されたような紋の跡と、獣傷とも火傷とも違う匂いを持つ、あの傷だ。


「どこに」


「鍛錬場の脇だ。人を払ってある」


 ベルンは露骨に面倒そうな顔をした。


「本来なら儂が行く。だが、あの傷に関してはお前の鼻のほうが早い」


 言われて、リシェルは少しだけ目を見開いた。


 ベルンがそこまで認めるとは思わなかった。


「先生」


「礼を言うな。時間がない」


 すぐにそう切られる。


 だが、そのぶっきらぼうさの裏にあるものは、もう分かる。


 必要だから任せる。


 それだけだ。


 そして、この砦でその“必要だから”は、何より重い。


 鍛錬場の脇にある小さな詰所は、簡素な造りのわりに暖かかった。


 見張りの兵が一時的に休むための部屋なのだろう。石壁は厚く、暖炉は小さいがよく焚かれている。粗末な寝台、木の長椅子、湯桶、薄い毛布。王都の感覚からすれば質素そのものだが、今のリシェルにはこういう実用一辺倒の部屋のほうがむしろ落ち着く。


 中にはアルヴェインがいた。


 上着を脱ぎ、長椅子へ浅く腰掛けている。黒い髪は少し乱れ、眉間にはわずかな皺。表情はいつも通り抑えられていたが、右手が脇腹より少し上――あの古傷の辺りを無意識に庇っているのが分かった。


「来たか」


 声は平坦だ。


 だが、その平坦さが少しだけ無理をしていることも分かる。


「少し休む、とは何だったんですか」


 思わず口から出る。


 アルヴェインはほんのわずかに目を細めた。


「休んだ」


「足りていません」


「お前は毎回そう言うな」


「毎回足りていないからです」


 そう返すと、彼は小さく息を吐いた。


 呆れなのか、諦めなのか、その中間みたいな吐息だ。


 けれど今日は、そのやり取りを長くしている場合ではない。


 リシェルは近づき、長椅子の前で足を止めた。


「古傷のほうですか」


「ああ」


「触れても?」


 一応問うと、アルヴェインは少しだけ間を置いてから、上着の紐を自分で解いた。


「見ろ」


 短い許可。


 それだけなのに、妙に重い。


 布をずらすと、脇腹の新しい縫合痕は今のところ大きな問題はなさそうだった。少し赤いが、裂けてはいない。だが、そのすぐ上の古傷の辺りは違った。


 皮膚がわずかに強張り、周囲の色が鈍く沈んでいる。表面上は傷そのものが開いているわけではない。なのに、そこだけが冷えているのに熱を持つような、奇妙な状態だ。


 リシェルは顔を近づけ、慎重に匂いを確かめた。


 雪と鉄の匂いの奥に、やはりあの苦い残り香がある。


 乾いた灰。古い血。薬草に似た何か。だが薬ではない。もっと、人為的で、不自然で、長く残るもの。


「……やっぱり」


 小さく呟くと、アルヴェインがこちらを見る。


「分かるのか」


「昨日よりはっきり」


 リシェルは正直に答えた。


「普通の古傷じゃありません。痛み方も、冷え方も、匂いも」


 そこまで言うと、アルヴェインは黙った。


 否定しない。


 それだけで十分すぎるほど答えだった。


 リシェルはさらに慎重に触れた。指先の腹で周囲の皮膚の状態を確かめる。


 戦場でつく裂傷なら、治ったあとはもっと素直だ。季節で疼くことはあっても、こんなふうに一部だけが不自然に反応し続けることは少ない。


 これは、何かが“残っている”傷だ。


「毒、ですか」


 問いは静かに出た。


 アルヴェインはすぐには答えない。


 だが目だけは逸らさなかった。


「……昔のものだ」


「毒ではないと否定はしないんですね」


「お前は妙に容赦がないな」


 少し掠れたような声。


 だが怒ってはいない。


 むしろ、こちらが核心へ近づくのをどこまで許すか測っているような響きだった。


「痛みを取るなら、原因を知る必要があります」


 リシェルは手を止めずに言う。


「ただの戦傷なら温め方も揉み方も違う。でもこれは違う。何かが傷の中に残って、その残りが今も疼いているみたいです」


「残り、か」


 アルヴェインは小さく繰り返した。


 その言い方に、何か思い当たるものがあるのだと分かる。


 部屋の中は暖かいはずなのに、雪より冷たい沈黙が落ちた。


「王都からの使者が来たからですか」


 思い切って問う。


 青い瞳がわずかに細まる。


「なぜそう思う」


「匂いです」


 リシェルは躊躇わずに言った。


「応接棟の前を通った時、王都から来た使者の外套に、すごく薄くですけど、似た残り香がありました」


 アルヴェインの沈黙が、今度ははっきりと重くなる。


 図星だ。


「……本当に鼻が利くな」


 ようやく落ちてきた声は、諦めにも似ていた。


 それはつまり、否定ではない。


「昔、王都で使われたものだ」


 低く言う。


「香油に似せた毒と、呪を混ぜた残滓。深く入れば命を取る。浅くても、長く残る」


 リシェルは息を止めた。


 毒。


 そして呪。


 やはりそうだったのだ。


 ただの傷ではない。王都の誰かが、明確な意図を持って彼へ刻んだもの。


「王位に近い人間へ使うには、ずいぶん露骨ですね」


 自分でも驚くほど静かな声で言うと、アルヴェインはわずかに口元を動かした。


「近いから使う」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと縮む。


 王位に近いから。


 だから毒も、呪も、傷も寄ってくる。


 この人が辺境にいる理由の一端が、今はっきりと見えた気がした。


「……だから戻りたくないんですか」


 小さく問う。


 アルヴェインはすぐには答えず、暖炉の火へ視線を落とした。


「戻りたくないわけではない」


 やがて、低い声が落ちる。


「戻れば、また思い出すだけだ」


 その言葉には、ひどく乾いた疲れがあった。


 逃げたいのではない。投げたいのでもない。


 ただ、戻るたびに古傷ごと過去が疼くのだ。


 それをこの人は知っていて、それでも必要なら戻るつもりでいる。


 その在り方が、リシェルには少し痛かった。


「動かないでください」


 少しだけ強い口調で言い、薬草袋を開ける。


「今あるもので少しだけ抑えます」


「抑えられるのか」


「完全には無理です。でも、何もしないよりずっといいです」


 乾燥葉を二種、樹皮を少し、樹脂はほんの少量。そこへ辺境で採れる冷えを抜く草を混ぜる。普通の戦傷向けではない。痛みと痺れの両方へ寄せる、応急の配合だ。


 湯へ落とし、香りが立つのを待つ。


 その間の沈黙が妙に濃い。


 アルヴェインは何も言わない。だが、こちらを見ているのは分かる。


 リシェルもまた、手元から目を離せなかった。


 この男の古傷に触れ、その原因の一端を聞いてしまった。


 それは秘密を共有したというより、もっと危ういものへ踏み込んだ感覚だった。


「できました」


 煎じた液を布へ含ませ、傷の周囲へそっと当てる。


 アルヴェインの肩が一瞬だけ硬くなった。


「痛いですか」


「……最初だけだ」


「無理はしないでください」


「していない」


「こういう時の“していない”は信用していません」


 返すと、彼はほんのわずかに息を吐いた。


 笑ったのかもしれない。


 布を置いたまま、ゆっくりと馴染ませる。


 薬草の香りが立ち上がり、古傷の周囲の強張りが少しだけ緩んでいくのが指先で分かった。


「どうですか」


「……少し、ましだ」


 その返答に、胸の奥で小さく何かが弾む。


「本当に?」


「疑うな」


「疑ってはいません。確認です」


「お前は何でも確認するな」


「必要なので」


 そこまで言ってから、ふと気づく。


 自分は今、彼の体へほとんど寄りかかるような距離にいる。手元へ集中していたせいで意識していなかったが、顔を上げればすぐそこにアルヴェインの顎と喉が見えるほど近い。


 近すぎる。


 そう思った瞬間、遅れて心臓が跳ねた。


 視線を上げると、ちょうどアルヴェインもこちらを見ていた。


 青い瞳が近い。


 逃げ場がない。


 そして、その目の奥にいつもの冷たさだけではないものがあるのを見つけてしまう。


「……どうした」


 先に声を出したのはアルヴェインだった。


 低い。


 だが昨夜のような怒りはなく、むしろこちらの変化を測るような柔らかさが少しだけ混じっている。


「いえ」


 慌てて視線を戻す。


「近いと思っただけです」


 言ってから、自分で顔が熱くなる。


 何を正直に言っているのだろう。


 だがアルヴェインは咎めなかった。


「お前が寄った」


「治療のためです」


「分かっている」


 その返しが妙に静かで、余計に落ち着かない。


 薬布を外し、次は薄く練った軟膏を塗る。普通の痛み止めではない。呪の残滓のようなものへ効く保証はないが、少なくとも疼きを和らげる方向へは働くはずだ。


「王都の香りで疼くなら、完全に治すには原因そのものから遠ざけるしかありません」


「なら王都ごと消すか」


 さらりと言うので、リシェルは思わず顔を上げた。


「冗談ですか」


「半分は」


 その答えに、つい吹き出しそうになる。


 この人は、たまに本気と冗談の境目が危うい。


「笑うな」


「今のは、少しだけ笑ってもいいと思います」


「そうか」


 短い返答。


 でも、口元はわずかに緩んでいた。


 その表情を見ると、また胸が少し騒ぐ。


 王位継承に連なる男。辺境最強の騎士団長。王都の毒と呪を身に残した人。


 それなのに、自分の前ではこういう小さな変化を見せる。


 そのことが、たまらなく危うく思えた。


「リシェル」


 また名前を呼ばれる。


「はい」


「お前、自分の断罪についてどこまで考えている」


 唐突な問いだった。


 だが、無関係ではない。


 王都の毒。補給路の襲撃。工房印。そして自分の婚約破棄。


 全部が薄い糸で繋がっている気配は、もう無視できないところまで来ていた。


「最初は、セシリア様とエドガー様の件だけだと思っていました」


 静かに答える。


「でも、今は違います」


「どう違う」


「私個人を嫌った誰かが仕組んだだけではなくて」


 言葉を選ぶ。


「“私が辺境へ来ること”そのものが、誰かにとって都合が良かったのかもしれないと思っています」


 アルヴェインは黙って聞いていた。


「私を王都から消したかったのか。辺境へ送る必要があったのか。それとも、団長の近くへ置くこと自体に意味があったのか」


 そこまで言って、リシェルは小さく息を吐く。


「まだ分かりません。でも、偶然にしては重なりすぎています」


 暖炉の火がぱちりと鳴った。


 アルヴェインは少しだけ視線を落とし、それから低く言った。


「そこまで見えているなら、もう引き返せんな」


「引き返すつもりはありません」


 答えは、思ったよりすんなり出た。


 たぶん本音だった。


 王都へ戻って、何も知らないふりをして、また誰かが整えた籠の中へ戻る気は、もうない。


「怖くはないのか」


「怖いです」


 すぐに言う。


「でも、それ以上に、見ないふりをするほうが嫌です」


 その言葉に、アルヴェインの目が少しだけ和らいだ。


「……そうか」


 それだけ。


 なのに、認められたような気がした。


 処置を終える頃には、古傷の周囲の硬さは少しだけほどけていた。


 完全ではない。だが、さっきまでよりは確実に呼吸が楽そうだ。


「今夜はこれで様子を見てください」


 布を片づけながら言う。


「また痛みが強くなるようなら、隠さずに来てください」


「隠していない」


「では、我慢しないでください」


「それも難しい」


「難しくてもです」


 リシェルは手を止めて、真っ直ぐ彼を見る。


「団長が倒れると、本当にいろいろ困ります」


 言ってから、自分でも少しだけ頬が熱くなる。


 “いろいろ”に、どれだけ個人的な意味が混ざっているのか、もう自分でも曖昧だった。


 アルヴェインはその視線を受け止めたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく言う。


「お前は本当に、変なところで真っ直ぐだな」


「そうでしょうか」


「そうだ」


 その声は柔らかかった。


「だから王都では浮いたんだろう」


 胸の奥が少しだけ痛む。


 けれど、それは嫌な痛みではなかった。


 浮いた。


 見えなかった。


 捨てられた。


 そういう言葉でしか語れなかった過去を、この人は今、変なふうにではなく、そのまま見てくれている。


「でも」


 リシェルは少しだけ笑った。


「辺境では、そんなに悪くないみたいです」


 アルヴェインの口元が、ほんのわずかに上がる。


「そうだな」


 その肯定だけで、なぜか泣きそうになるほど胸が温かくなった。


 詰所を出ると、夜の雪は昼より細かくなっていた。


 医務棟へ戻る途中、リシェルは一度だけ振り返った。


 詰所の小さな窓の奥に、暖炉の橙色が揺れている。その中にアルヴェインがまだ座っているのか、それとももう立ち上がったのかは見えない。


 けれど確かなことが一つあった。


 王都の毒は、まだこの人の傷の中に残っている。


 だがその疼きを、少しでも和らげられたのは自分だ。


 その事実は、危うくて、うれしくて、そしてどうしようもなく大きかった。


 医務棟の戸を開けると、ベルンが顔も上げずに言った。


「どうだった」


「少し、ましになったそうです」


「そうか」


 それだけ。


 だが、老人の声にもわずかな安堵があった。


 トーマスが奥から顔を出す。


「団長、ちゃんと座ってました?」


「ちゃんと、とは言い切れないけれど」


「それはいつも通りですね」


 若い兵の言葉に、思わず笑ってしまう。


 たしかに、その通りだ。


 そしてその笑いの奥で、リシェルははっきりと知る。


 この砦で、自分はもうただ働いているだけではない。


 人と人のあいだへ入っている。

 傷と秘密のあいだへも。

 そして、あの人の痛みの少し近くへも。


 王都の毒はまだ消えない。


 けれど辺境には、それを和らげる火と、雪の中でも生きる草と、そして少しずつ寄り添い始める時間があった。

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