第17話 夜の反省会と、近すぎる距離
雪道の襲撃から戻った砦は、夜になっても完全には静まらなかった。
補給隊が襲われたという事実だけで、見張りの人数が増え、門番の交代も一段厳しくなり、厩舎では馬具の点検がやり直される。鍛冶場からは普段より遅くまで鉄を打つ音が響き、補給庫の鍵はいつもより多く確認された。
人は、血の匂いを嗅いだ夜ほど慎重になる。
それは辺境でも同じだった。
医務棟へ戻ったリシェルは、ベルンに「無傷だ」と言われたにもかかわらず、結局そのまま解放はされなかった。
「座れ」
言ったのはベルンではなく、アルヴェインだった。
医務棟の奥、診察用の長椅子の前。暖炉の火が少し強められ、灯りも足されている。そこへ立つ黒い影はいつも通り無愛想で、いつも通り命令口調だった。
リシェルは外套を脱ぎながら眉を寄せる。
「さっき確認したでしょう。擦り傷だけだって」
「確認したのはベルンだ」
「ベルン先生は砦でいちばん信用できる薬師ですよ」
「それとこれとは別だ」
理屈になっていない。
そう思ったが、アルヴェインの顔つきは本気だった。しかも少しだけ機嫌が悪い。怒鳴ってはいないが、静かなぶんだけ余計に圧がある。
ベルンはその様子を見て、露骨に面倒そうな顔をしながらも口を出した。
「令嬢、諦めろ。今の団長は確認するまで終わらん」
「先生まで」
「儂は巻き込まれたくないだけだ」
そう言って老人は薬瓶の整理を始めてしまう。
トーマスなどは完全に“あとは若い二人でどうぞ”という顔をして、湯桶を置くとそそくさと別室へ消えていった。
医務棟の一角に、妙な静けさが落ちる。
リシェルは仕方なく長椅子に腰を下ろした。
「本当に大げさです」
「お前がそう言う時は、大抵一つ二つ見落としている」
「見落とすほど混乱していません」
「なら確認して問題ないな」
返しが早い。
そしてずるい。
リシェルは少しだけ口をつぐみ、それでも素直に腕を差し出した。手首、肘、肩。雪へ飛び込んだ時に擦れた場所は薄く赤くなっている。血はほとんど出ていない。だが冷気にさらされたせいで、触れるとひりつく。
アルヴェインはそれを確認しようとして、途中で手を止めた。
「……ベルン」
「自分で見ろ」
即答だった。
「お前が気にしているのは傷の深さじゃないだろう」
さすがに長年付き合っているらしい切り返しだ。
アルヴェインは露骨に不機嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。
その反応を見て、リシェルの胸が少しだけざわつく。
この人は本当に、自分が怪我をしていないかを自分で確かめたいのだ。
そこまで気にされる理由を考えると、胸の奥が落ち着かない。
「……団長」
「何だ」
「見ますか」
差し出した言葉は、思ったより静かだった。
アルヴェインがわずかに目を細める。
それから、ごく短く「失礼する」と言った。
そのひと言が、ひどく律儀で、かえってリシェルの呼吸を乱した。
大きな手が、そっと彼女の手首に触れる。
冷えているかと思っていた指先は意外にも温かかった。いや、温かいというより、しっかりと生きた熱を持っている。戦場で剣を握る手。兵を率いる手。脇腹に古傷を抱えたまま、雪道を走り抜けてきた手。
その手が、自分の手首の細い擦り傷を確かめる。
触れ方は驚くほど慎重だった。
雑に扱えば痛まない程度の傷だ。なのに、まるで壊れ物にでも触れるように、親指の腹が傷の周りを避けてなぞる。
近い。
あまりにも近い。
暖炉の熱とは別の熱が、頬のあたりへ集まっていく気がする。
「腕を上げろ」
「……はい」
言われた通りにすると、今度は肘、肩。上着の端を少しだけずらされる。そこにも雪へ擦れた跡があり、衣服の下でじくじくと痛んでいた。
「擦っただけです」
「擦っただけでも、冬場は厄介だ」
「それは分かっています」
「分かっていて、箱に飛びついたのか」
そこで初めて、声に明確な棘が混じった。
リシェルは少しだけ目を伏せる。
やはり怒っているのだ。
箱へ手を伸ばしたことを。
「……あの箱を持っていかれたら、困ると思ったので」
「困る」
アルヴェインが低く繰り返す。
「お前が短剣に届く位置へ出た時点で、俺のほうがよほど困った」
その言葉は、ひどく率直だった。
あまりにも率直で、リシェルは息を詰めた。
何かを言い返そうとして、言葉が出ない。
箱より先に、自分の身を守れと言われた時も、胸は大きく鳴った。だが今は、もっと直接的に響く。
自分が危ないことが、“困る”のだと。
アルヴェインにとって。
「団長は……」
やっとのことで声を出す。
「いつもそうやって、自分のことは後回しなのに」
アルヴェインの手が一瞬だけ止まる。
「私には箱より先に自分を守れと言うのに、団長は自分の脇腹を抱えたまま雪道を走るでしょう」
「俺は」
「必要だから?」
リシェルは顔を上げた。
青い瞳が、すぐ目の前にある。
「でも、私だって必要だと思ったんです」
静かに、けれどはっきりと言う。
「役に立ちたいと思って出ました。守られるだけで終わりたくなかった」
その言葉を聞きながら、アルヴェインは何も言わない。
だが、目だけは逸らさない。
暖炉の火が小さく鳴る。
医務棟の奥ではベルンが器具を整える音を立てているはずなのに、この一角だけ別の時間になったように感じる。
「……分かっている」
ようやく落ちた声は、思ったより低かった。
「分かっているから余計に腹が立つ」
「え?」
「お前が何も考えずに飛び出したわけじゃないと分かるからだ」
そのひと言に、リシェルの胸がまた大きく鳴る。
ただ叱られているのではない。
自分の考えも覚悟も、理解されたうえで怒られている。
それは王都では決してなかったことだった。
「……では」
リシェルは少しだけ唇を引き結ぶ。
「次は、もう少し上手くやります」
言った瞬間、アルヴェインの顔が本気で険しくなった。
「次がある前提で話すな」
「でも」
「ない」
きっぱりとした拒絶。
けれどその言葉の裏にあるのは、無茶を禁止する規律だけではない。もっと個人的な、切羽詰まった何かが見える。
そこへ、ベルンがわざとらしい咳払いをした。
「二人とも、反省会をするならもう少し離れてやれ。見てるこっちが落ち着かん」
その一言で、初めて二人とも今の距離に気づいた。
リシェルは長椅子に腰掛け、アルヴェインはその正面、ほとんど膝が触れそうな位置に立っている。手首を取られたままだから、余計に近く感じるのだ。
ぱっと血が上る。
「せ、先生!」
「事実だ」
ベルンは顔も上げない。
アルヴェインも一瞬だけ押し黙り、それからようやく手を離した。
離れた途端、皮膚の表面が少しだけ寂しくなるのを感じてしまい、リシェルは自分で自分に驚いた。
「傷は浅い」
アルヴェインが言う。
「だが、今夜は温めろ。明日、雪へ出るな」
「明日は出ません」
「本当か」
「……たぶん」
「曖昧だな」
「薬棚の整理があります」
「それなら中でやれ」
そこまで言ってから、彼は少しだけ視線を逸らした。
「お前には、中でできることも多い」
その声音が少しだけ柔らかくなっていた。
守ろうとしているのだと分かる。
けれど同時に、自分の力を認めてもいる。
だからこそ、リシェルは小さく息を吐いて言った。
「団長」
「何だ」
「私は、守られるだけの人にはなりません」
アルヴェインの目がこちらへ戻る。
「でも、勝手に死ぬつもりもありません」
そのまま言葉を継ぐ。
「だから……あなたのやり方も、少しは信じます。私も、自分のやり方ばかり通さないようにします」
静かな沈黙が落ちた。
ベルンでさえ、今度は口を挟まない。
しばらくして、アルヴェインが低く言う。
「……少しだけ、だな」
その返答が、妙に可笑しくて、リシェルは思わず小さく笑ってしまった。
「はい。少しだけです」
「欲張るな」
「団長もです」
返しながら、目が合う。
ほんの一瞬。
けれどその一瞬に、いつもの押し問答とは違う温度があった。
無愛想で、頑固で、自分の傷を平気で後回しにする男。けれど兵たちの命も、村の熱も、自分の擦り傷も、きちんと見ている男。
そしてその男の近くにいることが、いつの間にかひどく自然になっている自分。
そのことに気づいてしまい、胸が少しだけ苦しくなる。
ベルンがまた咳払いした。
「話は済んだか」
「まだです」
なぜかリシェルが先に答えていた。
言ってから、自分で少しだけ驚く。
まだです、とはどういう意味だろう。
ベルンも珍しく眉を上げたが、アルヴェインのほうは、ほんのわずかに目を細めただけだった。
「なら続けろ」
老人は諦めたように言い、器具を持って奥へ引っ込んだ。
医務棟の一角に残るのは、暖炉の火と、まだ消えきらない互いの熱だけだ。
「さっきの木札のことですが」
リシェルはようやく本題へ戻る。
「王都西側の工房印に似ていました」
「ああ」
「完全に同じかは分かりません。でも、王都の物資と繋がっている可能性は高いです」
「そうだろうな」
アルヴェインは短く頷く。
「補給路の襲撃と、お前の断罪が、まったく別だとは思っていない」
その言葉に、リシェルは息を止めた。
やはり彼も、そこを繋げて見ている。
だが今は、それ以上を掘る夜ではないのだろう。彼はすぐに続けた。
「ただ、まだ証拠が足りん」
「はい」
「焦るな」
「……分かっています」
本当は、分かっているだけでは足りない気もしている。
王都の影はもう、辺境の雪道にまで伸びてきているのだ。ならばこちらも急ぐべきではないか、と。
けれどアルヴェインの声音には、不思議と人を落ち着かせる重さがある。
焦るな。
その一言だけで、今はまだ積み上げる時なのだと分かる。
「今夜は休め」
また同じ言葉。
だが今度は、命令だけではなく、少しだけ気遣いが混じって聞こえた。
「団長も、ですよ」
「俺は」
いつものように言い返しかけて、彼は一瞬だけ黙る。
そして、諦めたように小さく息を吐いた。
「……少しは休む」
リシェルは目を丸くした。
「本当に?」
「お前は毎回それを確認するな」
「大事なので」
「面倒だ」
そう言いながらも、声の響きはやけに柔らかかった。
それを聞いて、胸の奥に小さな灯がともる。
この人は、変わり始めているのかもしれない。
少なくとも、自分の前では。
「では、約束です」
リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけ眉を寄せた。
「約束?」
「少し休むって言いました」
「……そうだな」
「私は擦り傷を温めます。団長はちゃんと横になります」
「子ども扱いするな」
「患者扱いです」
「誰が患者だ」
またそこへ戻る。
けれど今は、それすら少しだけ愛しい反復に思えた。
アルヴェインは最後にもう一度だけリシェルの腕を見て、それから視線を上げた。
「次は、もっと上手く怒る」
ぽつりと落ちたその言葉に、リシェルはきょとんとする。
「怒る?」
「今日のことだ」
少しだけ視線を逸らしながら言う。
「お前を叱るつもりで、別の感情が先に出た」
その不器用すぎる告白に、リシェルの頬が一気に熱くなった。
怒りの裏に、別の感情。
それが何か、言葉にしなくても分かってしまう。
「……そんなに、危なかったですか」
小さく問うと、アルヴェインは即答した。
「危なかった」
それは一切の誇張がない声だった。
「だから、勝手に死ぬな」
またその言葉だ。
でも今度は、命令ではなく、ほとんど願いのように聞こえる。
リシェルは胸の前でそっと手を握った。
「……はい」
それしか答えられなかった。
けれど、その小さな返事だけで、何か大事な約束を交わしてしまった気がした。
その夜、自室へ戻ったリシェルは、寝台に腰を下ろしてしばらく動けなかった。
擦り傷はたしかに少し痛む。
だが、それ以上に胸の奥が落ち着かなかった。
近すぎた距離。慎重すぎる手。箱より先に自分を守れと言った声。別の感情が先に出た、と不器用に認めたひと言。
思い出すだけで、頬が熱くなる。
窓の外では雪がまだ静かに降っている。
鍛錬場も、中庭も、今は白く沈んで見えた。
「……困る」
小さく呟く。
何に困っているのかは、自分でも分かっていた。
あの人の言葉一つで、こんなにも心が揺れることに。
けれど同時に、少しだけうれしいとも思ってしまう。
辺境の冷たい夜の中で、自分を本気で怒り、本気で気にかける人がいる。
その事実が、想像以上にあたたかかった。
机の上の記録紙へ目をやる。
本当なら、今日の襲撃と木札の印について整理して書くべきなのだろう。
だが、今夜どうしても最初に書いてしまったのは、別の一行だった。
「団長は怒っていた。けれど、たぶん怒りだけではなかった」
書いてから、顔が少し熱くなる。
こんなことを記録へ混ぜるべきではないと分かっている。けれど、それでも書かずにいられなかった。
雪の砦の夜は長い。
けれど今夜のリシェルにとって、その長さは少しだけ甘く、少しだけ苦いものになっていた。




