表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢、辺境で薬師になったら最強騎士団長に執着されています――しかも彼は正体を隠した王位継承者でした  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/61

第17話 夜の反省会と、近すぎる距離

 雪道の襲撃から戻った砦は、夜になっても完全には静まらなかった。


 補給隊が襲われたという事実だけで、見張りの人数が増え、門番の交代も一段厳しくなり、厩舎では馬具の点検がやり直される。鍛冶場からは普段より遅くまで鉄を打つ音が響き、補給庫の鍵はいつもより多く確認された。


 人は、血の匂いを嗅いだ夜ほど慎重になる。


 それは辺境でも同じだった。


 医務棟へ戻ったリシェルは、ベルンに「無傷だ」と言われたにもかかわらず、結局そのまま解放はされなかった。


「座れ」


 言ったのはベルンではなく、アルヴェインだった。


 医務棟の奥、診察用の長椅子の前。暖炉の火が少し強められ、灯りも足されている。そこへ立つ黒い影はいつも通り無愛想で、いつも通り命令口調だった。


 リシェルは外套を脱ぎながら眉を寄せる。


「さっき確認したでしょう。擦り傷だけだって」


「確認したのはベルンだ」


「ベルン先生は砦でいちばん信用できる薬師ですよ」


「それとこれとは別だ」


 理屈になっていない。


 そう思ったが、アルヴェインの顔つきは本気だった。しかも少しだけ機嫌が悪い。怒鳴ってはいないが、静かなぶんだけ余計に圧がある。


 ベルンはその様子を見て、露骨に面倒そうな顔をしながらも口を出した。


「令嬢、諦めろ。今の団長は確認するまで終わらん」


「先生まで」


「儂は巻き込まれたくないだけだ」


 そう言って老人は薬瓶の整理を始めてしまう。


 トーマスなどは完全に“あとは若い二人でどうぞ”という顔をして、湯桶を置くとそそくさと別室へ消えていった。


 医務棟の一角に、妙な静けさが落ちる。


 リシェルは仕方なく長椅子に腰を下ろした。


「本当に大げさです」


「お前がそう言う時は、大抵一つ二つ見落としている」


「見落とすほど混乱していません」


「なら確認して問題ないな」


 返しが早い。


 そしてずるい。


 リシェルは少しだけ口をつぐみ、それでも素直に腕を差し出した。手首、肘、肩。雪へ飛び込んだ時に擦れた場所は薄く赤くなっている。血はほとんど出ていない。だが冷気にさらされたせいで、触れるとひりつく。


 アルヴェインはそれを確認しようとして、途中で手を止めた。


「……ベルン」


「自分で見ろ」


 即答だった。


「お前が気にしているのは傷の深さじゃないだろう」


 さすがに長年付き合っているらしい切り返しだ。


 アルヴェインは露骨に不機嫌そうな顔をしたが、否定はしなかった。


 その反応を見て、リシェルの胸が少しだけざわつく。


 この人は本当に、自分が怪我をしていないかを自分で確かめたいのだ。


 そこまで気にされる理由を考えると、胸の奥が落ち着かない。


「……団長」


「何だ」


「見ますか」


 差し出した言葉は、思ったより静かだった。


 アルヴェインがわずかに目を細める。


 それから、ごく短く「失礼する」と言った。


 そのひと言が、ひどく律儀で、かえってリシェルの呼吸を乱した。


 大きな手が、そっと彼女の手首に触れる。


 冷えているかと思っていた指先は意外にも温かかった。いや、温かいというより、しっかりと生きた熱を持っている。戦場で剣を握る手。兵を率いる手。脇腹に古傷を抱えたまま、雪道を走り抜けてきた手。


 その手が、自分の手首の細い擦り傷を確かめる。


 触れ方は驚くほど慎重だった。


 雑に扱えば痛まない程度の傷だ。なのに、まるで壊れ物にでも触れるように、親指の腹が傷の周りを避けてなぞる。


 近い。


 あまりにも近い。


 暖炉の熱とは別の熱が、頬のあたりへ集まっていく気がする。


「腕を上げろ」


「……はい」


 言われた通りにすると、今度は肘、肩。上着の端を少しだけずらされる。そこにも雪へ擦れた跡があり、衣服の下でじくじくと痛んでいた。


「擦っただけです」


「擦っただけでも、冬場は厄介だ」


「それは分かっています」


「分かっていて、箱に飛びついたのか」


 そこで初めて、声に明確な棘が混じった。


 リシェルは少しだけ目を伏せる。


 やはり怒っているのだ。


 箱へ手を伸ばしたことを。


「……あの箱を持っていかれたら、困ると思ったので」


「困る」


 アルヴェインが低く繰り返す。


「お前が短剣に届く位置へ出た時点で、俺のほうがよほど困った」


 その言葉は、ひどく率直だった。


 あまりにも率直で、リシェルは息を詰めた。


 何かを言い返そうとして、言葉が出ない。


 箱より先に、自分の身を守れと言われた時も、胸は大きく鳴った。だが今は、もっと直接的に響く。


 自分が危ないことが、“困る”のだと。


 アルヴェインにとって。


「団長は……」


 やっとのことで声を出す。


「いつもそうやって、自分のことは後回しなのに」


 アルヴェインの手が一瞬だけ止まる。


「私には箱より先に自分を守れと言うのに、団長は自分の脇腹を抱えたまま雪道を走るでしょう」


「俺は」


「必要だから?」


 リシェルは顔を上げた。


 青い瞳が、すぐ目の前にある。


「でも、私だって必要だと思ったんです」


 静かに、けれどはっきりと言う。


「役に立ちたいと思って出ました。守られるだけで終わりたくなかった」


 その言葉を聞きながら、アルヴェインは何も言わない。


 だが、目だけは逸らさない。


 暖炉の火が小さく鳴る。


 医務棟の奥ではベルンが器具を整える音を立てているはずなのに、この一角だけ別の時間になったように感じる。


「……分かっている」


 ようやく落ちた声は、思ったより低かった。


「分かっているから余計に腹が立つ」


「え?」


「お前が何も考えずに飛び出したわけじゃないと分かるからだ」


 そのひと言に、リシェルの胸がまた大きく鳴る。


 ただ叱られているのではない。


 自分の考えも覚悟も、理解されたうえで怒られている。


 それは王都では決してなかったことだった。


「……では」


 リシェルは少しだけ唇を引き結ぶ。


「次は、もう少し上手くやります」


 言った瞬間、アルヴェインの顔が本気で険しくなった。


「次がある前提で話すな」


「でも」


「ない」


 きっぱりとした拒絶。


 けれどその言葉の裏にあるのは、無茶を禁止する規律だけではない。もっと個人的な、切羽詰まった何かが見える。


 そこへ、ベルンがわざとらしい咳払いをした。


「二人とも、反省会をするならもう少し離れてやれ。見てるこっちが落ち着かん」


 その一言で、初めて二人とも今の距離に気づいた。


 リシェルは長椅子に腰掛け、アルヴェインはその正面、ほとんど膝が触れそうな位置に立っている。手首を取られたままだから、余計に近く感じるのだ。


 ぱっと血が上る。


「せ、先生!」


「事実だ」


 ベルンは顔も上げない。


 アルヴェインも一瞬だけ押し黙り、それからようやく手を離した。


 離れた途端、皮膚の表面が少しだけ寂しくなるのを感じてしまい、リシェルは自分で自分に驚いた。


「傷は浅い」


 アルヴェインが言う。


「だが、今夜は温めろ。明日、雪へ出るな」


「明日は出ません」


「本当か」


「……たぶん」


「曖昧だな」


「薬棚の整理があります」


「それなら中でやれ」


 そこまで言ってから、彼は少しだけ視線を逸らした。


「お前には、中でできることも多い」


 その声音が少しだけ柔らかくなっていた。


 守ろうとしているのだと分かる。


 けれど同時に、自分の力を認めてもいる。


 だからこそ、リシェルは小さく息を吐いて言った。


「団長」


「何だ」


「私は、守られるだけの人にはなりません」


 アルヴェインの目がこちらへ戻る。


「でも、勝手に死ぬつもりもありません」


 そのまま言葉を継ぐ。


「だから……あなたのやり方も、少しは信じます。私も、自分のやり方ばかり通さないようにします」


 静かな沈黙が落ちた。


 ベルンでさえ、今度は口を挟まない。


 しばらくして、アルヴェインが低く言う。


「……少しだけ、だな」


 その返答が、妙に可笑しくて、リシェルは思わず小さく笑ってしまった。


「はい。少しだけです」


「欲張るな」


「団長もです」


 返しながら、目が合う。


 ほんの一瞬。


 けれどその一瞬に、いつもの押し問答とは違う温度があった。


 無愛想で、頑固で、自分の傷を平気で後回しにする男。けれど兵たちの命も、村の熱も、自分の擦り傷も、きちんと見ている男。


 そしてその男の近くにいることが、いつの間にかひどく自然になっている自分。


 そのことに気づいてしまい、胸が少しだけ苦しくなる。


 ベルンがまた咳払いした。


「話は済んだか」


「まだです」


 なぜかリシェルが先に答えていた。


 言ってから、自分で少しだけ驚く。


 まだです、とはどういう意味だろう。


 ベルンも珍しく眉を上げたが、アルヴェインのほうは、ほんのわずかに目を細めただけだった。


「なら続けろ」


 老人は諦めたように言い、器具を持って奥へ引っ込んだ。


 医務棟の一角に残るのは、暖炉の火と、まだ消えきらない互いの熱だけだ。


「さっきの木札のことですが」


 リシェルはようやく本題へ戻る。


「王都西側の工房印に似ていました」


「ああ」


「完全に同じかは分かりません。でも、王都の物資と繋がっている可能性は高いです」


「そうだろうな」


 アルヴェインは短く頷く。


「補給路の襲撃と、お前の断罪が、まったく別だとは思っていない」


 その言葉に、リシェルは息を止めた。


 やはり彼も、そこを繋げて見ている。


 だが今は、それ以上を掘る夜ではないのだろう。彼はすぐに続けた。


「ただ、まだ証拠が足りん」


「はい」


「焦るな」


「……分かっています」


 本当は、分かっているだけでは足りない気もしている。


 王都の影はもう、辺境の雪道にまで伸びてきているのだ。ならばこちらも急ぐべきではないか、と。


 けれどアルヴェインの声音には、不思議と人を落ち着かせる重さがある。


 焦るな。


 その一言だけで、今はまだ積み上げる時なのだと分かる。


「今夜は休め」


 また同じ言葉。


 だが今度は、命令だけではなく、少しだけ気遣いが混じって聞こえた。


「団長も、ですよ」


「俺は」


 いつものように言い返しかけて、彼は一瞬だけ黙る。


 そして、諦めたように小さく息を吐いた。


「……少しは休む」


 リシェルは目を丸くした。


「本当に?」


「お前は毎回それを確認するな」


「大事なので」


「面倒だ」


 そう言いながらも、声の響きはやけに柔らかかった。


 それを聞いて、胸の奥に小さな灯がともる。


 この人は、変わり始めているのかもしれない。


 少なくとも、自分の前では。


「では、約束です」


 リシェルが言うと、アルヴェインは少しだけ眉を寄せた。


「約束?」


「少し休むって言いました」


「……そうだな」


「私は擦り傷を温めます。団長はちゃんと横になります」


「子ども扱いするな」


「患者扱いです」


「誰が患者だ」


 またそこへ戻る。


 けれど今は、それすら少しだけ愛しい反復に思えた。


 アルヴェインは最後にもう一度だけリシェルの腕を見て、それから視線を上げた。


「次は、もっと上手く怒る」


 ぽつりと落ちたその言葉に、リシェルはきょとんとする。


「怒る?」


「今日のことだ」


 少しだけ視線を逸らしながら言う。


「お前を叱るつもりで、別の感情が先に出た」


 その不器用すぎる告白に、リシェルの頬が一気に熱くなった。


 怒りの裏に、別の感情。


 それが何か、言葉にしなくても分かってしまう。


「……そんなに、危なかったですか」


 小さく問うと、アルヴェインは即答した。


「危なかった」


 それは一切の誇張がない声だった。


「だから、勝手に死ぬな」


 またその言葉だ。


 でも今度は、命令ではなく、ほとんど願いのように聞こえる。


 リシェルは胸の前でそっと手を握った。


「……はい」


 それしか答えられなかった。


 けれど、その小さな返事だけで、何か大事な約束を交わしてしまった気がした。


 その夜、自室へ戻ったリシェルは、寝台に腰を下ろしてしばらく動けなかった。


 擦り傷はたしかに少し痛む。


 だが、それ以上に胸の奥が落ち着かなかった。


 近すぎた距離。慎重すぎる手。箱より先に自分を守れと言った声。別の感情が先に出た、と不器用に認めたひと言。


 思い出すだけで、頬が熱くなる。


 窓の外では雪がまだ静かに降っている。


 鍛錬場も、中庭も、今は白く沈んで見えた。


「……困る」


 小さく呟く。


 何に困っているのかは、自分でも分かっていた。


 あの人の言葉一つで、こんなにも心が揺れることに。


 けれど同時に、少しだけうれしいとも思ってしまう。


 辺境の冷たい夜の中で、自分を本気で怒り、本気で気にかける人がいる。


 その事実が、想像以上にあたたかかった。


 机の上の記録紙へ目をやる。


 本当なら、今日の襲撃と木札の印について整理して書くべきなのだろう。


 だが、今夜どうしても最初に書いてしまったのは、別の一行だった。


 「団長は怒っていた。けれど、たぶん怒りだけではなかった」


 書いてから、顔が少し熱くなる。


 こんなことを記録へ混ぜるべきではないと分かっている。けれど、それでも書かずにいられなかった。


 雪の砦の夜は長い。


 けれど今夜のリシェルにとって、その長さは少しだけ甘く、少しだけ苦いものになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ