第16話 “俺の視界から離れるな”
雪の朝は、音を吸い込む。
まだ陽が完全に上がりきる前、北西辺境補給砦の外へ出ると、世界は白と灰でできているように見えた。空は鈍く曇り、積もった雪は踏み固められた巡回路以外をなだらかな起伏に変えている。木々は枝先まで凍り、風は吹いているはずなのに、耳へ届くものはどこか遠い。
そんな朝に出る補給隊は、普段より静かだった。
囮だからだ。
それを全員が知っている。
荷台に積まれた木箱は一見するとごく普通の薬草箱だ。だが中身は、リシェルが夜通し考えて組んだ“本物に見える偽物”だった。樹脂の香りを強め、乾燥葉の重さを合わせ、箱を開けた瞬間に「狙う価値がある」と思わせる配置へ変えてある。逆に本当に失ってはいけない薬は別経路へ回し、今日の隊には積んでいない。
罠としては上出来だ。
だが、それはつまり、相手に“ここを襲えば得をする”と思わせるだけの完成度があるということでもある。
リシェルは馬車の脇に立ち、最後の箱の紐を確かめた。
「この箱だけ、わざと結び目を少し粗くしてあります」
低い声で言うと、荷台の反対側にいたガレスがうなずく。
「狙われやすくするためか」
「ええ。丁寧すぎると、逆に触る側が警戒します。少し雑なくらいのほうが“急ぎで積んだ本物”に見えるので」
副官は感心したような、呆れたような顔をした。
「王都の令嬢が考える罠とは思えんな」
「今は辺境の薬師です」
答えると、ガレスは鼻を鳴らした。
「そうだったな」
そのやり取りの少し向こうで、アルヴェインが馬具を確かめていた。
黒馬の首筋を撫で、雪除けの革を締め直し、鞍の位置を自分の手で確かめる。外套を羽織っていても、その動きが脇腹をわずかに庇っているのがリシェルには分かった。
やはり傷は完全ではない。
昨夜よりはましでも、治ってなどいない。
だから本当は止めたい。
けれど今日ばかりは、そう簡単に口にしてはいけない気もしていた。これは補給路を守るための仕事であり、彼はその中心に立つ人間だからだ。
そんな葛藤ごと見抜かれるような気がして、リシェルは視線を箱へ戻した。
「準備はいいか」
アルヴェインの声が落ちる。
それだけで、隊全体の空気が締まる。
人数は最小限に見せている。馬車一台、荷運び役二名、護衛らしく見える兵二名、そしてガレスとリシェル。だが実際には、少し遅れて別働きが森沿いに動き、さらに狭道の先にも伏せがある。
アルヴェインは馬に乗らず、最初は馬車の後ろを歩くつもりらしい。それが一番“いつもの補給隊”に近く見えるからだ。
「リシェル」
名を呼ばれ、顔を上げる。
青い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。
「言ったことを覚えているな」
「はい」
「繰り返せ」
思わず少しだけ目を瞬く。
だが彼が本気だと分かるから、素直に答えるしかない。
「……絶対に、団長の視界から離れません」
言い切ると、アルヴェインは一度だけうなずいた。
「それでいい」
ガレスが低くぼやく。
「毎度思うが、そこだけ妙に厳しいな」
「そこが一番大事だからだ」
アルヴェインは即答した。
リシェルの胸が、また少しだけうるさくなる。
命令だ。
護衛として当然の確認だ。
そう頭では分かっているのに、その言葉がこんなにも残るのはなぜなのだろう。
「行くぞ」
短い号令で、補給隊は砦を出た。
南側の中継路は、北の巡回路より一段いやらしい道だった。
広くはない。崖と林に挟まれ、馬車がすれ違うには少し狭く、雪が積もれば左右の境目も曖昧になる。補給路として使うには絶妙に不便で、だからこそ途中で手を入れられやすい。
馬車の車輪がぎしぎしと鳴る。
吐く息は白く、手袋の下の指先はじわじわと冷たくなっていく。リシェルは荷台の横につき、中身が崩れないよう時おり紐を直していた。トーマスは今日は連れてきていない。その代わり、補給兵に扮した若い兵が一人ついているが、実際には剣の腕が立つらしい。
それでも見た目は地味だ。
相手に油断させるため、そう作っている。
途中、アルヴェインが振り向かずに言った。
「寒いか」
突然だったので、リシェルは少しだけ慌てた。
「大丈夫です」
「答えになっていない」
「……寒いです」
「なら手を動かせ。止まると冷える」
素っ気ない。
だがその指示は的確で、実際に箱の紐を確かめたり、手袋越しに木箱の位置を直したりしていると、少しだけ指先の感覚が戻ってくる。
「団長は」
思わず口を開く。
「傷、痛みませんか」
ガレスが前方で「今それを聞くのか」という顔をした気配がしたが、アルヴェインは歩みを緩めなかった。
「痛まないわけではない」
珍しく、正直な返答だった。
リシェルは思わず顔を上げる。
「なら」
「だが、歩ける」
その先を切られてしまう。
それ以上言い募るべきではないと分かっていても、胸の奥に小さな苛立ちが残る。
この人は本当に、自分の痛みを後回しにしすぎる。
けれど今それを言い合っている場合ではない。
やがて道はさらに狭くなった。
右は低い林。左は雪を被った岩肌。前方には小さな曲がり角があり、その向こうは少し下りになっている。
リシェルは、無意識に息を止めた。
来るなら、この辺りだ。
箱を狙うなら、馬車を止めやすく、人目が少なく、逃げ道もある場所。
アルヴェインの歩調がほんのわずかに変わる。ガレスも何も言わないまま、手を下げた位置で動かしていた。
全員が感じている。
雪の静けさの奥に、別の気配がある。
その時だった。
前方の曲がり角の先で、突然、馬が高くいなないた。
ほぼ同時に、道脇の雪が爆ぜる。
「伏せろ!」
アルヴェインの声が鋭く飛んだ。
次の瞬間、短い矢が一本、馬車の荷台へ突き刺さる。
補給兵に扮した若い兵が即座に身を沈め、リシェルも反射的に荷台の影へ飛び込んだ。雪が頬を打つ。
左の林から、黒い影が三つ、四つ飛び出す。
盗賊にしては動きが揃っている。足元は軽く、雪を踏む位置も迷いがない。しかも最初に狙ったのは人ではなく、荷台の薬草箱だった。
「やっぱり……!」
リシェルが息を呑む。
本当に、箱を狙ってきた。
「来たな」
ガレスが低く吐き捨て、剣を抜いた。
同時に、林の奥から別働きの兵が飛び出し、左右から挟むように動く。だが相手もただの間抜けではなかった。最初の一人が箱へ飛びつき、二人目が護衛兵の足を止め、三人目は明らかにリシェルのほうを見た。
ぞくりと背筋が冷える。
薬草箱だけではない。
こっちも見ている。
相手は中身を見抜ける者がいると知っているのか、それとも単に動きの中心を狙っただけか。
判断するより先に、その男が雪を蹴った。
「っ」
リシェルは咄嗟に荷台の反対へ回ろうとする。
だが雪が深い。足が一瞬取られた。
その瞬間、低い怒声が飛ぶ。
「離れるな!」
アルヴェインだった。
黒い影が横から滑り込むように入る。銀の軌跡が走り、リシェルへ迫っていた男の短剣を弾き飛ばした。火花が散る。
アルヴェインはそのまま一歩踏み込み、相手の肩口へ剣を滑らせる。深くは斬らない。だが戦意を削ぐには十分な一撃だ。
男が雪へ崩れる。
リシェルは思わず息を呑んだ。
速い。
前にも見た。だが今回はもっと近い。自分を狙う刃と、それを断ち切る剣の間に、本当に紙一枚ほどの差しかなかった。
「後ろへ!」
アルヴェインの声。
リシェルは言われた通り荷台の影へ身を引く。だが、別の男がすでに箱へ手をかけていた。
「その箱!」
思わず叫ぶ。
男は箱を持ち上げかけたが、次の瞬間、ガレスが横から体当たりのようにぶつかり、二人まとめて雪へ転がった。
「誰が持っていくか!」
副官の怒声。
別働きの兵たちも一斉に詰める。
林の奥にいたもう一人が、形勢の不利を悟ったのか短い笛を鳴らした。
退く気だ。
アルヴェインもそれを察したらしい。雪を蹴って前へ出る。
その背を見た瞬間、リシェルの視界に一つ、黒いものが映った。
倒れた男の腰袋から覗いている、小さな木札だ。
焦げ茶の板に刻まれた印。その形に、妙な既視感がある。
王都近辺の工房印だ。
以前、フォルディア家へ納品される器具箱で見たものと似ている。
「団長!」
反射的に叫んでいた。
「それ、王都――」
言い終わる前に、最後の一人が雪煙を上げて逃げた。別働きが追う。ガレスは箱を守り切り、補給兵は腕を浅く切られた程度で済んでいる。
そしてアルヴェインは、雪へ倒れた男の腰袋からその木札を抜き取った。
青い目が細くなる。
「……工房印か」
低く言う。
リシェルは荷台の影から出た。
「見覚えがあります。王都の西側で使われる木工房の印に似ています」
「似ている、か」
「完全に同じかは分かりません。でも、辺境でよく見る印ではないと思います」
ガレスが剣を払って近づいてくる。
「生きている奴は一人だけだ。追った二人は逃がした」
「十分だ」
アルヴェインは木札を掌に収めた。
それからリシェルを見る。
その視線は先ほどまでの戦闘の熱をまだ残していた。冷たいのに、奥にむき出しの感情がある。
「勝手に動いたな」
叱責だった。
だがそれ以上に、怒りの色が濃い。
「……箱が」
「箱より先に自分を守れ」
「でも、箱を持っていかれたら」
「お前が怪我をするほうが困る」
即座に返ってきたその一言に、リシェルは一瞬だけ言葉を失った。
雪の中、吐く息が白く二人の間へ流れる。
アルヴェインはまだ怒っていた。けれど、その怒りは失敗した囮への苛立ちではない。自分が視界からこぼれかけたことへの、本気の怒りだった。
「……すみません」
ようやくそれだけ言うと、彼は一歩だけ近づいた。
距離が急に狭くなる。
「謝るな」
低い声。
「二度とするな」
その響きに、胸の奥が強く鳴った。
命令だ。
なのに、ほとんど懇願みたいに聞こえた。
アルヴェイン自身もそれに気づいたのか、次の瞬間にはわずかに視線を逸らし、声を冷やす。
「……囮は成功だ。だが次はない」
ガレスが横から口を挟む。
「団長、それはたぶん“次はもっと綺麗にやれ”じゃなくて、“もうやらせたくない”の顔だぞ」
「黙れ」
即答。
しかし図星なのか、副官の口元にはわずかに苦笑が浮かぶ。
リシェルはそれを見て、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
戦いの最中でなければ、もっと動揺していたかもしれない。
だが今は別のことを考えるべきだ。
「この木札、持ち帰って調べましょう」
そう言うと、アルヴェインは短くうなずいた。
「箱も開けられていないな」
「はい」
ガレスが確認する。
「狙いは明らかに薬草箱だ。食料にも酒にも触れていない」
つまり偶然ではない。
そして、王都系の工房印らしきものを持つ連中が、辺境の医療補給を狙っていた。
それはただの盗賊話では済まない。
雪道の襲撃は、王都と辺境を結ぶ別の線をはっきり浮かび上がらせていた。
砦へ戻る道は、行きよりも静かだった。
襲撃は成功していない。怪我も浅い。囮は役目を果たし、相手の一部も押さえた。
それだけ見れば上出来だ。
だが馬車の脇を歩くリシェルの胸は、まだ少し速く打っていた。
自分へ迫る短剣。
雪を裂いて割り込んだ黒い影。
そして、箱より先に自分を守れと言った声。
思い出すたび、呼吸が少しだけ乱れる。
アルヴェインはそれ以降、ほとんど喋らなかった。前を見たまま歩き、時おり周囲へ鋭い視線を走らせる。だが沈黙の理由は、襲撃警戒だけではないと何となく分かった。
彼も、まだ怒っているのだ。
いや、怒りだけではない。
自分でもどう扱えばいいか分からない感情を持て余している時の、あの静けさだった。
砦へ着き、門をくぐったところでようやくアルヴェインが立ち止まる。
「医務棟へ行け」
リシェルは思わず首を傾げた。
「私は怪我していません」
「確認する」
「でも」
「確認する」
有無を言わせない声音。
ガレスが横で小さく肩をすくめた。
「諦めろ。今の団長に逆らっても長くなるだけだ」
リシェルは少しだけ唇を引き結び、それでも素直に医務棟へ向かった。
ベルンがこちらを見るなり顔をしかめる。
「何だ、その面倒くさい空気は」
「襲撃がありました」
ガレスが木札を卓上へ放る。
「囮は成功。令嬢は無傷。だが団長が納得していない」
「なるほど。面倒だな」
ベルンは納得したように頷いた。
そしてリシェルの手首、肩、足首を順番に見たあと、淡々と言う。
「擦り傷だけだ。死なん」
「そうか」
アルヴェインの返事は短い。
だが、それでようやく彼の肩から少しだけ力が抜けたように見えた。
その瞬間、リシェルははっきりと悟る。
この人は本気で、自分が傷つくことを嫌がっている。
団長としての責任感だけでは説明できないくらいに。
その事実が胸に落ちた時、少しだけ息苦しいほどの熱が広がった。
その夜、木札の印を囲んで砦の小さな会議が開かれた。
アルヴェイン、ガレス、ベルン、そしてリシェル。
蝋燭の火の下で見る印は、やはり王都西側の工房群で使われるものに酷似していた。完全一致かは分からない。だが、辺境の野盗が偶然持つには不自然すぎる。
「王都から流れてきた人間か、王都と繋がっている人間か」
ガレスが低く言う。
「どちらにせよ、偶然ではないな」
ベルンが木札をつつく。
「薬草を狙う意味がある相手、か」
アルヴェインは黙ったままそれを見ていた。
青い目の奥で、何かを計算しているのが分かる。
リシェルは小さく息を吸った。
「……もしかすると」
三人の視線が向く。
「私の断罪と、完全に無関係ではないのかもしれません」
部屋が静まり返る。
「薬草補給を崩す動きと、王都の工房印。それに、私が辺境へ送られた時期。全部を今すぐ繋げるのは無理です。でも、偶然にしては重なりすぎています」
自分で口にしながら、背筋が少し冷える。
婚約破棄と悪役令嬢の断罪。
ただの恋愛のもつれではなく、もっと別の流れの中にあった可能性。
アルヴェインが、ようやく口を開いた。
「……その線は、俺も捨てていない」
低く、重い声だった。
リシェルはゆっくり顔を上げる。
彼もそう考えていたのだ。
ならば、やはりこの事件は、ただの補給路の襲撃では終わらない。
そして同時に、自分もまた、もう王都の事件の外側にはいないのだと思い知らされる。
アルヴェインは木札を手に取り、火へ透かすように見た。
「今日はここまでだ。続きは明日」
それで会議は終わった。
だが、何も終わってはいない。
むしろここから、本当に大きなものが動き始めるのだと、誰もが分かっていた。




