第十四話 その1 「暗赫の揺らぎ」
真っ赤に仄暗く光る屋内。
部屋の中のあらゆるものが、蜃気楼のようにゆらゆらと、怪しく揺らめいている。
その中の一つ、ずいぶんと腰の折れた影がぽつりと呟いた。
「成程、多少は動けるようだ」
枯れ枝と見まがうばかりの細い指をこすり合わせながら、影は嘲笑する。
影は右足をわずかに引きずりながら、部屋の奥へと歩み寄る。
「貴様の孫娘、なかなか侮れないようだぞ、ふふふ」
「……」
部屋の隅には、簡素な椅子と、それに座らされた老齢の女性の影。
女性はぐったりと椅子に凭れ掛かって、返事はない。時折苦しそうに呻く声だけが響いている。
それを見て、どうでも良さそうに指をこすり、くつくつと嘘くさく笑った。
逆側の扉が開いて、新たな男の影が入ってくる。
「玄朔」
「……なんだ?」
入り口から漏れる光で、二人の顔がぼんやり浮かび上がる。
腰の折れたほうは、この世のすべてに興味がなさそうな、虚無を塗り固めたような男だった。
目は濁り切って、頬は痩せこけ、だが持つ雰囲気は薄氷よりも鋭い。
もう一人入ってきたほうは、皐月に首を斬られた藁人形と同じ顔をしていた。
「上空に部隊が幽閉された。解放しようにも呪いが弾かれて困っている」
「知っている。些事だ。どうでもよい。」
「……集めた氏族の大半だぞ」
「貴様が集めた、な。全体にして見れば只の雑兵ではないか」
藁人形と同じ顔の男——國木田 耀は、淡々と告げられた言葉にぐっと歯を食いしばる。
「……只の雑兵、か」
「違うと言うなら、証明してみよ。張を得意とする貴様の一族が、わざわざ地の利まで整え兵を並べ、煙を張り囲いを作った。そこまでして尚、入口を抜かれたのだ。であれば、雑兵と断じて何の不都合がある?」
玄朔と呼ばれた男は肩を竦めるでもなく、ただ事実だけを並べるように言った。
その声音には侮蔑すらない。
耀は室内へ入る。長い影が床の赤い揺らめきに溶け、靴音だけが妙に響いた。
「……少々想定外が重なった。上凪 依月、あの娘が煙の一切をものともせず正面から破壊してきたこと。兵をまとめて無力化され、手足を一気に失ったこと。——上凪 皐月を落とせば余裕だという予測ではなかったか?」
「否。正面戦闘がまったく得意でない貴様の軍勢が煙を抜かれた時点で、見え透いた結果だろう」
「だが、朝伏が敗れたのは? 曲がりなりにも巫参色の使い手だぞ」
「知性のない獣と思えば大した戦力ではないだろう」
「はぁ……とにかく、上凪 依月の莫迦げた力だけが、予定をとことん狂わせたのだ」
「予定とは、破綻するためにある。貴様はまだ、そうした揺らぎを想定外と呼ぶ段にいるのか?」
耀は返さない。
代わりに、部屋の隅にいる老女へと一瞥をくれた。
囚われた女、上凪 弥美。椅子に縛られて、ぐったりと座ったまま動かない。
胸はかすかに上下し、呼吸もある。時折、喉の奥から細い呻きが漏れていた。
「まだ保つのか」
「瀬戸際で保たせている」
「……上凪を引き寄せる餌ではないのか?」
「半分はな」
玄朔は弥美の背後に回ると、その頭上に手をかざした。
細い指の影が、赤い光の中でひどく長く見える。
「この女は器としては上等だ。血も、縁も、学も、それなりに積んでいる。凡庸ではあるが、凡庸であるがゆえに歪ませやすい」
「お前の言う器は、いつも壊れやすい」
「壊すために使うのだから当然であろう」
さらりと返され、耀は僅かに眉をひそめた。
弥美の首筋に、薄く墨を塗ったような線が見える。
それは皮膚の上にあるのではなく、もっと内側、肉と皮の間に滲んでいるような、不気味な線だった。
線は脈を打つたびに揺れ、深いところへと沈んでいく。
「水墨が来れば、剥がされるぞ」
「好きに剥がさせればよい。表を剥がして得意げになるのが解派の悪癖だ。深いところに何が置いてあるか、連中は最後まで気づけまいよ」
玄朔は弥美の耳元で、何かを囁く。
言葉は聞こえない。
その直後、弥美の指先がぴくりと痙攣した。
耀は目を細めた。
「……そこまで仕込んだのか」
「仕込んだ、ではない。呼び水を落としたに過ぎん。もともと在ったものを、こちら側へ少し傾けただけよ」
「それを世間では仕込んだと言うのだ」
「世間など知らぬ」
玄朔は口の端だけを持ち上げた。
笑っているのかどうかも曖昧な、乾いた表情だった。
「なにしろこの一般人の女は、上凪の内に長くいた。見て、聞いて、学んできた。己で意識せぬまま、地層のように積もったものもある。器として使うにあたり、これほど都合のよい老人も珍しい」
耀はそこでようやく、部屋の中央付近へと歩み寄った。
足元には円と線がいくつも描かれている。床板の上から刻まれたそれは、ただの陣ではない。いくつもの派閥の呪が繋ぎ直され、書き換えられ、何か一つの大きな形に纏められている途中だった。
張派の設置。
巻派の増幅。
繋派の接続。
結派の平定。
そしてその中心に、弥美が置かれている。
陣の作りを見て、耀は玄朔の狙いを悟り、軽く目を見開いた。
「それで万が一を対処するつもりか」
「左様」
「こんなもの、上手くいくのか……?」
「失敗して死んでも、それはそれでどうでもよい」
運命主義の刹那的思考、破滅的思考。耀もその範疇にいるはずなのに、玄朔のそれには遠く及ばない。
納得とともに軽く呆れた耀はひとつため息をつき、話題を逸らした。
「延次郎は?」
「外で最終確認だ。狂った朝伏どもを上凪 依月のもとへと送りつけたのち、影に潜んでおる。家延も天歩も配置についた。鷲尾は相変わらず趣味の悪い上乗せをしておる。あれは気色が悪い」
「お前に言われたくはないだろうな」
耀は吐き捨てるように言いながら、部屋の壁際に立てかけられた藁人形を見た。
何体もあり、すべて顔がない。
だが、そのうち一体だけは首元に青い切り傷が残っていた。
先ほど皐月に斬られたものと同じ太刀筋だ。
玄朔もそれに目を向ける。
「上凪 皐月は思った以上に鋭い。だが、鋭い者ほど折れやすい」
「返呪で沈めたつもりだが、兵が一行を見失っている。復帰の可能性は高いぞ」
「知っている。だからこそ面白い」
耀は無言で玄朔を見る。
玄朔はまた指をこすり合わせた。
「上凪 秦月は潰えた。上凪 皐月は折り目をつけた。上凪 依月はまだ未熟。朝伏どもは消耗し、使い潰せる。……描いた図面からはズレたが、盤面としては悪くない」
「上凪 依月が未熟、ね……」
耀は低く呟いた。
その脳裏には、上空の煙ごと大地を殴り抜いた白い少女の姿がある。
「侮ると喰われるぞ」
「侮ってはおらぬ。人の愚かさを期待しているのだ」
玄朔は椅子に凭れた弥美の顎を指先で持ち上げた。
焦点の合わないまぶたが半ば開き、濁った瞳が虚空を映す。
「この女を見れば、あの娘は必ず揺れる。祖父母を傷つけられ、姉を傷つけられ、それでも尚真っ直ぐでいられるほど、強くはできておらぬ。……修復などと、大層な名を背負わされておるが、所詮は何も知らぬ只の子どもよ」
「修復。莫迦莫迦しい響きだ」
「世界がそう呼んでいるだけだ。私には、よく壊れる子にしか見えぬがな」
その時。
弥美の唇が、かすかに動いた。
「……い、つ……」
あまりにも弱い声。
呼んだのは、孫娘の名だったのか。それともただの息漏れだったのか。
どちらともつかない音を聞いて、耀は目を細める。
玄朔はその顔を覗き込み、ひどく優しい手つきで老女の額を撫でた。
その手つきだけを見れば、まるで介抱しているようにすら見える。
「安心せよ。すぐ会える」
言葉の中身に、慈悲は一欠片もなかった。
外で、何かが遠く崩れるような音がした。
続いて、地響きのような振動。建物がわずかに軋む。
耀が扉のほうへ顔を向ける。
「……また派手にやったな」
「上凪 依月か?」
「おそらく」
「結構」
玄朔は即答した。
「入口側が騒がしいほど、こちらの静けさは価値を増す。——上空の兵は捨て置け。どうせ向こうは向こうで、まだひと山ある」
「朝伏の連中か」
「うむ。あれらは繋ぎとしては丁度よい。潰せば儲けもの、潰されてもどうでもよい。どちらに転んでも、上凪の足は鈍る。そうだな……敢えて、あの呪い以外を解くのも面白そうだ。切派に連絡しておこう」
耀はしばし黙り込む。
やがてこの後の展開を思い至り、ひとつ鼻で笑った。
「ひどい話だ」
「どうせ終わる運命だ。ひとつやふたつ、今更よ」
玄朔は弥美の背後に立ったまま、扉の方角を見もしない。
「さて。貴様は戻れ、耀」
「命令か?」
「どうせ兵を失って暇なのだろう? 貴様は司家の連中に合流せよ。私は、『これ』を深める」
耀は数秒だけ玄朔を見据え、それから踵を返した。
扉へ向かいかけて、ふと立ち止まる。
「玄朔」
「まだ何かあるか」
「この女を壊しすぎるな。形だけ残してでは、人質の意味が薄い」
「心得ているとも」
耀の派閥が弥美を攫った実行犯であるがゆえに。
彼は「想定外」を嫌う。
だが、耀はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
赤い暗がりの中、玄朔と弥美だけが残された。
玄朔はゆっくりと腰を屈め、弥美の耳元へまた顔を寄せる。
「さあ、もう少しだ。お前の家のことを、もっと思い出せ。古い言い伝えを、古い力を、古い名を。奥へ沈んだものを、私へ引き出せ」
応えるように、弥美の指がまた微かに震えた。
床に描かれた陣が、じわりと深い赤に沈む。
部屋の中のあらゆるものが、蜃気楼のようにゆらゆらと、怪しく揺らめいた。
そして、椅子に座らされた老女の足元にだけ。
誰も立っていないはずなのに、もう一つ、薄い影が重なって見えた。




