8-6 推しと私(1)
ルトアシアは、その大きな瞳が溶けてしまうのではないかというほど、ボロボロと大粒の涙をこぼし続けた。先ほどまでの緊迫感はすっかり消え去り、静まり返ったホールにはルトアシアが何度も謝り、しゃくりあげる音だけが響いていた。
「ごめんなさい。みんな、ごめんなさい……。私、やっぱりだめだったわ」
ルトアシアはグレーヴから目を逸らさずに、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「私、全部覚えているの。アスコットとグレーヴ様が来てくれたこと。タチアナが止めに来てくれたこと。全部……。こうなってしまったのも、全部私のせいだわ」
「そうなのか……」
グレーヴはその言葉に同情を覚えた。あれだけ激しく暴れ、物を破壊し、人を傷つけた……。その事実を覚えているとしたらどれほどの罪悪感に襲われるのだろうか。グレーヴは筋違いとは思いながらも、慰めの言葉を口にした。
「君だけのせいじゃないだろう」
「いいえ、私のせいよ。私のせいでみんな傷ついたわ」
だがグレーヴの言葉はあっけなく否定されてしまった。
「あ、はは。そうか……。あー、うん……それで、他には?」
もしここで目を逸らしていたら、グレーヴはルトアシアの瞳が幼い子どものように所在なさげに揺れていることに気づけなかっただろう。さらに先に繋がる言葉を促したグレーヴに、ルトアシアは初めて顔を歪め、堰を切ったように語り出した。
「私、魔力の扱いも下手で、いつも制御できなくて迷惑を――っ、そうだわ! あの方、フレッドさんにもひどい火傷を負わせてしまって……。それにさっきも、私吹き飛ばしてしまったわ。きっとひどく怪我をしているはずよ……」
「あいつは自業自得だろ……。君だっていやな思いをさせられたじゃないか?」
「でも、やりすぎだわ……!」
ルトアシアはフレッドにしてしまったことを思い出したのだろうか、両手で顔を覆い、頭を下げてしまった。
(もうそれ以上触れるなってことか……)
グレーヴはそのルトアシアの反応に納得がいかず、思わず眉をひそめた。グレーヴの胸の中に沸き上がった感情、それは“無力感”だ。
(そうだよな。結局俺が何と言おうと、彼女のしたことは変わらない。これ以上触れるなと言われたら、もう引いた方が彼女のためだ)
グレーヴはそれまで触れていたルトアシアの黒髪から手を離そうとした。しかし押し留めたのは、いまだ鼻孔に残る甘い花の香りだった。
(待てグレーヴ。俺がここで止めたら、彼女はどうなるんだ? また俺は『彼女のため』と言いながら、自分が傷つくことから逃げようとしているんじゃないか? 彼女ならこんな時、どうした? アスコット君なら、タチ……あの子なら? 団長なら、マスターなら、ソーマなら……)
グレーヴは離しかけた手を止めた。幸いにもルトアシアにグレーヴの逡巡が気づかれることはなく、グレーヴは深呼吸を一つして、再び口を開いた。
「……君が、そう思っているんだとしたら俺はそれでいいよ。あと、他には? ルティちゃんが傷つけた『みんな』って、他には誰がいるの」
「え、他って……」
グレーヴの問いかけに、ルトアシアは顔を抑える手の力を緩めた。驚いたように上げた声は、グレーヴが再び声をかけてくるのが意外だと言わんばかりの反応だった。
「他、他は……お父様。それにお姉様方にお兄様も。城のみんなもよ」
両手の隙間からルトアシアの声が漏れ出すように聞こえた。
「城? まあいいか。で、それはどうして?」
「みんな私を『かわいそう』って思っているのよ。だから皆私の我儘を許してくれるの。でも『かわいそう』なのは皆の方だわ! 私が生まれたせいでお母様が失われてしまったんですもの!」
再びルトアシアはグレーヴの前に顔を晒した。先ほどまで幼子のように不安げに揺れていた瞳に浮かぶのは、今は「怒り」だった。
「私がいなかったら誰も悲しむことはなかったのよ。みんなにつらい思いをさせてしまった、私なんか――」
「つらい思いをしているのは君の家族もそうだろうけど、君だって同じだと思うけど? 誰が一番つらいかなんて、競うものじゃないと思う。それともルティちゃんは一番つらいのが誰かを決めたいの?」
「え?」
紅い瞳に浮かんでいた“怒り”は、グレーヴの質問に霧散し、ルトアシアは瞬く間に愕然とした表情に変わった。それはまるで、自らが万能ではないと気づいた子どものようだった。
「そ、そうじゃないわ! ア、アスコットだって、私に頼られる人じゃないといけないじゃない! タチアナもそうだわ。私が弱いから、二人は強くなければいけないの。二人に強くあることを求めていたのは私なのよ」
「それはあの子たちが選んだことだよ。少なくともこの二人は君のことが大好きなんだろうね。必死に君を守ろうとしていたんだ。たとえそれが迷惑だったとしたら、君は彼らにどうして欲しかったの?」
「それは……」
慌てたようなルトアシアは、今度はアスコットとタチアナの話題を出した。しかしまたグレーヴの回答に言葉を詰まらせ、目を泳がせる結果となってしまった。
悔しそうに唇を噛むルトアシアの涙はすっかり止まっていた。答えを探すように揺れていたルトアシアの瞳はやがてゆっくりとグレーヴに向けられ、ルトアシアは言いにくそうに口を開いた。
「グレーヴ様にも……。私はファンの一人として、舞台に立ち続けてほしい、演じ続けてほしいって願ってしまったわ」
「それは俺がそうありたいと思っていたんだ。それを応援してくれたことは感謝しているよ、ありがとう」
きっぱりと答えたグレーヴに、ルトアシアは今度こそ打ちのめされたような表情を浮かべた――まるで唯一信じていた友人に裏切られた少女のように……。
(ルティちゃん……。俺も、君も、強くなりたいなら、これからのために今できることをしないといけない。今、俺たちに必要なのは……)
グレーヴは自分の背中に流れる一筋の汗を感じつつ、怯える自らの心を奮い立たせながらルトアシアの瞳の中に浮かぶ自分を見つめた。




