8-4 推しは絶望する
タクス家の屋敷の中心は大きく吹き抜けになっている。
鈍い衝撃音の後、タチアナと黒猫の姿は廊下の手すりを乗り越え、宙に舞い躍っていた。
「――う、うわああああ! 逃げろ!」
吹き抜けの真下、エントランスホールで叫び声を上げたのは、アスコットやグレーヴと共にタクス家を訪れていた魔術管理官たちだった。黒猫の姿に怯え隠れていたまでは良かったが、その後の挙動を決めかねていたらしい。
だが再び頭上に現れた怪物の姿に皆、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「退いてなかったなんて、マーサの教育不足だ……。あとで言っておかなきゃ……」
階下を覗き込み、ため息交じりにアスコットは呟いた。しかしその声にいつものような覇気はない。唇は乾き、頬にへばりついた髪を払う余裕もないらしい。
(アスコット君、限界なんじゃ……)
グレーヴはアスコットに声をかけようと口を開こうとした。しかし、開いた唇からは何の言葉も出て来なかった。アスコットにかける言葉が見つからなかったのだ。
(俺が何を言ったところでこの子たちの役には立てない。俺はなんでここに居るんだ、何のために……)
上げかけた手を下ろし、グレーヴはアスコットの視線を追った。その先には激しく争うタチアナと黒猫の姿が見えた。
大人程の大きさを持つ黒猫の力はすさまじかった。黒猫の動きに合わせて起こる風は、子どもの頭ほどあるがれきを何個も吹き飛ばす。黒猫の前足から繰り出される打撃は当たるもの全てを砕いていく。
圧倒的な力の差だった。グレーヴは黒猫の繰り出す前足に当たった自分の姿を想像し、血の気が引いた。
しかし、実際に黒猫の相手をしているタチアナは違ったようだ。
「はぁ……お姉様、素敵ですわ。タチアナはお姉様に真正面からぶつかって来て頂きたかったのですよ」
うっとりと頬を赤らめながら、黒猫からの攻撃を受け流している。その度に黒猫は壁や床に激突し、徐々に動きが鈍っているように見えた。
「このように本気で手合わせできる日を、タチアナは待ち望んでおりました。私が苦しい“修行”に耐えてきたのも、お姉様と拳を交える日を楽しみにしていたからなのです。私が生きているうちにこの日がやってきて、もう天にも昇る心地ですわ」
「グオオオッッ!!」
受け流され続けていることに苛立っているのか、黒猫が毛を逆立てて激しい雄叫びを上げた。その直後、あっという間にタチアナとの距離を詰めた黒猫は脇腹を狙い、太い腕を薙ぎ払った。だがタチアナはその腕に手をつき、ひらりと腕を飛び越えるように身をかわした――かのように見えた。
黒猫はタチアナがその一撃をかわすことがわかっていたかのように、長い尾で宙に浮いたタチアナの身体を叩き落とした。
「――くっ!」
「――タチアナっ!」
ぽっかりと空いた吹き抜けから身を乗り出すように声をあげたアスコットの声に、タチアナは床に手を着きすぐに身体を起こした。
「アスコットさま……っ、私は大丈夫です。強化に集中してくださいませ!」
「良かった……。あはは……やっぱりルティは強いな。あ、そうだ今度みんなで舞台を見に行こうか。僕が術をかけてあげるよ。そうすれば何回見に行っても気づかれないだろ?」
突然、脈絡のない話を始めたアスコットにグレーヴは思わず息を呑んだ。
「……アスコット、君?」
グレーヴの呼びかけに、ハッと顔を上げたアスコットの足元にぽたり、と雫が落ちた。
「あれ……?」
汗とは異なる重みの雫だった。
つうっ、と流れ落ちる感覚にアスコットが思わず手を出すと、そこに深紅の雫がしたたり落ちた。
「限界、かも……」
小さく呟いたアスコットの身体は糸を失った人形のように力を失くした。階下にタチアナと黒猫を見下ろし、うつろな瞳をしたアスコットは吹き抜けに投げ出されていった。
「アスコット様っ!?」
「だめだっ!!」
タチアナの悲鳴とグレーヴの叫び声は同時だった。地を蹴ったグレーヴは自らも宙に飛び出し、アスコットの身体を必死に抱きよせた。
「私が受け止めますっ!」
だが、宙に身を投げ出した二人の姿に気を取られていたタチアナは、忍び寄る黒猫の気配に気づくのが遅れてしまった。
「グオォッ!!」
「――っ?!」
横から激しい打撃を受けたタチアナの華奢な身体は、あっという間に反対側の壁に叩きつけられた。
「……か、はっ」
肺の中の空気が意に反して押し出され、視界が真っ赤に染まる。
地面に落ちる身体を支えることも出来ず、タチアナはそのまま床に崩れ落ちた。
「アス……コット、さま……」
辛うじて動く腕を懸命に伸ばしたものの、タチアナの意識は闇に吸い込まれていった。
吹き抜けに飛び出したグレーヴとアスコットの身体は、当然のように落下を始めた。みるみる近くなるがれきだらけの床にグレーヴは気を失ったアスコットの身体をきつく抱きしめた。
(――せめてこの子は!)
ぎゅっと固く目を閉じ来るべき衝撃に耐えていたグレーヴだが、その衝撃はいつまでたってもやって来なかった。
(落ち、たはずだよな……?)
恐る恐る目を開けたグレーヴは、自分たちの姿に目を疑った。目の前には地面が手の届く距離に存在している。しかし自分たちと地面との間には、クッションのように空気が存在しているのだ。
「う、浮いてる……っ?」
まるで大きなシャボンの泡に包まれているように、グレーヴとアスコットの身体は丸い膜に囲まれて宙に浮いている。
そのままゆっくりと降下しグレーヴの足が地に着くと、自分たちを包んでいた膜はパチンと消えてしまった。
ふとその時、グレーヴはシャツの胸ポケットが温かい事に気づいた。
「こ、れは……」
アスコットを床に寝かせ、ポケットの中からグレーヴが取り出したのは一枚のチーフだった。上質な生地で作られたチーフ――これは以前“黒猫”が手紙と共に贈ってくれたものだ。ルトアシアが密かに付与していた防御の力が働き、二人を落下の衝撃から守っていた。
「守って、くれたのか? 君が……」
徐々に温もりを失っていくチーフを手に、グレーヴは呆然とその場に座り込んでしまった。
ヒタリ、ヒタリ……と獣の近づく気配がする。明らかに自分に向けられている黒猫の視線にもグレーヴは顔を上げず、独り、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……ごめん。俺、いつも情けなくて」
ゆっくりと顔を上げ、辺りを見回す。
血の気の無い真っ白な顔をして横たわっているアスコット。
自身の危険も顧みず、二人を助けようと手を伸ばしたまま倒れ込んだタチアナ。
そして……。
「俺は、誰を助けることも、守ることも出来ない男なんだ」
グレーヴは手の中のチーフを握りしめ、さらに上に視線を上げた。
そこには深紅の瞳がジッとこちらを見据えていた。鋭い瞳の中には、役者として輝いていたはずの自分が情けなく座り込んだまま、ボロボロの姿で映っている。
「俺は、俺自身ですら守れない弱い男なんだ。そんな俺は、君を救いたいなんて思ったらだめだったんだ……」
そう言って首を垂れたグレーヴの前で、黒猫の尾はまるで相槌を打つかのように、したっ、と床を打った。




