7-2 推しは転がされる
固い床の感触が頬に当たる。グレーヴは後手に縛られ、身動きが取れないまま床に転がされていた。フレッドに殴られ熱を持つ頬に床の冷たさが心地よかった。
広場での騒動は、あの後すぐに駆け付けた劇団員たちによって「大道芸」だったと説明された。野次馬が次々と去って行く中、グレーヴはフレッドと共に劇場に運ばれたのだった。
(彼女は戻ってこなかった……。無事にマスターとソーマの所にたどり着ければ、二人が上手い事やってくれるはずだ。彼女の足が速くて良かった……)
ふと思い出してしまったルトアシアの足の速さにグレーヴは小さく笑った。
「あら、思い出し笑いなんかして。わりと余裕あるのね」
それまで床しかなかったグレーヴの視界に細い爪先が現れた。
「レナータ……」
グレーヴは視線を持ち上げ、自分を見下ろす人物の表情を窺った。
グレーヴの前に立つレナータは、相変わらずきれいに手入れされたピンクブロンドの髪を揺らし、口元だけに笑みを湛えグレーヴを見下ろしていた。
「まさかあなたがここまであの子に入れ込むとは思ってなかった。この嘘つき」
「――うっ」
レナータは自ら庇う術のないグレーヴの腹を思い切り蹴り上げた。細い靴の爪先が鋭く突き刺さるような痛みを伝える。苦痛に呻き声をあげ、グレーヴは身を縮めた。
「その口で私が一番だと言ったでしょ? 忘れたの?」
レナータはグレーヴの側にしゃがみ、群青色の前髪を掴み上げた。そして苦痛に顔を歪めるグレーヴを、その深い青色の瞳でのぞき込んだ。
「それとももうここがどうなっても良いってこと? 私のお金が必要なんじゃなかったの?」
「……それは、俺が間違っていた。もうここは、俺の居場所じゃなかったんだ。だけど俺は君を利用していた。ごめん、レナータ」
グレーヴはそう言って目を伏せた。
「ごめん、って……何それ」
「ごめん……」
謝罪を繰り返すグレーヴは目を伏せたままだった。グレーヴの髪を掴んだままのレナータの手に力がこめられていった。
「何よそれ! ……は、あは、あはははっ! いやだ、あんたよっぽどあの子に惚れてるのね! 馬鹿馬鹿しいっ!」
「ぐ……っ」
レナータは思い切りグレーヴの頭を床に叩きつけた。声にならない呻きがグレーヴの唇から漏れる。
「何が『ごめん』よ! 私は謝られるようなこと何もされてないわよ! 『利用してた』? 馬鹿な事言わないで。私は誰かに利用されるような馬鹿な女じゃないわ。逆よ、使ってやってたんじゃない!」
レナータの握りしめられた拳はブルブルと激しく震えた。
グレーヴの謝罪によって、利用し利用される関係を解消されてしまえば、グレーヴの中にレナータの入る余地はなくなってしまう。レナータの怒りはグレーヴの中から自分が消えてしまうことへの無意識の恐怖だった。
怒りに震えるレナータだったが、ふと思い出したように口を開いた。
「……そうだ。ねえ、グレーヴ。あの子どこにいるか、あなた知ってる?」
「どこにいるか……?」
床に横たえたままの頭をそのままにグレーヴが目だけでレナータを見ると、そこには先ほどまで怒りに震えていた人物とは思えないほど、朗らかな笑顔を浮かべた劇団の看板女優の姿があった。
「私の家よ」
グレーヴはその一言をなかなか理解することが出来なかった。
「家……? 誰の……」
「私の家に決まってるじゃない。酒場にお邪魔したんだけど上手くいかなくて。でも、最終的にはヘイルさんが連れてきてくれたからご招待したの」
(そんな、酒場にまで……。ソーマは、マスターは無事なのか? それに団長がどうして……)
レナータの発言をグレーヴが整理する間もなく、さらに重ねられた言葉にグレーヴは思わず声を上げた。
「フレッドがどうしてもお礼をしたいと言っていてね。どうやらあの子も相当気に入っているみたいよ。あなたより年も近いし、よっぽどお似合いだと思うけど」
「どうしてっ、どうしてあの子にそこまでこだわるんだ?」
声を荒げたグレーヴに、レナータは顔をしかめた。
「大きな声ださないでよ。どうして、ですって? そんなの簡単でしょ」
再びしゃがみ込んだレナータはグレーヴを真上からのぞき込み、ゆったりと歌うように言葉を紡いでいった。
「いい? 私はお金なんて何でもいいのよ。あなたの中に私を一番にしていて欲しいだけなの。わかる? あなたの中の一番はあの子じゃない」
そう、グレーヴの中にはレナータを一番の存在にしておくべきなのだ。レナータは心だけが欲しかっただけなのに、グレーヴはついに理解しなかった。
「全部グレーヴのせいよ。グレーヴがあの子を見ているから悪いのよ。どうしてそれがわからないの?」
「お、俺は……」
グレーヴを覗き込む深い青色の瞳に、思考が拡散していく。歌うようなレナータの声が頭の中に浸み込んでいく。
――その時だ、
バァーーンっ!!
劇場中を揺るがすような爆音が響いた。
「きゃあああっ!!」
悲鳴を上げ頭を抱えて丸くなるレナータの上に、一つの声が降って来た。
「お取込み中失礼しますね」
いつの間にか開け放たれた部屋の扉の向こうに、一人の青年の姿があった。肩口で切りそろえられた栗色の髪を揺らし、知性に溢れたヘーゼル色の瞳は涼やかに辺りを見回していた。
「アスコット……君?」
自分の名を呟いた声に導かれるように、アスコットの視線は床に転がるグレーヴに引き寄せられた。そこに手足を縛られ身動きの取れないグレーヴを見つけると、アスコットの目はみるみる丸くなっていった。
「は? なんであなたがいるんですか。ルティは?」
矢継ぎ早に問いかけながら、つかつかとグレーヴに歩み寄ったアスコットを、側に座り込んでいたレナータが化け物でも見るような目で見上げた。
「あんた誰よ!? なんで入って来れるの! 誰も入れないようにって言ってたはずなのに!」
喚きたてるレナータの剣幕にも動じず、アスコットはにこやかに挨拶を口にした。
「……ああ、そうか。はじめまして。僕はアスコット・ウィギンズ。あなたがレナータさんですね」
「ウィギンズ、って……」
アスコットの名を聞き、レナータは何かに気づいたような顔をした。その様子にアスコットはさらに笑みを濃くした。
「そう、その『ウィギンズ』ですよ。というか、僕の顔を知らないくせに上流気取りなんて、これまで恥ずかしい思いをしてきませんでした? ふふっ……」
あからさまな嘲笑にレナータの顔が真っ赤になった。アスコットの言うことは確かに正しかった。身分制度の存在しないこの国だが「家格」というものは存在する。アスコットの家やタチアナの家は「上流」に位置するが、レナータの実家であるタクス家のような商家は「成り上がり」として同等に見られないことが多い。
レナータがこれまでずっと劣等感を覚えて来た部分に、アスコットは無遠慮に踏み込んだのだ。
「な、何なのよっ! ――ねぇっ誰か、誰か来てっ!」
屈辱感に顔を真っ赤にしながら、レナータは叫んだ。廊下を走る足音が段々と近づいてくる。
しかしアスコットはレナータの態度に全く興味が無いように、宙に指を立て、まるで蜘蛛の糸でも絡め取るかのようにゆらゆらと動かしていた。グレーヴもレナータも言葉を奪われたように、アスコットのその動きをぼうっと見つめてしまっていた。
無言のまま煙たげな顔で自分の指の先を見つめていたアスコットだが、やがてレナータに声をかけた。
「ねえ、ところで君の周りに漂ってるこの魔力、いったい誰のもの?」
そう語るアスコットの指先を良く見れば、陽炎のように空気がそこだけ揺らめいていた。アスコットは自分の指先を見ながら、さらに眉間にしわを寄せて吐き捨てるように言った。
「残滓が集まってるだけじゃないか……うわ気持ち悪。これじゃルティとの相性最悪なのもわかるよ」
そしてアスコットはそのまま指先を大きく振り払った。先ほどまで陽炎のように揺らめいていた空気は消え去り、グレーヴには室内の空気が心なしか透明になったように感じられた。
(あれ、そういえば……)
同時に先ほどまで靄がかかったようだったグレーヴの頭の中も、はっきりと思考の輪郭を捉えられるようになっていた。
アスコットは未だ座り込んだままのレナータの前に進み出ると、何の感情もこもっていない目を向け、吐き捨てるように言い放った。
「さあ、ようやく僕の番だ。泣いて謝ってももう手遅れだからな」




