3-5 推しとの距離、三歩
偶然――まあつまり、ざっくり言うと予期せず何かしら起こるということである。
「あっ……」
「おっ、と……」
それは爽やかな朝だった。
東西に広がる住宅街を繋ぐ道は仕事に向かう人々でごった返している。
居候中であるウィギンズ家の屋敷を出たルトアシアは偶然見かけた人物の背中に、思わず声を上げてしまったのだ。そしてものの見事にその人物もルトアシアの声に気づき振り向いた。
その人物というのはルトアシアが推して止まない存在、グレーヴである。
「……おはようございます」
「うん。おはよ、ルティちゃん。偶然だね。というか、よく俺を見つけたね」
「え、ええ、まあ……」
返事を濁したものの、それはルトアシアが観劇習慣で身につけた特技といっても過言ではない。
(舞台上に出てきたグレーヴ様がどこにいるのか一瞬で見つけられるようになったのに、その技が裏目に出たわ。声を上げなければグレーヴ様に気づかれることもなかったのに……! あぁ、でも朝イチのグレーヴ様は健康に効くわ。今日も一日頑張りますありがとうございます)
「ルティちゃんは、こっちの方に住んでいるんだね」
脳内でグレーヴに手を合わせていたルトアシアに、少し先を行っていたグレーヴが振り返って声をかけた。
「そ、うですね。こちらの方です。……えーっと、もう少し向こうの方です」
正直に答えかけたルトアシアは慌てて誤魔化した。
(そうだわ。危ないところだった。私がアスコットの屋敷から出てくるのを見られなくて良かった!)
さすがにアスコットの生家であるウィギンズ家はこの辺では有名な屋敷だ。その屋敷から出てきたところを見られたら、どんな勘違いをされてしまうかわからない。
(ん、勘違い? ……というか、駄目じゃないルトアシア! 自分から積極的に関わらないって団長様に宣言したばかりよ)
そういえばルトアシアは劇団トロピカの団長、ヘイルにきっぱりと宣言したばかりだった。それに偶然とはいえグレーヴと話しているところを誰かに見られ、レナータの耳にでも入ろうものなら、また大荒れするに違いない。
ルトアシアはスススっとグレーヴから距離を取った。それを見たグレーヴは苦笑いを浮かべ、足を止めた。
「もう少し近づかないと声が聞こえないんだけど」
「私、劇団の皆さまとは関わり合いになりたくないので。出来れば私のことは空気とでも思ってくださいませ」
ルトアシアの答えを聞いたグレーヴは一瞬怪訝な顔をした後、何かに気づいたようにまた困ったような笑みを浮かべた。
(ああっ、そうだけどそうじゃないんです! グレーヴ様の空気になれるのならそれ以上の望みはないのですが、決してグレーヴ様を邪険に扱おうとかそういうつもりはないのです。ごめんなさいグレーヴ様)
「……ああ、そういうことか。ごめんね」
ルトアシアの脳内謝罪は当然伝わる訳はなく、逆にグレーヴがルトアシアに謝罪の言葉を告げた。
「レナータが何か言い出したんだろう? 俺、レナータがああいう反応をするのはわかってたんだよ」
「わかっていた?」
通行人の邪魔にならないように道の脇に寄ったグレーヴは、つられて同じように脇に退けたルトアシアと三歩分の距離を空けてから話し出した。
「自分で言うのもなんだけど、レナータは俺が誰かと親しくするのが嫌なんだ」
視線を落としたグレーヴがぽつりとこぼした言葉には何の感情もこもっていなかった。
「全部手中に収めておきたい、そんな子だからね」
ルトアシアはグレーヴの視線を追った。彼の瞳の先にはすり減った靴のつま先があった。道に落ちている小さな石を子どもがするようにコロコロともてあそんでいる。
「どこまで知ってるの? レナータの家と劇団の関係のこと」
グレーヴは足元を見つめたまま、ルトアシアに尋ねた。
「……出資を受けていると聞きました。レナータ様の家から」
「そっか」
ルトアシアの答えにグレーヴは軽く笑って続けた。
「そう、だから劇団も、劇団員も、みんなレナータの物さ。レナータに気に入られるように動かなければ舞台にも上がれない。それで辞めた仲間もたくさんいる。情けないことにね」
グレーヴはそれまで転がしていた小石を軽く蹴とばした。上手くつま先に当たった小石は行き交う人の足元を抜け、道の反対側まで飛んで行った。
「俺だって、名のある役がもらえるようになったのは、レナータが来てからだからね」
「はい、存知あ……そうなのですね」
(あっぶなかったわ! 思わず知っていると答えてしまう所だったわ。でも知っているんですもの。レナータ様が看板女優として入団なされてから、グレーヴ様も舞台に上がる回数が増えたのよ。子どもの頃から長くいるにも関わらず、グレーヴ様はあまり良い役がもらえていなかったから飛び跳ねて喜んだのを覚えているわ。実力はあるのに、どうしてか表に出してもらえていなかったのよね……)
正直言ってルトアシアはグレーヴが舞台に出て、役者として活躍する望みを果たせればそれで満足だった。それがグレーヴの望みだろうと思っていたし、そのためなら彼が何を利用しようが、どんな手を使おうが、ある程度は許容できると思っていたのだ。
(でも、もしかしてグレーヴ様は納得がいっていないのかしら……)
ルトアシアはハッとグレーヴを見た。
大人の足で三歩離れたところにいるグレーヴの横顔はきれいだった。でもルトアシアの記憶にある“グレーヴ”よりも肌はかさつき、目の下は隈が浮いている。
(私が、私たちがグレーヴ様を舞台に、と望むことで苦しめていたとしたら……)
「ん、どうしたの?」
ルトアシアの視線に気づいたのか、グレーヴが顔を上げた。
優しい微笑みはあの時から全然変わっていないのに……。
「……グレーヴ様は素晴らしい役者です」
「え?」
グレーヴが驚きに目を丸くした。これまで素っ気ない返事しかしていないルトアシアがまさかそんなことを言うとは思わなかったのだろう。明らかに戸惑っている様子が手に取るようにわかる。
「そして、きっと誰よりもトロピカを愛していらっしゃる。優しい方です。」
「はは、ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」
グレーヴが選んだのはいつもの“役者”としての笑顔だった。それ以上踏み込ませまいとする拒絶の笑顔だ。そうすることでルトアシアが引くだろうと思ったのかもしれない。しかしルトアシアは引かなかった。
「お世辞ではありません」
グレーヴが空けた三歩の距離を埋めるように、ルトアシアは大きく一歩踏み出した。
「素晴らしい魅力をお持ちの方です」
「君は……」
二歩分の距離はまだ少し遠かった。しかしグレーヴにはそれまでの笑みを失くす程には余裕のない距離だったらしい。光の無い琥珀色の瞳がルトアシアを見据えた。
「俺を誉めても良いことないから、そのくらいにしておいた方がいいよ」
初めて聞くグレーヴの真面目な声色に、ルトアシアの肩がわずかに揺れた。その些細な変化を見逃さないと言わんばかりに、今度はグレーヴが一歩踏み出した。
「それとも本当は俺に気があるとか?」
ルトアシアが手を伸ばせば届く距離で、そう言いながらグレーヴは茶化すように笑った。ルトアシアの頭一つ高いところから向けられる瞳からは、これまでの友好的な色が消えていた。
(向けられているのは失望、警戒、拒絶、そして怒り……)
ルトアシアは絡まってしまった視線を自分から解いた。
「いいえ、そのようなつもりではありません……」
伏せた視線の先には自分のつま先があった。歩きやすいように誂えた革製のパンプスは柔らかに磨き上げられ、艶を放っている。少し先のくたびれたグレーヴの靴は、いつから手入れされていないのだろうか。彼自身と同じように……。
(私はあなたをずっと見てきたのよ。初めてセリフをもらえた時も、初めてセリフを飛ばしたときも、初めて役名がついた時も――ずっとずっと、楽しそうに自由に演じるグレーヴ様を、私は心の支えにして来たの……)
溢れそうな思いが喉元まで出かかって、ルトアシアはきつく唇を噛んだ。




