3-1 推しが神出鬼没
三章に入ります。劇団の看板女優であるレナータが登場です。
ふわふわとした甘い花の香り。誰かの優しい手が私の髪をなでている。
『――私の可愛いルトアシア。私によく似たあなたですもの、必ずあなたのお父様のような素敵な人と出逢えるわ。だからその時までおやすみなさい、ルティ……』
§
「覚えていないけど、なんだか良い夢見たからきっと良い日になる気がするわ」
ルトアシアは朝食のパンを千切りながら上機嫌でアスコットに告げた。昨日はグレーヴとの突然の出会いに驚いたが、きっと今日会っても平常心で接することができるだろう、たぶん。
「君にそんな力があるなんて初耳だけど」
若干疲れた様子のアスコットは朝食は取らず、何種類かの果汁を混ぜたジュースを飲んでいる。
「ただの勘よ」
そう答えながらルトアシアはアスコットの様子を覗った。いつもならタチアナに会う日はテンションが高く、鼻歌を歌いそうなほど上機嫌なのに……。
「何だか元気がないわね、アスコット。今日はタチアナと会うんでしょ?」
いつもとは違うアスコットの様子に違和感を覚えたルトアシアは軽い気持ちで聞いてみた。しかし彼の状況は想像よりも悪かったようだ。
「ちょっと張りきりすぎちゃっただけ。タチアナに渡したかった物があったんだけど、魔力を込め過ぎちゃってね。使い物にならなくなってしまったのさ。はは、こんな初歩的な失敗をするなんて。こんな惨めな僕を笑ってくれ……」
言葉を重ねるたびにどんよりとしたオーラが濃くなっていくアスコットの姿は同情を禁じ得ないものだった。
(本当に珍しいわね。アスコットがタチアナに贈るもので失敗するなんて……。はっ、もしかして私が邪魔してしまった? いいえ、それはないわね。この人、私の事はその辺の置物と同じようにしか思っていないもの)
ルトアシアは一瞬言われた通りに笑い飛ばそうかとも思ったが、やはりここは慰めることにした。
「そうなの……それは残念だったわね」
ルトアシアは手に持ったパンを皿に戻し、アスコットの方へ姿勢を正した。
「タチアナならあなたに会えるだけで嬉しいと思っているはずよ。楽しんで来てちょうだい」
「なんだ、君に励まされるなんて心外だな」
「……やっぱり笑っておけばよかった」
素直に励ましを受け入れないくらいの余裕はあるようだと判断したルトアシアは、彼の機嫌の行方をタチアナに任せることしてトロピカの仕事に向かうことにした。
(きっと今日は大丈夫。そんなに頻繁にグレーヴ様にお会いすることはないはずだし、もし会っても普通にご挨拶をして仕事に戻れば良いだけよ)
……と、思っていたルトアシアの読みは八割方外れることとなった。
「ねえねえ、今日はあと何する予定なの?」
「買い出しです」
「俺も一緒に行こうかなぁ」
昨日同様に郵便局で荷物を受け取ったルトアシアの前に現れたのは、ルトアシアが無茶をして人間界に来る理由でもあったグレーヴ本人だった。
(こ、こんなに頻繁に会えるとは……ううグレーヴ様の笑顔が眩しい。このままじゃ私の目と心臓がもたないわ、誰か助けてー!)
グレーヴはルトアシアの姿を見つけると、まるで子犬が遊び相手を見つけたかのように駆け寄ってきたのだ。
どうしてこの笑顔を描きとめさせる画家を連れてこなかったのかとルトアシアは後悔しながらも、なぜ彼が自分にここまで関わってくるのか見当もつかなかった。
「グ、グレーヴ様はお稽古があるのではないのですか?」
「そうなんだけど、気が進まないんだよね」
そう言ってグレーヴは眉を下げて見せた。
(うわあああかわいいいいい……!! はっ、だめよルトアシア。今は劇団の役者と小間使い、先輩と後輩。決して最推しのグレーヴ様だと認識してはいけないわ。そう、正気が保てなくなるもの。気をしっかり持つのよ、ルトアシア)
ルトアシアはグレーヴの破壊力のある表情にも耐え、一拍呼吸を置いてグレーヴに返事をした。
「ふぅ……そうですか」
(あああああっ、また! またもや呆れたような冷たい声になってしまったわ! ごめんなさいグレーヴ様、怒っているわけではないのです)
思いの外低い声になってしまったことに内心気が気ではないルトアシアだったが、やはりグレーヴはルトアシアがどんな態度を取ろうがあまり気にしていないらしい。
どんなに素っ気ない返事をしても、態度を変えずに接してくるのだ。
「ねえ、で、買い出しはどこに行くの」
「えっと、ひとまず荷物を劇場に届けますので、買うものはそこで確認しようかと……」
「そっか。それならやっぱりついていくよ。荷物持ちはいた方が良いでしょ?」
「お手を煩わせるのは本望ではありません。一人で参ります」
とは言え、ルトアシアは一人で買い物をしたことが無い。いつも付き人がいるので支払いは任せっきりなのだ。店は誰かに聞けばわかるとして、買い物への不安がある以上、誰かについて来てもらえるならどんなに心強いだろうか……。
ただし“グレーヴ以外で”という条件は付くのだが。
(このお方は私の気持ちなど全く知らないから、そうやって笑っていられるのよ! 人生の半分を推している人が隣にいて一緒に歩いている状況に、どうやったら平常心を保てるのか教えてほしいわ!)
ルトアシアの緊張は半ば怒りに変わりつつあった。しかしその緊張がほぐれる前に、二人は劇場に到着してしまった。
(はぁ、ようやく着いたわ。ここからはどうにかして、私だけで行動したいものね……)
「あ、えっと、ありがとうございました。ここからは私が……」
ルトアシアがグレーヴに礼を告げ、そそくさと退散しようとしたその時、彼の名が呼ばれた。
「あら、グレーヴ」
小鳥が歌うような良く通るその声の持ち主は、ミントグリーンのショールを肩にかけ直しながらルトアシアとグレーヴの方へ近づいてきた。
ピンクブロンドに輝く髪を肩で揺らし、上目遣いにグレーヴを見つめる大きな青色の瞳と、さくらんぼのような小さな唇にはタチアナとは違う女性的な魅力がある。
(この方は、劇団トロピカの看板女優レナータ様……)
「レナータ……珍しいね、君が出てくるなんて」
グレーヴが呼んだ名はルトアシアの予想の答え合わせをしてくれた。ただグレーヴの声にはどことなく先ほどまでの活気がなくなっていたのだが……。
レナータはさらにグレーヴに歩み寄り、ムッとした表情で口を開いた。
「私の稽古相手がなかなか来ないから待ってたのよ」
そう言ってぷくりと膨らませた頬からは、彼女の愛らしさと女性としての自信を感じさせる。
「ケントがいるだろ?」
「あの子はだめよ。つまらないもの。……で?」
ため息交じりで答えたレナータは、ようやくルトアシアに目を向けた。グレーヴの隣にいるルトアシアに気づかなかったはずはないのだが、わざとこのタイミングで気づいたふりをしたのだろう。
「この子、誰?」
レナータの大きな瞳がルトアシアの頭のてっぺんからつま先まで行き来するように動いた。あからさまな品定めはルトアシアの知る限りマナー違反だ。
(なんだか、思っていたよりも感じが良くない方だわ。看板女優のレナータ様、繊細で瑞々しい歌声に定評がある方なのに、こういった面を見てしまうと少し残念な気持ちになるわね……)
役者も一人の人間だ。
舞台に立つ姿が本当の姿でないことは理解している。しかし実際に目の当たりにしてしまうと気持ちが沈んでいきそうになる。ちなみにグレーヴは少々次元が違うのだが……。
何はともあれ、ルトアシアはレナータに挨拶をすることにした。メイド長が言っていた心得を思い出し、笑顔を浮かべてレナータに自己紹介する。
「荷物の引き取りや買い出しを任されました、ルト……ルティと申します」
「ああ、あなたが。ふぅーん……そう、あなたがねぇ」
「……何か?」
ルトアシアの自己紹介を聞いたレナータは、どこか含みのある笑みを浮かべた。そして次にレナータの形の良い唇から発せられた言葉は、ルトアシアが今後「自分の勘を信じなくなる」という結果を招くものとなった。
お読み頂きありがとうございます!
ストック切れたので次話から朝6時に1日1話の更新になります。よろしくお願いします。




