第7話 その一言
馬車が止まった。急な減速ではない。御者が自分で手綱を引いたような、静かな止まり方だった。エレノアは窓の外を見る。王都を出てから、まだそれほど遠くない。西へ延びる街道の左右には低い林が続き、夕日が枝の隙間から斜めに差し込んでいる。人家は見えない。
「どうしました?」
御者から返事はなかった。代わりに、馬が短くいなないた。次の瞬間、馬車の外で何か重いものが地面へ落ちる音がした。
エレノアは立ち上がった。
「何が――」
扉が外から開いた。護送の騎士ではない。黒い布で口元を覆った男が立っていた。
「降りろ」
短い声。男の右手には細身の剣があった。エレノアは一度、御者台の方へ目を向ける。御者が地面に伏していた。少し離れたところには、護送についていた騎士が一人。動いていない。もう一人の騎士も、馬車の後方で倒れていた。
「三人を殺したの?」
「降りろ」
同じ言葉が返ってきた。エレノアは腰へ手をやる。星冠広場を出る前に返された、いつもの小刀。革鞘から抜いた。男の目が刃へ落ちる。
「それで何をする気つもり?」
「さあ」
エレノアは馬車を降りた。街道へ足をついた瞬間、人数を数える。一人、二人、三人――林の縁に、馬車の後ろに、道の先に。全部で十人。全員、武器を持っている。剣、短剣、弩。袖口の膨らみは投げ針か何かだろう。騎士ではない。盗賊にも見えなかった。立ち位置が整いすぎている。エレノアを中心に、互いの射線を邪魔しない距離を取っているのだ。
「ずいぶん大勢なのね」
誰も答えなかった。少し離れた位置にいる男へ目を向ける。四十歳ほど。他の者と同じ暗い旅装だが、立ち方が違う。誰かが動く前に、必ず彼を見る。この人がまとめ役なのだろう。
「あなたが指揮を?」
男は答えなかった。
「誰が命じたのですか」
「知る必要はない」
「私にはあります」
「もうない」
その返事で、エレノアは理解した。話し合いに来た人間ではない。
「私を殺すのね」
「抵抗しなければ、苦しませるつもりはない」
「そう」
エレノアは小刀を下げたまま、十人をゆっくり見回した。殺せる。そのことだけは、見れば分かった。正面の男なら喉。右にいる女なら踏み込む瞬間の脇。弩を持つ男は、撃つ前に右肩が上がる。指揮役の男は、一歩目だけ左足へ強く体重を乗せる。どこへ刃を置けば終わるのか、どの順番なら誰にも止められないのか。考える必要すらなかった。いつもと同じだった。だから、殺さなかった。
「ここを通してもらえませんか」
指揮役の男がわずかに眉を動かした。
「聞こえなかったか」
「聞こえています。ですが、私はもう王国を追放されました。あなた方が王国の人間なら、これ以上私に用はないでしょう」
「こちらにはある」
「では、せめて誰の命令か教えてください」
「断る」
左から一人が踏み込んだ。短剣が腹部へ向かう。エレノアは半歩だけ横へずれ、相手の手首へ小刀の背を当てて角度を変えた。
「っ!」
男の指から短剣が落ちる。そのまま肘を押し、身体を前へ流すと、男は地面へ転がった。殺してはいない。
「やめてください」
エレノアは言った。
「私は、あなた方を殺したくありません」
それは本心だった。人を殺せば、リシェルが怖がる。九年前、血に濡れた手を見て一歩下がった妹の姿を、エレノアは忘れたことがない。だから人は殺さない。殺せても、殺さない。そう決めてきた。
指揮役の男が、地面へ転がされた仲間を見る。
「武芸の心得がある、か」
「その程度の報告でしたか?」
「......余計なことをペラペラしゃべる女だ」
男が右手を少し上げた。十人の間に緊張が走る。エレノアは小刀を構えなかった。
「最後に聞きます」
静かに言った。
「誰が命じたのですか」
「答えると思うか」
「いいえ」
「なら聞くな」
「聞かずに諦めるのは嫌いなの」
男の口元がわずかに歪んだ。
「諦めろ」
エレノアを見る目に、初めて嘲るようなものが浮かんだ。
「なら代わりにいいことを教えてやろう。お前の大事な妹君なら、もう死んでいる」
エレノアは瞬きをしなかった。
「......何ですって?」
「数日前だ。王都邸の別棟が焼けた。妹君は中にいたそうだ」
男は、標的の心を折るための言葉でも口にするように続けた。
「安心しろ。お前もすぐ、同じところへ送ってやる」
音が消えた。違う。消えたのではない。聞こえなくなっただけだった。
数日前。細い窓。夜の王都。遠くの騒がしさ。煙の匂い。『王都では珍しくありません』。星冠広場。『リシェルは?』。あの時の、わずかなざわめき。誰も答えなかった。レオニスも、王妃も、国王も。そして今日まで、妹から一通の手紙も来なかった。
エレノアは目の前の男を見る。嘘かもしれない。殺しに来た人間の言葉だ。信じる理由などない。それでも――これまで意味の分からなかったものが、あまりにもきれいにつながってしまった。
「そうですか」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。悲しいのか、まだ分からなかった。信じたのか、それも分からない。ただ一つだけ、はっきりと分かったことがある。
もう、リシェルに見せるものを怖がる必要がない。血に濡れた手を隠す理由も、人を殺さずに済ませる理由も。もし彼女が本当にいないのなら。
エレノアは、小刀を持つ指の力を抜いた。構えを解く。肩から余計な力を落とす。指揮役の男の目が細くなった。ほんのわずかな変化だった。けれど彼だけが、その変化を見た。
男が突然、後ろへ跳んだ。エレノアは一歩進んだ。正面にいた男と、その左右から間合いを詰めた二人の首が落ちる。指揮役の男だけが数歩先へ着地し、振り返るなり街道の先へ走り出した。エレノアは少し驚いた。狙った相手に刃が届かなかった。
弩を構えた男も、袖に投げ針を隠した女も、まだ林の縁にいた。エレノアは二人を視界の端に置き、逃げた指揮役を追って歩いた。男が肩越しにこちらを見る。足運びが乱れたところで、声をかけた。
「素晴らしいですね」
男は足を止め、短剣を抜いた。切っ先を向けられても、エレノアは数歩手前で立ち止まっただけだった。
「今のをかわすのは」
褒めるつもりで言った。本当にそう思ったからだ。他の三人には、避けようとする動きすらなかった。
残りは七人。エレノアは数えた。全員を殺す必要はない。知りたいことがある。一人では嘘をつくかもしれない。二人なら口裏を合わせるかもしれない。三人でも足りないことがある。四人。四人いれば、答えを比べられる。だから、あと三人だけ。
「散れ!」
弩を構えた男が叫んだ。七人が動く。正しい判断だった。一か所へ固まれば、同時に届いてしまう。左右へ散り、前後をずらし、弩と投げ針を交えて距離を作る。きちんと訓練された連携だった。
エレノアは一歩だけ動いた。弩の矢が頬の横を抜ける。避けたのではない。撃たれる場所にいなかっただけだ。正面から来た男の剣の内側へ入り、小刀を一度。男が崩れる。その身体の陰にいた二人目へ、もう一度。振り返らず、三人目へ。三つの身体が、ほとんど同時に地面へ落ちた。
残りは四人。予定どおりだった。指揮役の男が、短剣を抜いたまま動かない。後ろにいた大柄な男。左側の剣士。そして、戦いが始まってから一度も前へ出ず、後方を保っていた男――その男の腰には武器のほかに、小さな革袋と鍵束がある。戦う役だけではないのかもしれない。
「ですが」
エレノアは指揮役へ目を戻した。
「ただそれだけですね」
指揮役の男が息を止め、左右へ視線を走らせた。
「走れ!」
その声に、大柄な男が街道脇の林へ踏み出した。エレノアは膝が使えなくなる場所だけを斬り、逃走の一歩目で地面へ落とす。左の剣士が背後から振り上げた剣には、手首へ刃を当てた。剣が落ち、男は血の出た腕を抱えたまま崩れた。殺す必要はない。答えを比べるための四人は、生かしておく。
最後の男は、武器を抜かなかった。顔を青ざめさせたまま、両手を上げる。
「待て。俺は――」
「動かないでください」
エレノアはその横を通った。逃げようとした時だけ困る。片脚の力が入らなくなる程度に、小刀を走らせた。男がその場へ膝をつく。これで三人。指揮役だけが立っていた。
「四人ですね」
エレノアは地面の三人と、短剣を握ったままの指揮役を順に見た。
「聞きたいことがあります」
「あなたは逃げないの?」
エレノアが尋ねる。男は答えなかった。短剣を握ったまま、こちらを見ている。目だけはまだ死んでいない。
「先ほどは逃げられたのに」
「......逃がす気があるのか」
「いいえ」
エレノアは答えた。
「では同じだ」
男は短剣を地面へ落とした。賢い人だと思った。
エレノアは馬車へ戻り、荷台に残っていた荷締め用の縄を持ってきた。
「三人を縛ってください」
指揮役へ渡す。
「俺にやらせるのか」
「私が近づくと、皆さん怖いでしょう?」
男の顔が引きつった。
「......冗談のつもりか」
「いいえ」
本当にそう思っただけだった。男は黙って仲間の手を縛る。エレノアは結び目を確認した。最後に男自身の両手を後ろへ回させ、同じ縄で縛る。
四人。六人は動かない。四人は生きている。最初から、そのつもりだった。
エレノアは小刀についた血を、倒れていた男の外套で拭った。それから四人の前へしゃがむ。指揮役。腕を使えない男。脚を傷めた大柄な男。鍵束を持っていた男。一人ずつ、その顔を見る。
「改めて、伺います」
誰も答えない。エレノアは穏やかに続けた。
「今度は、きちんと答えてください」
小刀を膝の上へ置く。
「誰が、私を殺すよう命じたのですか」




