第6話 追放
リシェルが別棟へ移って数日後、エレノアは王宮から二度目の出頭命令を受けた。今度の封書には、「確認事項」という曖昧な言葉すらなかった。
『ヴァルモント伯爵令嬢エレノア・アウレリア・ヴァルモントは、本日正午までに白冠宮へ出頭すること』
それだけだった。
「私も参ります」
セシルが当然のように言った。
「だめでしょうね」
「言う前から諦めないでください」
「前回も家人の同席は断られたもの」
「前回は前回です」
セシルはエレノアの外套の留め具を直しながら、いつもより強い手つきで金具を押した。
「伯爵様は戻らない。お屋敷への文書検査は増える。リシェル様は別棟から出てこられない。その上で、今度はお嬢様を一人で呼ぶ」
「セシル」
「私は、嫌なものは嫌だと言うためにおります」
エレノアは少しだけ笑った。
「知っているわ」
腰へ手をやる。いつもの小刀は革鞘に収まっていた。王宮へ入る時には預けることになる。それでも、持たずに出る方がずっと落ち着かなかった。
「リシェルに会ってから行くわ」
「ノエル様から、今朝も面会は控えてほしいと」
「扉の前までよ」
別棟へ続く渡り廊下は静かだった。扉を二度叩く。
「リシェル?」
返事はなかった。代わりにノエルが出てくる。数日ほとんど眠っていないのか、目の下に薄く影がある。いつも整えられた髪も、今日は後れ毛が一本、頬へ落ちていた。
「エレノア様」
「王宮へ行ってくるわ」
「......はい」
「リシェルは?」
「今は眠っておられます」
「熱は下がった?」
「昨日よりは」
答えが、少し遅かった。エレノアは扉を見る。
「起きたら伝えて。夕方には戻るつもりだから」
「承知いたしました」
「それから」
何か必要なものはないか、と言いかけて、やめた。
「......リシェルが欲しいと言ったものを用意してあげて」
「はい」
ノエルが頭を下げた。
「お気をつけて、エレノア様」
その言い方が、なぜか別れの挨拶のように聞こえた。エレノアは振り返る。
「ノエル?」
「王宮は、今は落ち着きませんから」
「そうね」
それ以上は、気に留めなかった。
◇
白冠宮へ着くと、セシルは本当に門で止められた。
「伯爵令嬢のみ、お通しするよう命じられております」
門衛の騎士が言った。
「私は付き添いの侍女です」
「存じています」
「でしたら――」
「セシル」
エレノアが呼ぶと、彼女は唇を結んだ。
「屋敷へ戻っていて」
「お嬢様」
「大丈夫よ」
「その言葉、最近信用できません」
「ひどいわね」
「夕方になっても戻らなければ、私がここへ来ます」
「分かったわ」
「本当に分かっていますか?」
「ええ」
セシルはしばらく動かなかった。最後に深く頭を下げる。
「必ずお戻りください」
「もちろん」
エレノアは王宮の中へ入った。通されたのは、以前の小会議室ではなかった。窓の細い部屋だった。机と椅子が一つずつ。壁際には水差し。扉の外には騎士が二人。
「こちらでお待ちください」
「どなたを?」
「担当官が参ります」
「父に会えますか」
「私からは何とも」
エレノアは細い窓と、閉じた扉を見比べた。
「妹への連絡はできますか」
「必要があればこちらで承ります」
エレノアは騎士を見た。
「手紙を書いても?」
「確認の上でお届けします」
「確認」
その言葉を聞くのは、もう何度目だろう。腰の小刀も預けさせられた。エレノアは机へ座る。
正午を過ぎた。担当官は来なかった。夕方になった。セシルも来なかった。来られなかったのだろう。扉の外の騎士は交代した。
「今日はここでお休みいただきます」
「帰れないの?」
「命令です」
「私は拘束されているのですか」
騎士が一瞬黙った。
「調査へのご協力をお願いしております」
「扉は外から開けるのですね」
「......はい」
「では、言葉を変えなくていいわ」
エレノアは怒鳴らなかった。怒るほど、声はむしろ静かになった。
「私を拘束しているのね」
騎士は答えなかった。その夜、エレノアは王都邸へ短い手紙を書いた。
『今夜は戻れません。リシェルに、心配しないよう伝えてください。明日には帰ります』
騎士へ渡す。返事は来なかった。窓の外が暗くなり、遠くで鐘が鳴る。王都のどこかで何かが騒がしくなった気がしたが、細い窓からは何も見えなかった。煙の匂いがしたようにも思った。
「火事?」
扉の外へ声をかける。
「王都では珍しくありません」
返事はそれだけだった。エレノアは窓から離れる。妹のいる屋敷とは方向が違う。そう自分に言い聞かせた。
◇
翌朝になっても、エレノアは帰されなかった。代わりに、数人の官吏が入れ替わりでやってきた。質問は、同じところを何度も回った。
「ヴァルモント伯は、王都の許可なく兵を増員したことがありますか」
「あります。国境勤務の欠員補充です」
「伯爵家の兵が王都命令より伯爵命令を優先することは」
「緊急時なら現場指揮官の命令を優先します。王都へ確認していては間に合わない場合がありますから」
「それは王命への不服従では?」
「国境を守るための判断です」
「帝国側へ補給状況を知らせた事実は」
「捕虜交換の日程調整です。前後の文書を読んでください」
「王太子殿下が倒れた場合、あなたに王位継承の可能性が生じることは理解していますか」
エレノアはそこで初めて眉を寄せた。
「何の話です?」
「母君は先王陛下の王女であられました」
「知っています」
「王位継承は母系にも遡ります」
「だから何ですか」
「王太子殿下が亡くなられた場合――」
「亡くなっていません」
言葉を遮った。
「毒は口にされなかった。殿下は生きておられます」
「仮定の話です」
「その仮定を、なぜ私に聞くのです」
官吏は答えず、紙へ何かを書いた。エレノアはその筆先を見る。質問ではない。答えを集めているのでもない。すでに決めた形へ、言葉をはめ込もうとしている。初めて、そう感じた。
「父に会わせてください」
「できません」
「リシェルは」
「ご家族に関する連絡は、現在制限されています」
「病人なのよ」
「王都邸の者が対応しております」
「ノエルから手紙だけでも」
「許可が下りておりません」
エレノアは指先を握った。机の縁。椅子の脚。扉の蝶番。壊す場所は、見れば分かる。扉なら一瞬だ。外の騎士二人も、ここから出るだけなら障害にはならない。だが、壊さなかった。リシェルを怖がらせないために。そして今は、逃げれば父の疑いまで深くなる。
「......分かりました」
エレノアは手を開いた。それを見ていた騎士の一人が、わずかに息を吐く。何を警戒されたのか、エレノアには分からなかった。
◇
さらに一日が過ぎた。新聞も手紙も渡されなかった。窓の外に見える空の色だけで時間を知る。食事を運ぶ者も、質問をする官吏も、誰一人として王都邸のことを話さない。
「妹はまだ熱があるの?」
「存じません」
「医師の名前だけでも分かる?」
「存じません」
エレノアは、二度目の「存じません」を聞いて唇を結んだ。
「父はどこにいるの?」
「お答えできません」
同じ返事だった。夕方、ようやく扉が開いた。入ってきたのは、王立第一騎士団の副団長だと名乗る男だった。
「ダリウス・ヘルモットです」
三十代半ばほど。派手さのない黒髪を短く整え、濃い灰色の騎士服の上から白銀の胸当てを着けている。体格は大きいが、威圧するように肩を張ることはなかった。部屋へ入ると、まず扉と窓へ一度ずつ視線を走らせる。それからエレノアを見た。
「明朝、星冠広場へ移動していただきます」
「星冠広場?」
「王命です」
「何のために」
ダリウスは一拍置いた。
「ヴァルモント伯爵家に対する処分が公示されます」
エレノアは立ち上がった。
「処分?」
「詳細は明朝、正式に告げられます」
「父は?」
「......私からは、お答えできません」
「リシェルは」
「同じく」
また、それだった。エレノアは男の顔を見る。
「あなたも、知らないの?」
ダリウスの親指が、腰の剣の鍔を一度だけ押した。
「私が命じられているのは、あなたを明朝までここで保護し、広場へお連れすることです」
「保護」
「......拘束、と呼ばれるなら否定はしません」
初めて、言葉を言い換えなかった人だった。エレノアは少しだけ目を細める。
「では、もう一つ。私は反逆者なの?」
「明朝、王家の判断が示されます」
「あなた自身はどう思うの」
ダリウスはすぐに答えなかった。
「私の意見は、今の職務には必要ありません」
「そう」
エレノアは椅子へ戻った。
「では、明日聞くわ」
ダリウスは一礼し、部屋を出た。閉まる直前、彼が一度だけ振り返る。何か言いたそうに見えたが、結局、何も言わなかった。
◇
翌朝。星冠広場には、人が集められていた。王宮前の広い石畳を囲むように騎士が並び、その外側には貴族、官吏、市民が何重にも立っている。見世物にするつもりなのだ、とエレノアはそこで理解した。
白冠宮の正面階段には、国王アルベルト三世と王妃マリエル。その少し下にレオニス。クラリッサの姿もあった。父はいない。リシェルもいない。
エレノアはダリウスたちに挟まれ、広場中央まで歩いた。手枷はされていない。逃げないと思われているのか、あるいは、王族の前で逃げれば罪を認めたことになると分かっていると思われているのか。どちらでもよかった。
宰相グレゴール・ヴァルゼンが一歩前へ出る。五十八歳。痩せた長身に黒い官服を着ている。髪には白いものが多く、派手な装飾はない。手にしているのは厚い書類束だけだった。彼は人ではなく文書を相手にするような声で読み上げた。
「ヴァルモント伯爵家について、王太子殿下に対する毒殺未遂、東方帝国への軍事情報流出、王命を経ない兵員増強、ならびに王位簒奪を目的とした勢力形成の疑いが認められた」
広場がざわめいた。
「異議があります」
エレノアは言った。グレゴールの声が止まる。
「毒物購入記録の名義人は王都に来ていません。帝国文書は捕虜交換のためのものです。兵員補充も国境勤務の欠員を埋めただけです」
「それらは既に審理された」
「私が見たのは質問だけです。審理ではありません」
ざわめきが少し大きくなった。グレゴールの表情は変わらない。
「伯爵令嬢。発言は許可された時に」
「では、許可してください」
エレノアは静かに言った。
「父をここへ呼んでください。文書の前後を読み上げてください。毒を購入した人物をここへ連れてきてください」
「静粛に」
王妃マリエルの声が広場へ落ちた。エレノアは階段の上を見る。
「伯母様」
王妃の眉がわずかに動いた。
「ここでは王妃と呼びなさい」
「では、王妃陛下。父に会わせてください」
「アルマン伯については別途処分が下されます」
「生きているのですか」
ほんの一瞬、マリエルの返事が遅れた。
「今は、あなた自身の処分を聞きなさい」
答えではなかった。エレノアは階段の上の人々を見る。国王は動かない。クラリッサは扇を持っていなかった。レオニスだけが、こちらから目を逸らした。
「レオニス殿下」
名を呼ぶ。彼の肩がわずかに動いた。
「あなたは、この証拠を見たのですか」
「......見た」
「私が説明した文書も?」
「見た」
「それでも、父が反逆したと思うのですか」
レオニスは袖口へ手をやった。何度も見た癖だった。
「王太子として、王国の調査結果を受け入れる」
「あなた自身は?」
「エレノア」
「あなた自身は、どう思うの」
返事がない。長い沈黙だった。その沈黙だけで、エレノアには十分だった。
レオニスが一歩前へ出る。用意されていた文章を読むように、声を整えた。
「王太子レオニス・レグナートの名において、エレノア・アウレリア・ヴァルモントとの婚約を、本日をもって解消する」
広場が沸いた。悲鳴に近い声、驚き、歓声、囁き――それらが波のように広がる中で、エレノアはレオニスだけを見ていた。幼い頃から婚約者だった。一緒に礼法を習った。舞踏会の順番を間違えて、二人で教師に叱られたこともある。恋をしていたのかと問われれば、分からない。けれど、信じてはいた。
「そうですか」
エレノアはそれだけ答えた。怒りはなかった。不思議なくらい、静かだった。
グレゴールが続ける。
「ヴァルモント伯爵家は爵位および王国東部における特権を剥奪。領地・資産は王家管理下へ移す」
ざわめきが大きくなる。
「エレノア・アウレリア・ヴァルモントは王族との婚姻資格、貴族身分、ヴァルモント家の爵位および所領に関する相続権を失う」
エレノアはそこで初めて口を挟んだ。
「リシェルは?」
グレゴールが止まった。
「妹はこの件に関係ありません」
「......」
「病気で別棟にいるだけです。リシェルまで処分する理由はないでしょう」
広場のどこかで、小さくざわめきが起きた。何人かが互いの顔を見合わせる。その意味が、エレノアには分からなかった。
グレゴールは書類へ目を落とす。
「次の宣告を続ける」
「答えてください」
「伯爵家次女に関する事項は、ここで扱わない」
「では、あとで会わせてください」
「静粛に」
今度は国王の声だった。伯父の声を、エレノアは久しぶりに聞いた気がした。
「エレノア」
「はい、陛下」
「これ以上、王国に混乱を生むことは許さぬ」
「私は混乱を起こしていません」
「お前が望まぬと言うだけでは、疑いは消えぬ」
その言葉だけ、妙に強かった。
「王家の血を持ち、東部軍を動かせる家が、これだけの疑いを重ねた。国王として見過ごすことはできぬ」
エレノアは国王を見上げた。
「私は王位など望んだことがありません」
「望まぬ者が旗にされることもある」
「私たちの説明より、疑いの形を選ばれるのですね」
国王は答えなかった。エレノアは理解した。これは父が何をしたかだけの話ではない。自分たちが何をするかでもない。何かをするかもしれない、それだけで、家そのものを消すと決めたのだ。
最後の宣告が読み上げられた。
「エレノア・ヴァルモントを、本日中に王都から退去させ、西方国境外へ追放する」
「本日中?」
「異議は認められない」
「妹に会う時間をください」
グレゴールは答えなかった。
「一刻でいい」
今度はレオニスを見る。
「リシェルに説明しなければ」
彼は目を合わせなかった。
「手紙だけでも」
誰も答えなかった。ダリウスが後ろから近づく。
「......参りましょう」
低い声だった。
「まだ話は」
「これ以上は」
彼の親指が剣鍔を押している。エレノアはしばらく動かなかった。ここから王都邸まで、遠くはない。騎士を退かせることもできる。門を壊すこともできる。リシェルのところへ行くだけなら――できる。けれど、それをすれば血が出る。妹の前に、またあの頃の自分を見せることになる。
エレノアは目を閉じた。
「......分かりました」
そして歩き出した。
◇
追放に許された荷物は、小さな旅行鞄一つだった。王宮の事務官が、没収されていた私物を机へ並べる。財布。櫛。母からもらった小さな裁縫箱。そして、革鞘に入った小刀。
「これは返していただけるの?」
「食事や野営に用いる生活刃物は所持を認められています」
事務官は事務的に答えた。エレノアは小刀を腰へ戻す。王太子婚約者の宝飾品はすべて外されていた。ヴァルモント家の紋章が入った外套も没収された。残ったのは、旅に使える地味な衣服だけだった。
「侍女は?」
「同行は認められません」
「セシルに会わせて」
「許可がありません」
「では、妹へ手紙を」
「王国を離れた後、通常の郵便を利用してください」
「今日中に追放しておいて?」
事務官は黙った。エレノアはもう尋ねなかった。
西門へ向かう馬車には、御者と護送の騎士二人だけが付いた。ダリウスは門まで同行した。
「ここから先は別の者が担当します」
「そう」
「......申し訳ありません」
エレノアは彼を見る。
「何に?」
ダリウスは答えられなかった。
「あなたは命令に従っただけでしょう」
そう言うと、彼の顔がむしろ苦くなった。
「それで済むなら、騎士は楽です」
エレノアは少し意外に思った。
「変な人ね」
「よく言われます」
西門が開く。馬車の向こうに、王都の外へ続く街道が見えた。
「一つだけ」
エレノアは乗り込む前に言った。
「リシェルが元気になったら伝えてください。私は大丈夫だと」
ダリウスの表情が固まった。
「......私からは」
「無理ならいいわ」
エレノアは馬車へ乗った。
「きっとセシルが伝えてくれるもの」
扉が閉まる。馬車が動き出す。白冠宮の塔が少しずつ遠ざかっていった。父の顔を見ることはできなかった。リシェルにも会えなかった。それでも、まだ終わったわけではない。王国を出たあとで、父の無実を示す方法を考える。リシェルには手紙を書く。あの子が一人で不安にならないように。エレノアはそう考えた。
王都邸からは、別棟について何の知らせも届いていなかった。だから、リシェルは今もあの閉じた扉の向こうで休んでいるのだと、そう思っていた。ただ、腰の小刀へそっと触れる。小さな、どこにでもある刃だった。
日が傾き始めた頃。街道の途中で、馬車が止まった。




