第5話 白い鞘
父は、昼を過ぎても帰ってこなかった。昨日の夜、王宮から届いた呼出状には「東部国境に関する確認事項」としか書かれていなかった。だから朝、アルマンはいつもと変わらない顔で王都邸を出た。
「夕食までには戻る」
エレノアは、その言葉を何度も思い返していた。
エレノアは客間の窓から通りを見下ろす。王家の白い旗を掲げた馬車が通るたび、無意識に目で追ってしまう。だが、銀の鷹と黒い鍵を掲げたヴァルモント家の馬車は、いつまで経っても戻ってこなかった。
「お嬢様」
セシルが机の上へ紅茶を置いた。
「冷めます」
「ありがとう」
「三度目です」
「何が?」
「窓へ行かれるのが」
エレノアは少し考えた。
「そうだったかしら」
「そうです」
セシルは眉間を指で押した。
「伯爵様なら、王宮で書類一枚のために半日待たされることくらいございます。心配しても早くは戻りません」
「分かっているわ」
「でしたら座ってください」
言われたとおりに椅子へ戻る。机には、翌日の宮中行事についての予定表が広げられていた。本来なら目を通しておくべきだ。けれど同じ一行を何度読んでも、頭に入ってこない。
「リシェルは?」
「クラリッサ殿下から届いた手紙を読んでおられます。ノエル様も一緒です」
「そう」
妹が屋敷にいる。それだけのことで、少し肩の力が抜けた気がした。エレノアはようやく紅茶へ手を伸ばす。その時、玄関の方で扉が強く開く音がした。セシルと同時に顔を上げる。足音が廊下を近づいてくる。家令代理を務める王都邸の執事が、普段より早い歩調で入ってきた。
「エレノア様」
「お父様が戻ったの?」
「いいえ」
答えるまでの間が、あまりに短すぎた。
「王宮から使者でございます」
◇
使者は、父の帰宅が遅れる理由を詳しくは説明しなかった。
「いくつかの記録について、確認に時間を要しております」
「父は王宮にいるのですね?」
「はい」
「今夜は戻れますか」
「現時点では、お答えできません」
使者の男は、二十代の若い文官だった。灰色の官服に王室官吏の徽章を付け、背筋をまっすぐ伸ばしている。視線は落ち着いていたが、エレノアの問いへ答えるたびに一度だけ唇を結んだ。
「では、私が王宮へ参ります」
「お待ちください」
「父に会うだけです」
「伯爵令嬢には、明日の宮中晩餐へのご出席をお願いいたします。それまでは、こちらでお待ちいただくようにと」
「誰からの命令ですか」
若い文官が一瞬だけ目を伏せた。
「宰相府からでございます」
エレノアは黙った。父が王宮で書類を確認されている一方で、娘は屋敷で待てと言われる。不愉快ではある。だが、まだ異常と呼ぶには早い、そう自分に言い聞かせた。
「分かりました」
使者がほっとしたように頭を下げる。
「ご協力に感謝いたします」
その言葉だけが、妙に耳の奥へ残った。
◇
翌日の晩餐は、予定どおり開かれた。白冠宮の小宴会室には、王族と数家の上級貴族だけが集められている。父の席は空いていた。エレノアはそのことを王妃マリエル・レグナートへ尋ねたかったが、食事が始まる前に王妃の方から声をかけてきた。
「アルマン伯の件は、まだ確認中です」
四十六歳。深い赤の衣装に、金糸で麦穂の意匠が縫われている。マリエルはいつもどおり隙のない姿で、声にも苛立ちはなかった。
「国境を任される方ですもの。記録が多ければ時間もかかります」
「私も同席できますか」
「必要なら呼びます」
柔らかな言い方だった。それが、断られたということだと分かる。
「承知しました」
向かいではレオニスが座っていた。目が合う。彼は何か言いたそうにしたが、王妃が席に着くと口を閉じた。晩餐が始まる。料理はいつもどおりだった。給仕も、音楽も、銀器の並びも。だから最初、誰も異常には気づかなかった。
レオニスの前へ葡萄酒が置かれる。王族付きの毒見役が杯へ手を伸ばした。香りを確かめ、銀の細棒を浸す。その表情が、ふいに変わった。
「殿下、お手を触れないでください」
声は低かった。だが、その一言で部屋中の動きが止まった。近衛騎士が二人、すぐにレオニスの前へ出る。給仕役の青年が青ざめた。
「私は何も――」
「動くな」
短い命令が飛ぶ。王妃は立たなかった。ただ杯を見つめた。
「確認を」
毒見役がもう一度調べる。別の宮廷医も呼ばれた。やがて、誰かが小さな声で言った。
「毒物の反応がございます」
空気が変わった。エレノアはレオニスを見る。彼は無事だった。杯には触れていない。それを確認してから、給仕役へ視線を向ける。青年は震えていた。近衛騎士が両腕を取る。
「待ってください」
エレノアは思わず声を上げた。何人かがこちらを見る。
「その方が入れたと決まったわけではないでしょう」
「もちろんです」
答えたのは王妃だった。
「だから調べるのです」
穏やかな返事だった。何も間違ってはいない。エレノアはそれ以上何も言えなかった。
晩餐は中止になった。客たちは一人ずつ別室へ移され、持ち物と移動経路を確認された。エレノアも例外ではなかった。自分の小刀を預けるよう求められた時だけ、少し驚いた。
「これもですか?」
「刃物はすべてお願いいたします」
近衛騎士の言葉に逆らう理由はない。エレノアは腰の革鞘から、いつもの小刀を抜いた。小さな刃を見て、騎士は一瞬だけ眉を上げる。
「果物用ですか」
「ええ。よく切れるの」
「......そうですか」
布へ包まれ、他の持ち物と一緒に箱へ入れられる。その扱いに、エレノアは何も感じなかった。小刀はただの道具だ。必要なら、あとで返してもらえばいい。
◇
返してもらえたのは、夜半を過ぎてからだった。王都邸へ戻ると、セシルが玄関で待っていた。
「リシェルは?」
「もうお休みです」
「起こさなくていいわ」
エレノアは外套を預ける。
「お父様から連絡は?」
「ございません」
返事を聞いたところで、執事が奥から現れた。
「エレノア様」
顔色が悪い。
「何かあったの?」
「王宮より、追加の確認が入りました」
「何の?」
執事はすぐには答えなかった。
「ヴァルモント家の使用人名義で、毒物を購入した記録が見つかったそうです」
エレノアは黙った。
「誰の名義?」
聞かされた名前には覚えがあった。領地の薬草倉で働く下男だった。
「あり得ないわ」
「私もそう思います」
「その人は王都に来ていないでしょう」
「はい」
「では、名前を使われたのね」
「そうであればよいのですが」
セシルが横から口を挟んだ。
「よい、という言い方も変ですが。少なくとも本人が買ったのでなければ確認できます」
「ええ」
エレノアは頷いた。名前を盗まれただけなら、記録をたどれば分かる。そのときは、そう信じていた。翌朝までは。
◇
「これは、お父様の署名です」
王宮の小会議室で、エレノアは机の上の文書を見つめた。向かいにいる法務官は、無言で次の紙を置く。東部国境からヴェルグラード帝国側へ送った交渉文書だった。署名も印章も本物だ。
「昨冬、越境した家畜と捕虜交換について話した時のものです」
「文中に、東門の補給状況が記されています」
「交換場所へ何人出せるか確認するためです」
「帝国側へ自軍の状況を知らせたことは認めるのですね」
エレノアは法務官を見た。
「そこだけ抜けば、そう読めるかもしれません」
「抜いている、とは?」
「前後を読んでください」
紙へ指を置く。
「この二行前に、捕虜護送の人数を双方で合わせるとあります。補給状況を書いたのは、護送隊を出せる日を決めるためです」
法務官は表情を変えなかった。
「確認いたします」
次の書類は、兵員補充の記録だった。これも本物だ。
「春に百二十名」
「国境勤務を終えた者との交代です」
「夏に八十名」
「負傷者と退役者の補充です」
「王都への事前申請がないものがあります」
「国境では、返事を待ってから人を替えられない時があります」
「規則上は必要です」
「それは父も認めるでしょう」
エレノアは一度、息を吐いた。
「ですが、王都へ攻め込むための兵ではありません」
「私はそのようには申しておりません」
法務官は淡々と言った。
「事実関係を確認しております」
また同じ言葉だった。確認。その言葉だけで、父は二晩帰っていない。
「父に会わせてください」
「現在はできません」
「なぜですか」
「聴取中です」
「では、いつなら」
「決まり次第お知らせします」
エレノアは書類を見下ろした。偽物なら簡単だった。こんなものは違う、と言えばいい。だが、机の上にあるものはどれも見覚えがある。署名も、印章も、日付も。間違っているのは、そこから導かれている意味の方だった。だからこそ、厄介だった。
◇
王都へ来てからの日々が、急に狭くなっていく。エレノアが屋敷を出る時には、王宮へ行き先を届けるよう求められた。領地へ送る手紙は、一度王宮の検閲を通すと言われる。屋敷の帳簿を確認するため、王室の文官が出入りするようになった。まだ逮捕されたわけではない。けれど、自由でもなかった。
「こんなの、軟禁と同じでは?」
セシルが低い声で言った。
「同じではないわ」
「お嬢様は外へ出るのに許可が要ります」
「届け出よ」
「言葉を柔らかくしただけです」
「父の件を調べている間だけでしょう」
そう答えながら、エレノアは自分の言葉に対する確信が、少しずつ薄くなっていくのを感じていた。
その日の午後、レオニスに会うことができた。白冠宮の回廊だった。
「殿下」
呼び止めると、彼は足を止めた。
「エレノア」
「少しだけ、お話しできますか」
「......ああ」
人の少ない窓辺へ移る。レオニスは以前と同じ、華やかな王太子の姿をしていた。ただ、話し始める前に右の袖口を整える仕草だけが、以前より目についた。
「父はいつ帰れますか」
「僕にも決められない」
「殿下は、何を聞いているのですか」
「調査中だと」
「それだけ?」
レオニスは答えなかった。
「毒物の購入記録も、父の国境文書も見ました」
「......そうか」
「どちらも説明できます」
「エレノア」
「はい」
「今は、あまり動かない方がいい」
思ってもいなかった言葉だった。
「どういう意味ですか」
「君が証拠を集めようとすれば、それ自体を疑う者も出る」
「では、何もしない方がいいと?」
「父上と宰相が調べている」
「殿下は、それで十分なのですか」
レオニスの手が袖口へ触れる。エレノアは初めて、その癖をはっきりと意識した。
「僕は」
少し間があった。
「王太子として、調査を邪魔できない」
「そうですか」
それ以上、何を聞けばよいのか分からなかった。エレノアは頭を下げる。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
「エレノア」
背を向けたところで呼ばれた。振り返る。
「......伯父上が無実なら、必ず分かる」
その言葉を、信じたいと思った。けれど、すぐには頷けなかった。
◇
その翌朝、リシェルが朝食へ来なかった。エレノアはすぐに妹の部屋へ向かった。扉を二度叩く。
「リシェル?」
返事はない。もう一度叩こうとした時、内側から扉が開いた。ノエルだった。いつも整っている彼女の髪が、今日は少しだけ乱れている。
「エレノア様」
「リシェルは?」
「朝から熱がございます」
「どのくらい?」
「高くはありません。ただ、頭痛と寒気があると」
「入るわ」
エレノアが一歩進むと、ノエルが動かなかった。通り道を塞いでいる。
「ノエル?」
「申し訳ございません」
いつもより、敬語が少し固い。
「宮廷医の先生から、しばらく人との接触を減らすようにと」
「私も?」
「はい」
「少し顔を見るだけよ」
「エレノア様も王宮へ出入りなさいます。万一、うつる病であれば」
正しい理屈だった。今の状況で、エレノアまで熱を出せば、父のことを調べられなくなる。頭では分かる。それでも、扉の向こうに妹がいると思うと、足が動かなかった。
「リシェルは何か言っている?」
「休めば治るから、お姉様には心配しないでほしいと」
「......そう」
エレノアは閉じた扉を見つめた。
「必要なものは?」
「私が用意いたします」
「薬は?」
「ございます」
「食事は」
「消化のよいものを」
「水は温めて」
「はい」
「寒いなら毛布を――」
そこまで言って、エレノアは自分を止めた。少し前の馬車の中で、自分は決めたばかりだった。全部を先に整えない。妹自身に任せる。
「......ごめんなさい」
ノエルが目を瞬いた。
「リシェルが欲しいと言ったものを用意してあげて」
「承知いたしました」
「何かあれば、すぐ呼んで」
「はい」
エレノアは扉から離れた。廊下を戻る途中で、一度だけ振り返る。ノエルはまだ扉の前に立っていた。
その日の午後、リシェルは王都邸の別棟へ移った。静かで、人の出入りが少なく、療養には向いているからだと説明された。エレノアは反対しかけたが、やめた。妹がゆっくり休めるなら、その方がいい。
日が沈む頃、別棟へ向かう渡り廊下の手前まで行った。扉の向こうにノエルがいた。
「まだ眠っています」
「そう」
「今夜はこちらで付き添います」
「お願いね」
エレノアは小さな包みを渡した。
「これは?」
「蜂蜜菓子。熱が下がって食べられそうなら」
「お預かりします」
それだけで帰ろうとした。
「エレノア様」
ノエルに呼び止められる。
「リシェル様からです」
小さく折った紙を渡された。エレノアはその場で開く。妹の字だった。
『お姉様は、お父様のことを優先してください。私は大丈夫です』
短い文だった。エレノアは何度も読み返す。私は大丈夫です。扉を開けて、自分の目で無事を確かめたい気持ちはまだ残っている。それでも、取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。今は、妹の言葉を信じるべきなのだと思った。自分が守ることと、相手を信じることは、同じではないのだから。
「分かったわ」
誰にともなく答え、紙を丁寧に畳んだ。別棟の扉は閉じたままだった。エレノアはその扉を開けなかった。妹が自分から呼ぶまで待つ。そう決めて、父のいない本館へ戻った。




