第4話 王都へ
王都へ発つ朝、ヴァルモント城の門前には六台の馬車が並んでいた。姉妹の乗る馬車、侍女と荷物を載せる馬車、王都へ運ぶ書類と贈答品を積んだ馬車。護衛の騎士たちは馬上で列の前後を固め、先頭では父アルマンが家令ギデオンから最後の報告を受けている。九月の朝はもう涼しく、エレノアは薄手の外套を羽織りながら、城門の内側を一度だけ振り返った。灰白色の石壁の上で濃紺の旗が風を受け、銀の鷹と黒い鍵が静かに揺れていた。
「お嬢様」
背後から声をかけたのは、エレノア付きの侍女セシル・バートンだった。二十三歳、すらりとした体つきに焦げ茶の髪をきっちりとまとめている。華美な飾りは好まず、侍女服の袖も仕事の邪魔にならない長さで整えていた。口調は丁寧だが、主人の機嫌よりも実用を優先するところがある。
「こちらを」
差し出されたのは、少し厚手の外套だった。
「まだ寒くないわ」
「王都へ着く頃には夕方になる日もございます」
「リシェルの分は?」
「当然、先に積みました」
「薬は」
「ノエル様が確認済みです」
「毛布は」
「三枚です」
「三枚?」
「お嬢様が五枚積もうとなさいましたので、二枚降ろしました」
エレノアはセシルを見た。セシルも真顔で見返してくる。
「馬車は寝台ではございません」
「寒かったら困るでしょう?」
「その時は一枚追加で買えます。王都まで店が一軒もないわけではございません」
「......そうね」
言われてみれば、確かにその通りだった。少し離れたところで、リシェルがノエルと荷物を確認している。三日前、自分から手伝わないと決めたのだから、エレノアは近づかなかった。ただ、荷車へ積まれた箱の数だけを無意識に数えてしまう。六つ。そのうち一つは書物、細長い箱は冬用の衣服、小さな革鞄は薬と身の回り品。足りている。そう判断してから、エレノアは自分でも少しおかしくなった。手伝わなくても、結局こうして見ているのだ。
「お姉様?」
リシェルが気づいてこちらを向いた。
「何でもないわ」
「そうですか」
妹は小さく笑い、そのままノエルと馬車へ乗り込む。エレノアも後を追った。もちろん、リシェルが選んだのは扉を正面に見られる側の席だった。エレノアは何も言わず、その向かいへ腰を下ろす。ほどなくして列が動き出し、城門がゆっくりと遠ざかっていった。王都アルディオンまでは、一週間余りの道のりだった。
◇
二日目の昼、街道沿いの宿駅で馬を休ませた。ヴァルモント伯領の西端に近い場所で、兵や商人の往来が多い。エレノアが馬車を降りると、荷馬車の車輪を直していた男が帽子を取った。
「伯爵家のお嬢様で?」
「ええ」
「東の道じゃ世話になりました。春に山賊が出た時、伯爵様の兵がすぐ来てくれましてね」
「それはよかったわ」
「あそこは帝国との揉め事も多い。ヴァルモントがいるなら商売は続けられるってもんです」
男はそう言って笑った。近くにいた護衛騎士も、わずかに誇らしげな顔をする。父が聞けば、表情こそ変えなくても悪い気はしないだろう。
しかし宿駅を離れ、さらに西へ進んだ村では、様子が少し違った。馬車が村道を通ると、畑から戻る人々が道の端へ寄る。礼はする。けれど、先ほどの商人のように声をかけてくる者はいない。荷車を引く老人が、ヴァルモントの紋章を見て顔を伏せた。その横で若い男が何かを言い、老人が小声でたしなめる。風向きが変わった瞬間、断片だけが馬車の中へ届いた。
「......去年も道普請で......」
「聞こえるぞ」
「聞かせりゃいい」
それだけだった。エレノアは窓の外を見る。道はよく整っている。雨水を逃がす溝もあり、荷車同士がすれ違えるだけの幅もある。父が何度も補修を命じた道だ。
「気になりますか」
リシェルが尋ねた。
「少しね」
「道普請でしょう」
「聞こえていたの?」
「はい」
妹は窓の外へ目を向ける。
「アスト村の橋を先に直すと、お父様は今朝も仰っていました」
「橋が落ちれば穀物を運べないもの」
「ええ」
リシェルはそれ以上何も言わず、エレノアも続けなかった。父が領地を守っていることは知っている。兵が必要なことも、道が必要なことも分かっている。だがそのために誰がどれほどの時間と労力を差し出しているのかまでは、エレノアは深く考えたことがなかった。馬車は、よく整えられた道を西へ進んでいった。
◇
王都アルディオンが見えたのは、出発から一週間余り後の午後だった。最初に目へ入ったのは、北岸の丘だった。その上に白冠宮の白い壁と尖塔が重なり、その下を大きなルクス川が横切っている。川の南側には赤茶の屋根が密集し、荷車、人、馬、露店の布屋根が途切れることなく続いていた。ヴァルモント城下も人は多いが、規模がまるで違う。王国中の物と人が、一か所へ流れ込んでいるかのようだった。
「久しぶりですね」
リシェルが窓の外を見ながら言った。
「前に来たのは春だったかしら」
「四月です」
「そうだったわね」
エレノアは笑った。妹は日付や数字をよく覚えている。王都の門を抜けると、騒がしさはさらに増した。商業区から橋を渡り、北岸へ入る。白冠大道へ近づくにつれ、建物は高くなり、石壁は白く、行き交う馬車の紋章も見慣れた商家のものから貴族家のものへと変わっていった。
ヴァルモント家の王都邸は、貴族街セント・ヴァールにある。屋敷の門前では、先着していた使用人たちが並んで出迎えた。荷を下ろしている最中、一台の王家の馬車が通りを曲がってきた。白地に金の輪――王家の紋章だった。馬車が門前で止まる。扉が開くより先に、リシェルの顔が少しだけ明るくなった。
「クラリッサ殿下」
降りてきた二十歳の王女クラリッサ・レグナートは、深い青の外出着に細身の扇を持っていた。立ち姿は王女らしく整っているのに、階段を下りる足取りだけは妙に速い。
「リシェル!」
「殿下、外です」
「知っているわ」
そう言いながらも声を落とし、クラリッサはリシェルの手を取った。
「本当に来たのね。王命で呼びつけておいて言うのも変だけれど、嬉しいわ」
「私もです」
リシェルが笑う。エレノアは少し驚いた。妹が人前でこれほど早く笑う相手は、そう多くない。
「エレノア様も、お久しぶりです」
クラリッサがこちらへ向き直り、今度はきちんと王女の礼をする。
「お久しぶりです、殿下」
「長旅、お疲れでしょう。お母様は明日の夕刻に顔を見せてほしいそうです。それまでは休んでください」
「ありがとうございます」
クラリッサは再びリシェルを見た。
「あなたには話したいことが山ほどあるの」
「手紙に書けないことですか?」
「書いたら残るでしょう?」
悪戯っぽく笑い、閉じた扇を指先で三度鳴らす。
「その言い方をすると、ろくな話ではなさそうですね」
「失礼ね」
二人のやり取りを見て、エレノアは自然に微笑んだ。リシェルには、こういう相手も必要なのだろう。自分が隣にいなくても笑える相手が。それは、きっと良いことだ。
◇
翌日の夕刻、姉妹は白冠宮へ上がった。王妃への挨拶を終えたあと、エレノアは別室で王太子レオニス・レグナートと顔を合わせた。幼い頃から何度も見てきた人だ。二十二歳。明るい金髪と青い瞳。式典用の上着を着れば、誰が見ても王子だと分かる華やかさがある。昔から人前で笑うことに慣れていて、誰に話しかける時も相手へ真っすぐ顔を向ける人だった。
「久しぶりだね、エレノア」
「はい。殿下もお変わりなく」
「道中は問題なかった?」
「特には」
「そうか」
短い沈黙が落ちる。領地のこと、本のこと、これから始まる秋の行事。話題ならいくらでもあるはずなのに、今日はどれも口に出なかった。レオニスは一度、右の袖口を整えた。
「伯父上も来ているんだね」
「はい。王都で確認したい書類もあるそうです」
「......そう」
「何か?」
「いや」
レオニスは笑った。いつもの、人を安心させるための笑い方だった。
「しばらく王都にいるんだろう。時間はある」
「ええ」
「また話そう」
「もちろんです」
それで会話は終わった。部屋を出る時、エレノアは一度だけ振り返った。レオニスはまだ同じ場所に立っていたが、こちらを見てはいなかった。疲れているのだろうか。王太子には王太子の仕事がある。エレノアはそう考えるにとどめた。
◇
その夜、ヴァルモント家の王都邸で小さな晩餐が開かれた。大きな宴ではない。王都にいる縁者と、父が仕事で付き合いのある数家を招いただけだった。それでも、エレノアは何度か奇妙な間を感じた。
「東部では、また兵を増やされたとか」
子爵夫人が何気ない調子で言った。
「国境勤務を終えた者の補充です」
「まあ。王都ではずいぶん大きな話になっていますのね」
「大きな話?」
「いえ、噂ですわ」
夫人は笑い、すぐ別の話題へ移った。別の男爵は父へ向かって、冗談めかして言う。
「東には王都より伯爵閣下の号令をよく聞く兵がいる、と聞きます」
アルマンは杯を置いた。
「国境で王都の返書を待っていては、敵は待ってくれん」
「さすがはヴァルモントですな」
男爵は笑った。褒めたのか、皮肉だったのか、エレノアには判然としなかった。少し離れたところでは、若い令嬢たちが声を落として何かを話している。
「王太子妃になられたら、東部の方々も心強いでしょうね」
「ええ。伯爵家の兵まで王宮へ来るみたいで」
「まあ、そんな意味では」
小さな笑い声が立つ。エレノアが目を向けると、会話はぴたりと止まった。令嬢たちは丁寧に頭を下げ、エレノアも会釈を返す。意味が分からないわけではなかった。ヴァルモント家は国境に兵を持ち、自分は王太子の婚約者で、母方から王家の血も引いている。組み合わせれば、気にする者がいても不思議ではない。だが父に王位を望む気はなく、エレノアにもない。レオニスと結婚すれば、いずれ王太子妃として役割を果たす、ただそれだけの話だ。噂とは、事実より大きく膨れ上がるものなのかもしれない。
そう考えていたとき、入口に王宮付きの使者が現れた。宴の空気がわずかに変わる。使者は父アルマンの前まで進み、封書を差し出した。
「ヴァルモント伯爵閣下。明朝、王宮へご出頭ください」
アルマンは封を確かめる。
「用件は」
「東部国境に関する、いくつかの確認事項と伺っております」
「分かった」
父はそれだけ答えた。使者が去ったあとも、アルマンの表情は変わらなかった。
「お父様」
「心配するな。国境の書類など、王都へ来れば毎度のことだ」
「では、明日は私も――」
「必要ない」
即答だった。
「お前は王太子婚約者として呼ばれている。自分の役目を果たせ」
「......はい」
エレノアは頷いた。父がそう言うなら、大したことではないのだろう。テーブルの上では、白い封書だけが、最後まで開かれることなく残っていた。




