第3話 もう大丈夫よ
城下の本屋へ足を踏み入れてから、エレノアは静かに三歩だけ下がった。棚の前では、リシェルが新しく入った戦棋譜を一冊ずつ手に取っている。柔らかな金髪が肩から流れ落ち、頁をめくるたびに淡い青緑の瞳が細かな文字を丁寧に追っていく。盤面図を見つめているときの妹は、普段より少しだけ表情が豊かになる。眉が寄れば気になる手筋があるのだろうし、口元がわずかに緩めば面白い変化を見つけたのだろう。
エレノアには盤上の内容までは分からない。それでも、どれを気に入っているかくらいは、見ているだけで分かるのだった。
「こちらの三冊でしたら、王都でも評判の――」
店主が近づこうとする。エレノアは小さく手を上げて、それを止めた。
「大丈夫です。本人に選ばせてあげてください」
「かしこまりました」
店主が一礼して離れていく。リシェルがこちらを見た。
「お姉様?」
「自分で選びたいのでしょう?」
一瞬だけ、妹の目が丸くなる。
「......はい」
「では、私は待っているわ」
エレノアは窓際へ寄った。父に付けられた四人の護衛のうち、二人は店の外にいる。残る二人も入口付近で待機していた。城下の中心で、店の中まで四人がかりで囲む必要はない。そう思いながらも、エレノアの目は無意識のうちに、店の出入口と奥の勝手口、窓の留め金へと流れていく。どれも問題はなかった。それを確かめてから、改めて妹の姿を眺める。
リシェルはもう、こちらを気にしていなかった。頁をめくり、二冊を比べ、片方を棚へ戻す。その一連の仕草を眺めているだけで、エレノアの胸の奥が、じんわりと温かくなった。自分で選びたい――朝、そう言ったときの妹は、珍しく強い口調だった。ならば、選ばせればいいだけの話だ。そんな単純なことを、どうして今まで思いつかなかったのだろう。
しばらくして、リシェルは一冊の戦棋譜を胸に抱いた。
「これにします」
「決まった?」
「はい。四年前の第三次東方国境紛争を盤上向けに再構成したものだそうです。実際の戦いとは違う配置がいくつかあって――」
「負けた側が、途中で兵を引いているのね」
「はい。勝ち目がない時に兵を残すため、戦場を離れたそうです」
「負けを認めるの?」
「勝つより、盤から降りる方が確実な時もあります」
そこまで言って、リシェルはふと言葉を止めた。隣の棚に置かれた大判の本へ目が吸い寄せられている。狩猟と魔獣についてまとめた古い図録だった。開かれた頁には、黒い獣の木版画が刷られている。大きな狼に似た体軀。長く裂けた口。牙の根元まで黒く塗り込められた、東部の森に棲む魔獣――黒牙獣。
リシェルの指が、戦棋譜の表紙を、ほんの少し強く押さえた。
エレノアはすぐに図録をそっと閉じた。
「これはいいわね」
棚へ戻す。
「お姉様」
「昔のことだもの」
エレノアは笑ってみせた。
「もう大丈夫よ」
言い終えたあと、なぜかリシェルはすぐに返事をしなかった。ほんの一拍だけ、間が空く。
「......はい」
それだけだった。けれど、その短い沈黙が、エレノアの中に古い景色をゆっくりと呼び戻していった。
◇
九年前。まだ母が生きていた頃の、夏の終わりだった。その年、母アウレリアは体調を崩し、城よりも空気の軽い領内の夏館で静養していた。昼過ぎ、エレノアとリシェルは二人の護衛騎士と侍女を連れ、館の近くへ木の実を拾いに出かけた。
「お姉さま、こっちにもあります」
七歳だったリシェルが、木の根元へしゃがみ込んでいた。今よりも短い金髪が頬にかかり、小さな籠の底には赤い実がいくつも転がっている。
「あまり奥へ行ってはだめよ」
「分かっています」
「本当に?」
「お姉さまの方が前に行っています」
言われて足元を見ると、確かにエレノアの方が半歩先へ出ていた。
「......そうね」
リシェルが笑った。エレノアも笑った。あの頃は、ただそれだけで満たされていた。
木々の間から低い唸り声が聞こえたのは、その直後のことだった。護衛騎士の一人がすぐさま剣を抜く。
「お嬢様方、後ろへ!」
茂みが大きく揺れ、黒い塊が飛び出してきた。最初に見えたのは、その口だった。狼よりもはるかに大きな頭。半分近くまで裂けた顎。濡れた牙の根元が、墨を塗ったように黒い。黒牙獣だった。森の浅い場所へは出てこないはずの魔獣だと、後になって聞いた。だがそのときのエレノアには、そんな知識などなかった。
護衛騎士の一人が前へ出る。黒牙獣の前脚が横へ払われた瞬間、金属の弾ける音が響き、騎士の身体が地面を滑って木の幹へ叩きつけられる。もう一人が斬りかかった。剣は肩口の硬い毛に食い込んだところで止まり、獣が首を振ると、あっけなく弾き飛ばされた。
「リシェル!」
エレノアは妹の腕を強く引いた。侍女がリシェルを抱えるようにして後ろへ下がる。黒牙獣の目がこちらを向いた、その瞬間だった。あれほど大きかった獣の身体が、なぜか不思議なくらい単純に見えた。前脚が沈む。次に跳ぶ。口を開けば頭が上がる。その顎の下に、毛の薄いところがある。
そこからなら届く。何に届くのか、十歳のエレノアはまだ名前を知らなかった。ただ、そこへ刃を通せば終わるということだけが、はっきりと分かった。
地面に落ちていた護衛騎士の短剣を拾う。
「エレノア様!」
誰かが叫んだ。黒牙獣が跳んだ。エレノアはたった一歩、前へ出た。大きく振りかぶる必要はなかった。開いた顎の下へ短剣を差し込み、そのまま上へ押し上げる。手応えは、驚くほど軽かった。
黒牙獣の巨体がエレノアの横をすり抜けていき、数歩先で崩れ落ちた。もう動かない。森は静まり返った。エレノアはしばらくの間、死んだ獣をただ見つめていた。怖くはなかった。妹が無事だった。それが何より嬉しかった。振り返る。
「リシェ」
リシェルは侍女の腕の中にいた。怪我はない。よかった、とエレノアは笑った。
「もう大丈夫よ」
手を伸ばす。その手は、黒牙獣の血で赤く濡れていた。リシェルの目が、その手を見つめる。次に、エレノアの顔を見る。そして――一歩、後ろへ下がった。
エレノアの手だけが、行き場を失って宙に残された。
「......リシェ?」
妹は答えなかった。もう一歩、下がる。エレノアは追わなかった。追ってはいけない気がしたのだ。
その日の夕方、父アルマンが夏館へ戻った。負傷した騎士から話を聞き、死んだ黒牙獣を確認し、最後にエレノアの手元へ目を向ける。
「お前がやったのか」
「はい」
「どうやって」
「ここなら死ぬと思ったので」
エレノアは自分の顎の下を指した。父はしばらく何も言わなかった。叱られるのだと、そのときは思った。しかしアルマンが最初に命じたのは、まったく別のことだった。
「今日の件を外で話すな」
護衛騎士と侍女へ向けた声だった。
「黒牙獣を討ったのは護衛だ。報告もそうする」
「お父様?」
「お前はリシェルを守った。それでいい」
父の大きな手が、エレノアの頭に一度だけ触れた。
「間違ったことはしていない」
その言葉に、エレノアは少しだけ安堵した。母アウレリアも、エレノアを責めなかった。夜、母はリシェルの隣に座り、しばらく静かに言葉を交わしていた。
「怖かったのね」
廊下で待っていたエレノアの耳にも、母の穏やかな声がかすかに届いた。
「でも、お姉様はあなたを助けてくれたのよ。それは分かるでしょう?」
しばらくして、小さな声が返った。
「......はい」
やがて、母はエレノアのところへやって来た。
「今日はもう休ませてあげましょう」
「リシェは、私が嫌いになったの?」
母はすぐには答えなかった。
「怖いものを見たばかりなのよ」
「でも、私を見て下がったわ」
「時間が必要なの」
アウレリアはそう言って、エレノアの頬へそっと手を添えた。
「あなたは妹を助けた。それは間違いではありません。ただ、あの子が怖がるようなことは、しばらく見せない方がいいでしょうね」
「そうしたら、元に戻る?」
「きっと」
エレノアは頷いた。簡単なことだと、そのときは思った。怖がらせなければいい。自分に分かることを、全部使わなければいい。壊せる場所が見えても、壊さなければいい。殺せると分かっても、殺さなければいい。そうすれば、また以前のように笑ってくれる。
数日後、リシェルの部屋の扉は閉じられるようになった。それまでは、夜でも少しだけ開けたまま眠ることの多かった扉だ。母は新しい決まりを作った。
「エレノア。リシェルの部屋へ入る時は、必ずノックをして、返事を待ちなさい」
「はい」
エレノアは、それを一度も破らなかった。九年経った今でも。
◇
「お姉様?」
呼ばれて、エレノアは瞬きをした。城下の本屋だった。リシェルが戦棋譜を胸に抱えたまま、こちらを見つめている。
「どうしました?」
「いいえ」
エレノアは、棚へ戻したばかりの魔獣図録から手を離した。
「何でもないわ。決まったなら買いましょう」
「はい」
会計台で店主が本を包み始めたとき、エレノアは棚に残された一冊にも目を向けた。リシェルが最後まで迷っていた方だ。王都へ発ってから欲しくなっても、同じものが見つかるとは限らない。妹が選んだ本を包んでもらう間に、エレノアはそれも買うと店主へ伝えた。
「そちらも、お包みいたしますか」
店主が二冊目を台へ置くと、リシェルの手が止まった。
「それは、戻した本です」
「ええ。後で読みたくなったら困るでしょう?」
「今日は一冊にすると決めたので」
エレノアは頷いた。一冊ずつ読んだ方が落ち着くのだろう。それなら急がせる必要はない。
「今は読まなくていいのよ。こちらは私の分にするから。必要になったら言ってね」
店主の手が、包装紙を折りかけたところで止まっていた。リシェルは台の上の二冊を見比べ、もう一度だけ口を開いたが、何も言わなかった。
「お姉様は、戦棋譜をお読みになりますか」
「あなたの話についていけるくらいには、勉強したいわ」
嘘ではなかった。エレノアは二冊分の代金を置いた。リシェルが選んだ方を妹へ渡し、もう一冊は自分で持つ。リシェルは礼を言ったあと、自分の包みの紐を丁寧に結び直した。ほどけてはいなかったのに、とエレノアは思った。
店を出ると、秋の日差しはいつのまにか少し傾いていた。帰りの馬車の中で、リシェルは自分で選んだ戦棋譜を開いている。扉を正面に見られる、いつもの席で頁をめくっていた。エレノアはもう一冊を膝へ置き、向かいから妹の横顔をそっと眺めた。
「面白そう?」
「まだ最初ですが」
「王都まで持っていく?」
「そのつもりです」
「なら、荷造りの時に忘れないようにしないとね」
「ノエルと準備します」
「私も手伝うわ」
言ってから、朝の言葉を思い出した。自分で選びたい。エレノアは続けようとした言葉を、そっと飲み込んだ。
「......いいえ」
リシェルが顔を上げる。
「お姉様?」
「ノエルと二人で大丈夫なら、任せるわ」
リシェルは、少しだけ目を見開いた。
「その代わり、足りないものがあったら言ってね」
「はい」
返事は短かった。けれど、リシェルの口元がほんの少し緩んだように見えた。
◇
その夜。エレノアは妹の部屋の前に立っていた。王都までの日程を確認するためだ。扉を二度叩き、そして待つ。一つ、二つ、三つ。
「どうぞ」
中から声がして、初めて取っ手に手をかけた。話はすぐに終わった。出発は三日後。荷物はノエルとまとめる。必要なものがあれば、リシェルの方から言う。エレノアはそれを全部聞いてから、静かに部屋を出た。
「おやすみ、リシェ」
「おやすみなさい、お姉様」
扉が閉まる。少しして、内側で鍵のかかる小さな音がした。エレノアは気にしなかった。リシェルが安心できるなら、それでいい。怖がらせない。無理に入らない。必要な時には、必ず守る。九年前から、ずっとそうしてきた。それが妹を大切にするということだと、エレノアは一度たりとも疑ったことがなかった。




