第2話 王都からの召喚状
扉が開き、アルマン・ヴァルモントが入ってきたのは、それからほどなくのことだった。濃紺の上着の胸には、銀の鷹と黒い鍵を組み合わせた家紋が小さく刺繍されている。四十七歳になる父の髪には白いものが混じり始めていたが、背筋は若い騎士のようにまっすぐだった。部屋へ入ってくる足取りにも、娘たちの朝食に遅れた男というより、まだ仕事の途中にいる軍人特有の硬さが残っている。後ろには、ヴァルモント家の家令ギデオン・ファレルが控えていた。
「南倉の鉄材は先に出せ」
着席するより先に、仕事の話が始まる。
「西街道の補修はどういたします」
「三日止めろ。アスト村の橋が先だ」
「王都から期限を切られております」
「橋が落ちれば穀物が運べん。王都への文句は私が聞く」
「承知いたしました」
ギデオンが一礼する。アルマンはそこでようやく娘たちへ目を向けた。
「遅くなった」
「おはようございます、お父様」
「おはようございます」
二人の声が重なる。
「午後、リシェルと城下へ出ます」
エレノアが告げると、父はパンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「護衛は」
「二人を」
「四人連れて行け」
「城下ですよ?」
「近頃は荷馬車の出入りが多い」
「私もいます」
アルマンは一瞬、娘の顔をじっと見た。
「お前がいてもだ」
「......分かりました」
父がそう言うのなら、これ以上逆らうほどの話でもない。リシェルは口を挟まなかった。ただ、膝の上に置いた左手の指を、親指から順に一本ずつ、静かに折っていた。
食事が半ばまで進んだところで、廊下を急ぐ足音が響いた。扉の外で止まり、短いノックが鳴る。
「入れ」
アルマンの声に応じて入ってきたのは、若い従僕だった。両手で一通の封書を捧げ持っている。
「伯爵様。王都より早馬です」
白い封蝋。中央に刻まれているのは、輪を戴く王冠だった。アルマンの目が細くなる。
「今朝か」
「先ほど東門へ」
「寄越せ」
封書を受け取った父は、その場ですぐには開かなかった。裏返し、封蝋を確かめ、差出人の記号を読み取ってから、ようやくエレノアへ差し出す。
「お前宛てだ」
「私に?」
受け取って開くと、王家の印がある正式な召喚状だった。エレノアは最初の数行に目を走らせ、内容を確かめていく。今月中に王都へ参上すること。王太子婚約者として、秋の宮中行事に備えること。そこまでは、さして珍しい話でもない。だが目が、その下の一文で止まった。
「......リシェルも?」
向かいで妹が顔を上げる。
「私ですか?」
「同行するように、と書いてあるわ」
アルマンが手を差し出したので、エレノアは召喚状を渡した。父は黙って最後まで目を通し、紙を食卓へ置く。
「珍しいな」
「クラリッサ殿下のお茶会でしょうか」
リシェルが尋ねる。
「それなら王女殿下本人から招待状が来る」
父の返事は短かった。
「王命でお前まで呼ぶ理由は書かれていない」
リシェルは白い紙をじっと見つめた。
「では、私は残った方がよいでしょうか」
「だめよ」
父より先に、エレノアの言葉が出た。リシェルがこちらを見る。
「王命だから?」
「それもあるけれど」
エレノアは、ごく当然のことを言うつもりで続けた。
「何の用件か分からないのに、あなた一人だけここへ残す方が心配だわ」
「ここはヴァルモント城ですよ」
「ええ」
「お父様も、ギデオンも、兵もいます」
「分かっているわ」
「それでもですか?」
「それでもよ」
答えると、リシェルは黙り込んだ。不満なのかもしれない。けれど王都までの道のりは長く、季節の変わり目でもある。途中で体調を崩すこともあり得るし、王都は領地よりも人の出入りが多い。自分さえ一緒にいれば、少なくとも何か困ったことが起きたとき、すぐに対処できる。
「馬車は揺れの少ないものにしましょう」
「お姉様」
「毛布も多めに。朝晩は冷えるでしょうし、薬も――」
「私は病人ではありません」
言葉が、ぴたりと止まった。リシェルの瞳がわずかに揺れる。自分で声を強めてしまったことに戸惑ったように、すぐに視線を伏せた。
「......申し訳ありません」
「謝らなくていいわ」
エレノアは微笑んだ。
「そうね。最近は熱も出していないものね」
「はい」
「では、薬はいつもの分だけにしましょう」
「......そうしてください」
アルマンが二人を見比べた。
「エレノア」
「はい」
「王都ではリシェルから目を離すな」
「もちろんです」
答えに迷いはなかった。
「リシェル」
「はい、お父様」
「姉の言うことを聞け。王都はここほど安全ではない」
リシェルの指が、膝の上で静かに重なる。
「承知しました」
午後、予定どおり城下へ出ることになった。父の命令で、護衛はいつのまにか四人に増えていた。馬車の前でそれを見たリシェルは何も言わなかったが、エレノアの目には、少し呆れているように映った。
「お父様は心配性ね」
「......そうですね」
「でも、四人なら安心でしょう?」
「お姉様もいらっしゃいますし」
エレノアは笑った。
「ええ」
リシェル付きの侍女ノエル・ファリスが、小さな荷物を馬車へ積みながら二人を見た。きちんとまとめた髪に、皺ひとつない侍女服。身支度にも荷造りにも隙がなく、リシェルの外出となれば、必要な物を一つ多く用意しておくのがいつもの彼女だった。
「エレノア様は、本当にリシェル様のことがお好きなのですね」
「もちろんよ」
迷う理由などどこにもなかった。
「大切な妹だもの」
ノエルが微笑む。
「少し羨ましいくらいです」
リシェルは馬車へ乗り込む前に、一度だけ姉を見た。それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「ええ」
「お姉様は、私のためなら何でもしてくださいますもの」
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
「当たり前でしょう?」
エレノアがそう答えると、リシェルは先に馬車へ入った。座ったのは、扉を正面から見られる側の席だった。昔から、妹はいつもそこを好んで座る。エレノアも向かいへ腰を下ろした。御者が手綱を鳴らし、馬車がゆっくりと動き出す。開いた城門の先には、秋の柔らかな光に満ちた城下町が広がっていた。
王都へ向かうまで、あと数日はあった。エレノアは召喚状のことを頭の隅で考えた。王太子との婚約について、何か正式な話があるのかもしれない。けれどそれよりも今は、向かいに座るリシェルが窓の外を楽しそうに眺めていることの方が、ずっと大切に思えた。
妹はここにいる。手を伸ばせば届くところにいる。エレノアにとって、それ以上に安心できることは、他に何もなかった。




