第1話 お姉様は、なんでもしてくださる
「お姉様。その小刀、食卓で使うものではありませんよ」
エレノアは、リンゴの皮へ当てていた刃をふと止めた。朝の光を受けて、背中まで伸ばした淡い灰金の髪が肩からさらりと流れ落ちる。濃い青灰の瞳を手元へ向けたまま、長身で細身の身体を椅子に預けても、その姿勢はほとんど崩れない。令嬢らしい白い指の中で、飾り気のない小刀だけが、なぜか妙に自然になじんでいた。
「そう?」
「銀のナイフがあります」
向かいに座る妹、リシェル・エレーヌ・ヴァルモントが、皿の横をそっと指差した。十六歳のリシェルは、十九歳の姉よりひと回り小柄だ。柔らかな金髪に朝の光を含ませ、華奢な肩と細い手首のせいで一見頼りなく映るけれど、淡い青緑の瞳は静かによく動き、相手の顔よりも先に、その手元を見る癖があった。
確かに、磨き上げられた果物用の銀器が置かれている。伯爵家の朝食なのだから、わざわざ自前の小刀を使う理由などどこにもない。
エレノアは自分の手元を見下ろした。飾り気のない革柄に、細い鋼の刃。町の刃物屋でも買える、ごく普通の小刀にすぎない。ただ、幼い頃から使い慣れているせいか、上等な銀器よりも、こちらのほうがずっと手になじむのだった。
「でも、こっちの方がよく切れるのよ」
「......そうでしょうね」
リシェルはそう答えると、蜂蜜を落とした紅茶へ静かに口をつけた。エレノアは少し考えてから、結局、小刀を腰の革鞘へ戻す。
「嫌だった?」
「何がです?」
「これを使うの」
問いかけると、リシェルはほんの少しだけ目を丸くした。淡い青緑の瞳が姉の顔へ戻ってくる。
「いいえ。ただ、食卓には食卓の道具があると思っただけです」
「そうね」
エレノアは素直に銀のナイフを取り上げた。刃先をリンゴへ入れる。やはり、思ったとおり切れ味が悪い。力を加えればもちろん切れるが、皮と果肉の境目へ沿わせるには、ほんのわずかに重すぎるのだ。それでも丁寧に八つへ分け、芯を外し、皮を薄く残して皿へ並べていく。
「はい」
「ありがとうございます」
リシェルが一切れ取る。その前に、妹の視線がほんの一瞬だけ、エレノアの腰元へ落ちたのが分かった。革鞘に収まった小刀を確かめたらしい。まだ食卓へ持ち出したことが気になっているのかしら、とエレノアは思った。
ヴァルモント城の朝食室は、家族三人で使うにはいささか広すぎた。長い食卓の上座には父アルマンの席があり、その右手にエレノア、向かいにリシェルが座る。かつて父の左隣にあった母の椅子は、六年前からずっと空いたままだ。父はまだ姿を見せていない。珍しいことではなかった。国境を預かる伯爵の朝は早く、家族との食事より先に片づけるべき仕事は、いくらでもある。
「今日は何をするの?」
エレノアが尋ねると、リシェルはリンゴを飲み込んでから答えた。
「午前中はエドリック先生から送られた課題を。午後は城下へ行こうかと思っています」
「城下へ?」
「新しい戦棋譜が入ったそうです」
「それなら商人を呼びましょうか?」
答えはすぐには返ってこなかった。リシェルの指先が、カップの取っ手に触れたまま、そこで止まっている。
「......いえ」
「見たいものが決まっているなら、全部持ってこさせればいいわ」
「自分で選びたいんです」
少しだけ早口な返事だった。エレノアは瞬きをした。
「ああ。そういうことね」
それなら話は簡単だ。
「一緒に行きましょう」
今度は、リシェルが瞬きをする番だった。
「お姉様も?」
「ええ。午後は書類を見るだけだもの。夜にでもできるわ」
「私のために予定を変えなくても」
「変えるほどの予定でもないのよ」
「ですが――」
「久しぶりに二人で町を見るのも、楽しそうでしょう?」
エレノアが笑うと、リシェルは口を閉じた。しばらく黙り込んでから、小さく笑い返す。
「......そうですね」
「護衛は二人でいいかしら」
「一人でも十分です」
「だめよ」
思ったよりも強い声が出てしまった。リシェルの肩が、わずかに揺れる。エレノアはすぐに声を柔らげた。
「最近、北の街道で野犬が出たと聞いたの。城下まで入ってくるとは思わないけれど、何かあってからでは遅いでしょう?」
「城下町の真ん中ですよ」
「ええ」
「衛兵もいます」
「知っているわ」
「では――」
「だから、二人で十分だと思っているの」
リシェルは何か言いかけたが、結局、カップをそっと置いただけだった。
「分かりました」
エレノアはほっと息をついた。
「ありがとう」
「......お礼を言われることではないと思います」
「そう?」
「はい」
リシェルはもう一切れ、リンゴを取った。窓から差し込む朝の光が、二人の間の食卓を静かに照らしていた。




