↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お姉様は、なんでもしてくださる  作者: 芦名 雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/25

プロローグ


 逃げろ。


 ヴァイス・クローネの頭に残っていた言葉は、それだけだった。

 背後にいるのは、果物の皮でもむくような小刀を握った、十九歳の令嬢ひとりである。


 足が土を蹴る。乾いた街道の砂が跳ねた。


 振り返るな。


 二十年以上、人を殺してきた経験がそう告げている。追う者の位置を確かめるために、わざわざ振り向くなど三流のすることだ。気配を拾い、足音を数え、間合いを測る。それで十分なはずだった。


 だが、足音がしない。

 そのことが何より恐ろしかった。


 ヴァイスは耐えきれず、肩越しに後ろを見た。


 女は走っていなかった。


 背中まで伸びた淡い灰金の髪を風に揺らし、埃に汚れた旅装の裾を踏まないよう、静かに歩いてくる。女としては背が高く、細身の身体は一見すると華奢ですらある。それなのに肩も腰もほとんどぶれず、一歩ごとに重心が地面へ吸いつくようだった。


 濃い青灰の瞳にも、若い令嬢らしい整った顔にも、怒りらしいものは浮かんでいない。


 エレノア・アウレリア・ヴァルモント。


 つい先ほどまで王太子の婚約者だった女。今は地位も権利も奪われ、王国を追われる途中の十九歳の令嬢。


 右手には、短い小刀が一本。飾り気のない革柄に、ごく普通の鋼の刃。暗殺者が使う暗器にも、騎士が佩く短剣にも見えない。


 その刃先から、血が一滴落ちた。


 エレノアの後ろに三人の仲間が倒れていた。


 いや。倒れている、という言い方は正しくない。

 三つの身体は街道に残り、三つの首は少し離れた草の上へ転がっている。


 ヴァイスは奥歯を噛み締めた。


 何をされた。


 分からない。


 それがあり得なかった。


 人間が剣を抜けば肩が動く。踏み込めば腰が沈む。殺す直前には、どれほど隠しても視線か呼吸か指先にわずかな変化が出る。ヴァイスは、そういうものを見て生き延びてきた。


 見えなかったことはない。


 今日までは。


 ほんの少し前まで、仕事は終わったも同然だった。


 標的は高位貴族の令嬢。剣術の基礎を習っているという記録はあったが、実戦経験を示すものはない。しかも一人を始末するために、こちらは十人だった。


 十人も必要かとさえ思った。


 だが、依頼の格が違った。失敗は許されない。標的を確実に仕留め、残すべきでない物を回収し、余計な痕跡を消す。人数はそのためだ。少なくともヴァイスは、そう理解していた。


 だから包囲したときも警戒はしたが、恐れてはいなかった。


 女は逃げなかった。悲鳴も上げなかった。


 腰の小さな革鞘から小刀を抜き、十人をゆっくり見回しただけだった。


「誰が命じたのですか」


 静かな声だった。


 ヴァイスは答えなかった。依頼主を明かさないのは仕事の基本だ。代わりに、標的の心を折ってから終わらせるため、依頼書に添えられていた情報を一つ口にした。


 今にして思えば、あれが余計だった。


 エレノアはしばらく何も言わなかった。怒りもしなかった。泣きもしなかった。


 ただ、小さく息を吐いた。


「そうですか」


 それだけだった。


 魔力が膨れたわけではない。殺気を叩きつけられたわけでもない。構えすら変わっていないように見えた。


 なのにヴァイスの身体だけが、頭より先に動いた。


 後ろへ跳べ。


 理由のない命令が全身を貫いた。ヴァイスは地面を蹴った。


 着地と同時に、何かが落ちる音を三度聞いた。


 振り向いたとき、仲間三人の首が地面にあった。


 その瞬間から、ヴァイスは逃げていた。


「素晴らしいですね」


 背後から声がした。


 近い。


 ヴァイスは足を止め、反射的に短剣を抜いた。


 エレノアは数歩先に立っていた。


「今のをかわすのは」


 褒めているような口調だった。息ひとつ乱れていない。風にほどけた灰金の髪が頬へかかっても、濃い青灰の目はヴァイスから逸れなかった。


 ヴァイスは答えず、仲間へ視線を走らせた。


 残っているのは、自分を含め七人。


 ディートは弩を構え、ミラは袖から細い針を抜いている。オーレンは後方へ下がっていた。残りの三人も、それぞれの武器を向けている。


 全員、場数を踏んだ人間だ。恐慌など起こしていない。


 ディートが先に動いた。


「散れ!」


 短い命令と同時に、七人が別方向へ間合いを取る。


 正しい。一箇所に固まれば、先ほどと同じことになる。


 ミラの針が飛ぶ。別方向から弩の弦が鳴る。二人が正面を塞ぎ、残る者が死角へ回る。何百回と繰り返してきた連携だった。


 エレノアは一歩だけ動いた。


 それで終わった。


 弩の矢は彼女の横を抜けた。正面へ出た男の身体が傾く。その陰から踏み込んだはずのもう一人が喉を押さえた。


 ミラが目を見開く。


 ヴァイスには、小刀がいつ動いたのか見えなかった。見えたのは結果だけだった。


 一人が倒れ、二人目が崩れ、遅れて三人目の武器が街道へ転がった。


「ですが」


 エレノアが言った。視線がヴァイスへ戻る。


「ただそれだけですね」


 三人が倒れる音が、ほとんど重なった。


 ヴァイスは息を止めた。


 六人。

 十人いた仲間のうち、六人がもう動かない。


 残っているのは四人だけだった。


 自分。オーレン。そして左右に一人ずつ。


 勝てない。


 その判断だけは、驚くほど冷静にできた。


「走れ!」


 ヴァイスは叫んだ。誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。


 右側の男が街道脇の林へ飛び込もうとした。

 一歩目で膝から落ちた。


 左の男が剣を振り上げる。

 手から剣が離れ、そのまま腕を抱えて倒れた。


 オーレンは逃げなかった。逃げられなかったのだ。


 青ざめた顔で立ち尽くし、震える手を上げる。


「待て。俺は――」


 最後まで言わせてもらえなかった。


 エレノアが横を通り過ぎた直後、オーレンの片脚が崩れた。


 血は出ている。だが死んではいない。


 右の男も。左の男も。


 ヴァイスはそこで、もっと嫌なことに気づいた。


 三人とも、生きている。


 偶然ではない。


 六人は死んだ。三人は動けないだけだ。そして自分には、まだ刃が触れてすらいない。


 エレノアがこちらを見た。


 穏やかな顔だった。怒りで歪んでもいない。興奮もしていない。食卓で紅茶の温度でも確かめるような目で、ヴァイスと地面の三人を順に見る。


「四人ですね」


 小さく数えた。


 その言葉で、ヴァイスの背中に初めて冷たい汗が流れた。


 殺せなかったのではない。


 六人を殺し、四人を生かした。


 最初から、そう決めていたのだ。


「聞きたいことがあります」


 エレノアは言った。


 ヴァイスは短剣を握ったまま、一歩も動けなかった。


 二十年以上、殺す側にいた。剣士も、魔術師も、騎士も、眠っている相手も、こちらを殺す気で待ち構えていた相手も殺してきた。


 殺せない人間などいないと思っていた。


 間違っていた。


 目の前にいる女は、殺せない相手なのではない。


 もっと悪い。


 自分たちが生きるか死ぬかを、すでに選び終えている相手だった。


 ヴァイスはそのとき初めて理解した。


 この女は、人を殺せない女ではない。


 ただ、殺さずにいただけなのだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。