プロローグ
逃げろ。
ヴァイス・クローネの頭に残っていた言葉は、それだけだった。
背後にいるのは、果物の皮でもむくような小刀を握った、十九歳の令嬢ひとりである。
足が土を蹴る。乾いた街道の砂が跳ねた。
振り返るな。
二十年以上、人を殺してきた経験がそう告げている。追う者の位置を確かめるために、わざわざ振り向くなど三流のすることだ。気配を拾い、足音を数え、間合いを測る。それで十分なはずだった。
だが、足音がしない。
そのことが何より恐ろしかった。
ヴァイスは耐えきれず、肩越しに後ろを見た。
女は走っていなかった。
背中まで伸びた淡い灰金の髪を風に揺らし、埃に汚れた旅装の裾を踏まないよう、静かに歩いてくる。女としては背が高く、細身の身体は一見すると華奢ですらある。それなのに肩も腰もほとんどぶれず、一歩ごとに重心が地面へ吸いつくようだった。
濃い青灰の瞳にも、若い令嬢らしい整った顔にも、怒りらしいものは浮かんでいない。
エレノア・アウレリア・ヴァルモント。
つい先ほどまで王太子の婚約者だった女。今は地位も権利も奪われ、王国を追われる途中の十九歳の令嬢。
右手には、短い小刀が一本。飾り気のない革柄に、ごく普通の鋼の刃。暗殺者が使う暗器にも、騎士が佩く短剣にも見えない。
その刃先から、血が一滴落ちた。
エレノアの後ろに三人の仲間が倒れていた。
いや。倒れている、という言い方は正しくない。
三つの身体は街道に残り、三つの首は少し離れた草の上へ転がっている。
ヴァイスは奥歯を噛み締めた。
何をされた。
分からない。
それがあり得なかった。
人間が剣を抜けば肩が動く。踏み込めば腰が沈む。殺す直前には、どれほど隠しても視線か呼吸か指先にわずかな変化が出る。ヴァイスは、そういうものを見て生き延びてきた。
見えなかったことはない。
今日までは。
ほんの少し前まで、仕事は終わったも同然だった。
標的は高位貴族の令嬢。剣術の基礎を習っているという記録はあったが、実戦経験を示すものはない。しかも一人を始末するために、こちらは十人だった。
十人も必要かとさえ思った。
だが、依頼の格が違った。失敗は許されない。標的を確実に仕留め、残すべきでない物を回収し、余計な痕跡を消す。人数はそのためだ。少なくともヴァイスは、そう理解していた。
だから包囲したときも警戒はしたが、恐れてはいなかった。
女は逃げなかった。悲鳴も上げなかった。
腰の小さな革鞘から小刀を抜き、十人をゆっくり見回しただけだった。
「誰が命じたのですか」
静かな声だった。
ヴァイスは答えなかった。依頼主を明かさないのは仕事の基本だ。代わりに、標的の心を折ってから終わらせるため、依頼書に添えられていた情報を一つ口にした。
今にして思えば、あれが余計だった。
エレノアはしばらく何も言わなかった。怒りもしなかった。泣きもしなかった。
ただ、小さく息を吐いた。
「そうですか」
それだけだった。
魔力が膨れたわけではない。殺気を叩きつけられたわけでもない。構えすら変わっていないように見えた。
なのにヴァイスの身体だけが、頭より先に動いた。
後ろへ跳べ。
理由のない命令が全身を貫いた。ヴァイスは地面を蹴った。
着地と同時に、何かが落ちる音を三度聞いた。
振り向いたとき、仲間三人の首が地面にあった。
その瞬間から、ヴァイスは逃げていた。
「素晴らしいですね」
背後から声がした。
近い。
ヴァイスは足を止め、反射的に短剣を抜いた。
エレノアは数歩先に立っていた。
「今のをかわすのは」
褒めているような口調だった。息ひとつ乱れていない。風にほどけた灰金の髪が頬へかかっても、濃い青灰の目はヴァイスから逸れなかった。
ヴァイスは答えず、仲間へ視線を走らせた。
残っているのは、自分を含め七人。
ディートは弩を構え、ミラは袖から細い針を抜いている。オーレンは後方へ下がっていた。残りの三人も、それぞれの武器を向けている。
全員、場数を踏んだ人間だ。恐慌など起こしていない。
ディートが先に動いた。
「散れ!」
短い命令と同時に、七人が別方向へ間合いを取る。
正しい。一箇所に固まれば、先ほどと同じことになる。
ミラの針が飛ぶ。別方向から弩の弦が鳴る。二人が正面を塞ぎ、残る者が死角へ回る。何百回と繰り返してきた連携だった。
エレノアは一歩だけ動いた。
それで終わった。
弩の矢は彼女の横を抜けた。正面へ出た男の身体が傾く。その陰から踏み込んだはずのもう一人が喉を押さえた。
ミラが目を見開く。
ヴァイスには、小刀がいつ動いたのか見えなかった。見えたのは結果だけだった。
一人が倒れ、二人目が崩れ、遅れて三人目の武器が街道へ転がった。
「ですが」
エレノアが言った。視線がヴァイスへ戻る。
「ただそれだけですね」
三人が倒れる音が、ほとんど重なった。
ヴァイスは息を止めた。
六人。
十人いた仲間のうち、六人がもう動かない。
残っているのは四人だけだった。
自分。オーレン。そして左右に一人ずつ。
勝てない。
その判断だけは、驚くほど冷静にできた。
「走れ!」
ヴァイスは叫んだ。誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
右側の男が街道脇の林へ飛び込もうとした。
一歩目で膝から落ちた。
左の男が剣を振り上げる。
手から剣が離れ、そのまま腕を抱えて倒れた。
オーレンは逃げなかった。逃げられなかったのだ。
青ざめた顔で立ち尽くし、震える手を上げる。
「待て。俺は――」
最後まで言わせてもらえなかった。
エレノアが横を通り過ぎた直後、オーレンの片脚が崩れた。
血は出ている。だが死んではいない。
右の男も。左の男も。
ヴァイスはそこで、もっと嫌なことに気づいた。
三人とも、生きている。
偶然ではない。
六人は死んだ。三人は動けないだけだ。そして自分には、まだ刃が触れてすらいない。
エレノアがこちらを見た。
穏やかな顔だった。怒りで歪んでもいない。興奮もしていない。食卓で紅茶の温度でも確かめるような目で、ヴァイスと地面の三人を順に見る。
「四人ですね」
小さく数えた。
その言葉で、ヴァイスの背中に初めて冷たい汗が流れた。
殺せなかったのではない。
六人を殺し、四人を生かした。
最初から、そう決めていたのだ。
「聞きたいことがあります」
エレノアは言った。
ヴァイスは短剣を握ったまま、一歩も動けなかった。
二十年以上、殺す側にいた。剣士も、魔術師も、騎士も、眠っている相手も、こちらを殺す気で待ち構えていた相手も殺してきた。
殺せない人間などいないと思っていた。
間違っていた。
目の前にいる女は、殺せない相手なのではない。
もっと悪い。
自分たちが生きるか死ぬかを、すでに選び終えている相手だった。
ヴァイスはそのとき初めて理解した。
この女は、人を殺せない女ではない。
ただ、殺さずにいただけなのだ。




