第23話 守るために
王妃マリエルは、窓を背にして座っていた。白冠宮の最奥に近い私室。宴席なら必ず出入口から最も遠い席を選ぶ人だったから、その位置は昔から変わらない。机には翌日の予定表が広げられている。深夜だというのに、王妃は一行ずつ自分の目で確かめていた。
エレノアは扉から入った。
「こんばんは、王妃陛下」
マリエルの指が止まった。驚きは一瞬だった。すぐに紙を閉じ、顔を上げる。
「......エレノア」
「はい」
「衛兵は?」
「眠っていただいています。死んではいません」
マリエルは右手の指輪を一度だけ回した。緊張した時の癖。王太子妃教育を受けていた頃、何度か見たことがある。
「何をしに来たの」
「お話を聞きに」
「ここに来たということは、グレゴールは死んだのね、きっと」
「はい」
「......レオニスは?」
エレノアは少しだけ黙った。
「死にました」
王妃の顔が止まった。
「......誰が」
「私が殺しました」
指輪が、もう一度動きかける。けれどマリエルは途中で指を止めた。
「そう......」
それだけだった。声は崩れなかった。ただ、閉じた予定表の上に置かれた手だけが、白くなるほど強く握られていた。
◇
「《白鞘処分》を確認しました」
エレノアが言う。
「国王陛下の最終承認。あなたの署名。グレゴールの実務統括。《灰鴉》への支払いまで」
「なら、今さら私が否定しても意味はないわね」
「ありません」
「何から聞くの」
「なぜ、私を排除したのです?」
マリエルはしばらくエレノアを見ていた。
「あなたを嫌っていたからではないわ」
「そうなのですか」
「むしろ逆よ」
エレノアは少しだけ眉を動かした。
「あなたは優秀だった。礼法も、領地経営も、外交も覚えが早い。感情を表に出しすぎず、王太子妃として必要なものをほとんど持っていた」
「では、なぜ?」
「持ちすぎていたから」
マリエルは椅子から立ち上がった。
「あなた個人ではない。ヴァルモント家がよ」
王家の血。東部国境軍。代官、軍務官、騎士、商人へ伸びる家臣団の網。
「あなたがレオニスと結婚すれば、それらが全部、王太子の隣に入る」
「殿下の力になるとは考えなかった?」
「最初はそう考えたわ」
「途中で変わった」
「ええ」
マリエルは静かに頷いた。
「力になる家は、いつか主より大きくなることがある」
「父は王位など望んでいませんでした」
「あなたも望んでいなかったでしょうね」
「なら」
「望んでいるかどうかだけで、国家は危険を測れない」
グレゴールとは違う言い方だった。けれど、行き着く場所は似ている。
「レオニスが王になった時、王命とヴァルモント家の意向が衝突したらどうなると思う?」
「その時に考えればよかったのでは?」
「遅いのよ」
即答だった。
「危機は起きてから払うより、起きる前に小さく払う方がいい」
「その小さな代金が、父と私だったのですね」
マリエルは答えなかった。
「リシェルも?」
「違う」
そこだけは、すぐに否定した。
◇
「私の婚約を壊すために、偽の証言を用意しましたね」
「ええ」
「私が軍人と密会しているように見せた」
「ええ」
「父の国境交渉文書を、内通に見えるよう使った」
「グレゴールの案を認めたわ」
「反乱の確証がないことも知っていた」
「知っていた」
マリエルは逃げない。
「それでも、家を潰した」
「ええ」
「私の暗殺も承認した」
少し間があった。
「承認した」
「レオニス殿下にも、私が戻れないようにすると伝えた」
「......あの子から聞いたのね」
「はい」
マリエルの目がわずかに揺れる。
「殿下は止めませんでした」
「あの子に止められる話ではなかった」
「なぜです?」
「王太子だからよ」
「王太子なら、自分の妻になる予定だった人が殺されるのを黙って見ていなければならない?」
「妻ではなくなった後の話よ」
「そういう意味ではありません」
エレノアは一歩だけ近づいた。
「殿下が嫌だと言ったら、やめました?」
マリエルは答えなかった。
「聞かなかったのですね」
「聞く必要がなかった」
「どうして?」
「あの子は迷うから」
マリエルの声が、初めて少しだけ強くなった。
「レオニスは優しい。でも王は、優しいだけでは務まらない。自分が嫌われる判断を、誰かが先にしてやらなければならない時がある」
「息子を守るために?」
「息子だけではない。王朝を守るためよ」
「でも、殿下には選ばせなかった」
「選ばせれば苦しむ」
「だから、あなたが決めた」
「母親でしょう」
その言葉で、エレノアの中に別の声が重なった。
『お姉様は、私のためなら何でもしてくださいますもの』
食事。外出。友人。馬に乗る日。体調。リシェルが困らないように。失敗しないように。怖い思いをしないように。エレノアも、先に決めていた。
「......守る人は、相手に聞かなくてもいいのですか」
自分でも、誰へ向けた問いなのか分からなかった。マリエルが少し目を細める。
「何を言っているの?」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「続けましょう」
◇
「父を殺すことも知っていましたか」
「殺すことまでは知らなかった」
「失脚させたのはあなた」
「そうよ」
「拘束を続けることにも賛成した」
「東部へ戻すわけにはいかなかった」
「でも、毒殺はグレゴールの判断?」
「私が命じたことではない」
グレゴール本人の話とも矛盾しない。
「では、リシェルです」
マリエルの顔が固くなる。
「あの子を殺しましたか」
「殺していない」
「命じてもいない?」
「ええ」
「誰かへ相談した?」
「していない」
「なぜです?」
「なぜ殺さなかったのか、と聞いているの?」
「はい」
マリエルは少しだけ信じられないものを見る目をした。
「必要がなかったからよ」
グレゴールと、ほとんど同じ答え。
「リシェルも王家の血を引いています」
「形式上はね。でも、あの子は病弱で、社交界にもほとんど出ず、軍も家臣団も動かさない」
「病弱ではありません」
「......そうなの?」
グレゴールと同じ反応だった。本当に、知らない。
「クラリッサ殿下と親しかった」
「娘の友人というだけでしょう」
「それだけ?」
「それ以上に見る理由がなかった」
リシェルは、見られていなかった。王宮からも。グレゴールからも。王妃からも。だからこそ、誰にも気づかれない何かがあったのではないか。そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。でも、すぐに消えた。死んだ人間に、何ができるというのだろう。
「9月23日に死亡報告を受けましたね」
「受けたわ」
「どう思いました?」
マリエルは黙った。
「グレゴールは『処分対象が一人減った』と言いました」
「あの男らしいわね」
「あなたは?」
指輪が一度だけ回った。
「驚いた」
「それだけ?」
「......アウレリアの娘が死んだと思った」
エレノアの表情が止まる。母の名。
「母をご存じでしたね」
「義妹ですもの」
「好きでした?」
「好きだったわ」
マリエルは初めて、少し遠くを見るような顔をした。
「だから、あなたたち姉妹を最初から憎んでいたわけではない」
「でも、潰した」
「王妃だから」
エレノアは何も言わなかった。
◇
「なぜ、リシェルの死を私に隠したのです?」
「公開処分の前だったから」
「レオニス殿下からも聞きました」
「なら答えは知っているでしょう」
「あなたの口から聞きたい」
マリエルは小さく息を吐いた。
「あなたが取り乱すと思った」
「だから?」
「予定外の行動を取れば、星冠広場で混乱が起きる。あなたが罪を認めず騒げば、群衆も貴族も動く。東部の者が救出を試みる可能性もあった」
「私は、妹が死んだことすら知らずに追放された」
「必要だった」
「私のために?」
「国のためよ」
エレノアは少しだけ笑った。
「皆さん、よくその言葉を使いますね」
「便利だからではないわ。本当にそう信じているから使うの」
「なお悪いですね」
マリエルの眉が初めて動いた。
「あなたも同じでしょう」
「何がです?」
「守る相手のためなら、自分が悪者になることも受け入れる顔をしている」
エレノアは黙った。
「あなたは、妹を守るためなら何でもしたのでしょう?」
「はい」
「なら分かるはずよ」
マリエルは真っ直ぐエレノアを見る。
「大切な人間が間違った道へ行かないよう、先に道を塞ぐことがある」
クラリッサの言葉が戻った。
『あなたから離れたがっていたことも、忘れないで』
「......でも」
エレノアの声が少しだけ低くなった。
「塞がれた側が、その道を歩きたかったら?」
「子どもは、自分に必要なものを全部は知らない」
「レオニス殿下は二十二歳でした」
マリエルが止まる。
「リシェルは十六歳です」
「何を――」
「私は、リシェルが何をしたいかより、どうすれば心配せずに済むかを考えていたのでしょうか」
王妃へ尋ねたのではない。会計台の上に並んだ二冊の本を思い出していた。一冊でいいと妹は言った。自分は、その言葉を聞いたうえで二冊分の代金を払った。
「エレノア」
「はい」
「今、何を考えているの」
「分かりません」
本当に。
「ただ」
エレノアは王妃を見る。
「あなたの言っていることが、少しだけ分かるのが嫌です」
マリエルの顔が変わった。
◇
「クラリッサは生きています」
エレノアが言った。マリエルの目が見開かれる。
「会ったの?」
「はい」
「殺していない?」
「今は」
「......お願い」
王妃の声が初めて崩れた。
「あの子は暗殺を知らなかった。あなたについて噂を集めたのは私が使ったからよ。責任なら私にある」
「本人も、自分のしたことだと言いました」
「それでも」
「今日は殺していません」
「これからもよ」
マリエルが一歩近づく。
「レオニスはもういない。せめてクラリッサだけは――」
「守りたい?」
「当然でしょう!」
初めて王妃が声を荒げた。
「私の子よ!」
エレノアはその顔を見た。母親の顔だった。王妃ではなく。
「リシェルも、私の妹です」
「だから私は殺していないと言っているでしょう!」
「分かっています」
「なら、なぜ私を殺すの」
エレノアの手が、小刀へ触れた。
「まだ何もしていないわ」
「しました」
「リシェルには何もしていない!」
「私にしました」
マリエルが息を止める。
「父を罪人にするための偽証を用意した」
一歩。
「私がしていない反逆を、しているように見せた」
一歩。
「私を追放した後、殺すことを承認した」
「王朝を守るためよ」
「はい」
エレノアは頷いた。
「あなたはそう思っていた」
「なら――」
「私も、リシェルのためだと思っていました」
マリエルの言葉が止まる。
「だから、分かるのです」
小刀を抜いた。
「守るためだと思えば、何をしてもいいわけではない」
王妃は後ずさらなかった。
「私を殺せば、王朝はさらに壊れる」
「もう壊れています」
「あなたが壊しているのよ」
「そうですね」
エレノアは否定しなかった。
「でも、最初に私たちを壊したのは、あなたたちです」
刃が一度だけ動いた。マリエルの身体が揺れる。倒れる直前、エレノアの腕を掴んだ。
「......クラリッサを」
声が掠れる。
「あの子まで......私たちの罪で決めつけないで」
エレノアは、その手を振り払わなかった。
「分からないままでは、殺しません」
マリエルの指から力が抜ける。床へ崩れた。
◇
王妃の部屋には静けさだけが残った。エレノアは小刀を拭い、鞘へ戻す。レオニス、グレゴール、マリエル。皆に罪があり、父を潰し、自分を殺そうとした。それなのに、リシェルの殺害だけは誰も認めない。しかも否定の内容が少しずつ噛み合っている。グレゴールは処分計画に必要がなかったと言い、レオニスは死亡報告しか知らず、マリエルも自分が命じたことではないと答えた。
一人なら嘘だと思えた。二人でも口裏合わせを疑えた。だが、互いに守る必要のない者たちが別々の罪を認めながら、妹の死だけを同じ方向から否定している。その一致が、エレノアの中で無視できない重さを持ち始めていた。
『リシェルは、あなたを愛していた』
『でも、あなたと同じ部屋では眠れなかった』
そして、今度は王妃の言葉まで重なる。
『大切な人間が間違った道へ行かないよう、先に道を塞ぐことがある』
エレノアは、しばらく窓辺に立っていた。
「......リシェ」
幼い頃から使ってきた呼び方が、口から漏れた。
「あなたは、どこへ行きたかったの?」
答えはない。死んでしまった妹へ、今さら聞いている。それが少しだけ遅すぎる気がした。




