第24話 王として
国王アルベルト三世は、一人で古い反乱記録を読んでいた。白冠宮の王執務室。夜も明けきらない時間だというのに、机の上には即位直後の反乱に関する報告書が開かれている。王の背後には鍵のかかった小箱があった。エレノアは、その箱を知っていた。母アウレリアから届いた手紙を、伯父がしまっていた箱だ。
「昔から、夜にそれを読んでいらしたのですね」
アルベルト三世が顔を上げた。四十九歳。疲れの滲む顔に、驚きは長く残らなかった。
「......エレノア」
「はい。伯父様」
その呼び方をしたのは、何年ぶりだろう。王の目がわずかに動いた。
「マリエルは」
「死にました」
「ではレオニスもか」
「はい」
「当然グレゴールもだな」
「はい」
国王は目を閉じた。ほんの数秒。それから、開いていた反乱記録を静かに閉じた。
「クラリッサは?」
「生きています」
「そうか、ならばすべてを知っているということか」
安堵したようにも見えた。エレノアには、そう見えただけだった。
◇
「《白鞘処分》を最終承認しましたね」
エレノアは机の前に立った。
「うむ」
「反逆の証拠が不十分だと知りながら」
「不十分ではあった」
「それでも」
「承認した」
否定しない。
「なぜです?」
「お前なら、もう分かっているのではないか」
「あなたの口から聞きたいのです」
国王は椅子へ深く座り直した。
「私が即位した直後、二度の反乱未遂があった」
「知っています」
「記録で知っているのと、その場にいたのでは違う」
アルベルトは閉じた冊子へ手を置いた。
「一度目は、野心を持つ貴族が中心だった。分かりやすかった。二度目は違った」
「何が?」
「担がれた王族には、王位を望む意思がなかった」
エレノアは黙る。
「反乱派が欲しかったのは、本人の意思ではない。血だった。王家の血を引く者が一人いれば、それだけで正統性の旗になる」
「私も、そうなると思った?」
「そうだ」
「望んでいなくても」
「むしろ、望んでいないことは安全の証明にならない」
国王の声に迷いはなかった。
「東部軍を動かせるヴァルモント家。その長女で、王家の血を引き、王太子の婚約者。お前自身が反乱を望まなくても、他人が望めば十分だった」
「だから、先に消した」
「そうだ」
「まだ何もしていないのに」
「何かが起きてからでは遅い」
マリエルと同じだった。危機は先に潰す。最悪の可能性を残さない。
「私が王になりたいと思ったことなど一度もありませんでした」
「知っている」
「父が反乱すると言ったことは?」
「ない」
「東部軍が王都へ向かったことは?」
「ない」
「では、あなたが処分したのは」
エレノアは静かに言った。
「私たちがしたことではなく、するかもしれないことですね」
「王は、起きたことだけを裁けばよい立場ではない」
「それで無実の人間を罪人にしても?」
「内戦を避けられるなら、それで国が守れるというのであれば」
その答えで、エレノアは、この人が最後まで王なのだと理解した。
◇
「私の暗殺も承認しましたね」
「した」
「口頭で?」
「グレゴールから最終確認を受けた」
「何と言いました?」
国王は少しだけ考えた。
「国外へ出した後も、ヴァルモント家の旗として利用される可能性は残る。生存を確実に断つ必要がある、と」
「それで?」
「認めた」
「姪を殺すことを?」
初めて、アルベルトの視線がわずかに逸れた。
「王としてな」
「『王として』と言えば、姪を殺す命令も別のものになるのですか」
「別のものにはならん」
「では、なぜそう言ったのです」
「そう呼ばなければ、できなかった」
エレノアは目を細める。
「......何ですって?」
アルベルトは背後の鍵箱を見た。
「お前の母は、私の妹だった」
「知っています」
「アウレリアは、私にだけは王太子でも王でもない話し方をした」
その声だけが、少し遠くなった。
「あれが死んだ時、お前たち姉妹を王都へ引き取ることも考えた」
エレノアは初めて聞いた。
「父が断った?」
「私も、強くは言わなかった。ヴァルモント家の娘は東部で育つべきだと判断した」
「それも王として?」
「ああ」
国王は自嘲したようにも見えた。ただ、口元がほんの少し歪んだだけだった。
「お前を処分対象と呼ばなければ、命令できなかった。姪を殺せとは言えなかった」
「だから名前を変えた」
「国家判断とした」
「結果は同じです」
「分かっている」
「本当に?」
「今、お前がここに立っている。それが答えだろう」
アルベルトはエレノアを見る。
「私が恐れたものを、私自身が作った」
その言葉に、エレノアはすぐ返せなかった。
「ヴァルモント家が反乱の旗になることを恐れて潰した」
「はい」
「その結果、お前が王宮へ戻り、王太子と王妃と宰相を殺した」
「はい」
「予防したはずの内乱より、悪い結果を招いた」
「そうですね」
「だから判断が誤りだった、と言いたいのだろう」
「いいえ」
アルベルトが少し眉を動かした。
「結果が悪かったからではありません」
「では何だ」
「私たちが何もしていない時に、罪人にしたことです」
国王は答えなかった。
◇
「父の死は知っていましたか」
「死んだことは、処分前に報告を受けた」
「毒殺は?」
「その時は知らなかった」
「グレゴールが殺した」
「......そうか」
短い言葉。
「拘束を続けることは、あなたが認めた」
「認めた」
「父が生きて東部へ戻ることを恐れたから?」
「そうだ」
「結果として、グレゴールが殺せる場所へ置いた」
「それを私の殺人と呼ぶなら、否定はしない」
エレノアは少しだけ意外に思った。
「逃げないのですね」
「逃げる場所がない。いや、今更逃げてなんになるというのだ」
国王は窓の外へ視線を向けた。
「息子も、妻も、宰相も死んだ。今さら責任だけ他人へ渡して、何が残る」
「王冠?」
「それも、もう長くは残らんだろう。私は選択を誤ったのだ」
◇
「リシェルを殺しましたか」
国王の視線が戻った。
「殺していない」
「命じてもいない?」
「いない」
「本当に?」
「本当だ」
五人目。グレゴール。レオニス。クラリッサ。マリエル。そして、国王。
「9月23日に死亡報告を受けましたね」
「受けた」
「どう思いました?」
アルベルトはすぐには答えなかった。背後の鍵箱へ、また視線が動く。
「計画外だった」
「それだけ?」
「王としての記録には、そう残した」
「伯父としては?」
長い沈黙だった。
「......また、アウレリアに謝る相手が増えたと思った」
エレノアの胸が、わずかに痛んだ。
「謝る?」
「あれの娘を、一人は自分で追放し、もう一人は守れず死なせた」
「でも、リシェルを殺したのはあなたではない」
「だから責任がないとは思わん」
マリエルとは違う。グレゴールとも。けれど、罪が消えるわけではない。
「なぜ、私にリシェルの死を知らせなかったのです?」
「マリエルの判断を認めた」
「私が取り乱すから」
「そうだ」
「私のためではなく、処分を予定通り進めるため」
「そうだ」
「私の気持ちは?」
「考えなかったわけではない」
「でも、後にした」
「国王だったからな」
また、その言葉。エレノアは不思議と腹が立たなかった。もう答えが分かったから。
「伯父様」
「何だ」
「王でなかったら、どうしました?」
アルベルト三世は、初めてすぐに答えられなかった。
「......分からん」
「そうですか」
「だが、私は王だった」
「はい」
「だから選んだ」
「はい」
エレノアは小刀へ手を置いた。
「なら、その選択の責任も王として取ってください」
◇
アルベルトは立ち上がった。呼び鈴には手を伸ばさない。剣も取らない。
「クラリッサは殺すな」
「今のところ、そのつもりはありません」
「今のところ、か」
「彼女の罪と、あなたたちの罪は分けます」
国王は小さく息を吐いた。
「マリエルも同じことを言っただろう」
「はい」
「あれらしい」
一瞬だけ、王ではない夫の顔に見えた。
「最後に、一つだけ聞いてもいいかエレノア」
「どうぞ」
「お前は王位を望むか」
エレノアは少し驚いた。
「いいえ」
「今でも?」
「今でも、そしてこれからも」
アルベルトは目を閉じた。
「そうか」
「信じます?」
「今ならな」
「遅いですね」
「ああ」
目を開く。
「だが、それでも当時の私なら、おそらく同じ判断をする」
「なぜ?」
「本人が望まなくても、周りが王にしようとするからだ」
最後まで、この人は変わらない。だからこそ、エレノアも迷わなかった。
「では、伯父様」
小刀を抜く。
「さようなら」
「......アウレリアに似たな」
「そうでしょうか」
「頑固なところが」
アルベルトは、ほんの少し笑った。刃が動く。短く。王の身体が崩れた。エレノアは支えなかった。アルベルト三世は床へ倒れ、そのまま動かなくなった。
◇
王が死んだ。部屋は何も変わらない。机の上には古い反乱記録。壁には王国地図。背後には、母の手紙をしまった鍵箱。エレノアは箱へ近づいた。一瞬だけ、開けようと思った。やめた。母が兄へ送った手紙だ。自分宛てではない。
手紙を読む許しは、もう誰にも求められない。エレノアは箱から手を離した。妹についても、嫌がらせるつもりは一度もなかった。それなのに、相手に尋ねる前に「必要だから」と決めたことが、いくつも思い出された。
「......私が、必要だと思っただけなのに」
閉じた箱は、そのままにした。
エレノアは鍵箱から離れる。これで王家中枢の答えはほとんど揃った。父を殺した者、自分を殺そうとした者、家を潰した者は分かった。けれど、リシェルを殺した者だけがいない。
「なぜなの? おかしいわ」
初めて、その事実をはっきり口にした。王宮が妹を殺した証拠がない、というだけではない。王宮側の人間たちは、それぞれ別の罪を認めながら、妹の殺害だけを否定している。グレゴールは死の直前まで。レオニスも、マリエルも、アルベルトも。そしてクラリッサは、リシェルが自分から離れたがっていたと言った。
『遠くへ行って、自分の名前を誰も知らない場所で暮らせたら』
手紙の一行。エレノアは窓の外を見る。夜が明け始めていた。
「......本当に、リシェルだったの?」
自分の口から出た言葉に、自分で止まる。
初めて、エレノアは妹の死そのものを疑った。




