第22話 同じ部屋では眠れない
クラリッサ・レグナートは、眠っていなかった。
王女居住区の私室。夜更けだというのに机の上には手紙が何通も広げられ、本人は窓際の長椅子で一通を読み返していた。手には閉じた扇子。考え込むように、細い指がそれを三度だけ鳴らす。
窓の外へ影が落ちた。クラリッサが顔を上げる。
「......誰?」
返事の代わりに、窓が開いた。エレノアが室内へ入る。クラリッサは息を呑んだ。
「エレノア......?」
「こんばんは、クラリッサ殿下」
扇子を持つ手が固まる。
「どうして、ここに」
「聞きたいことがあります」
「兄様は?」
早かった。エレノアは少しだけ黙った。
「死にました」
クラリッサの顔から色が消えた。
「......何?」
「私が殺しました」
扇子が床へ落ちた。クラリッサは立ち上がった。呼び鈴へ手を伸ばしかけ、止まる。
「呼んでも構いません」
エレノアが言った。
「ただ、今夜ここへ来たのは、あなたを殺すためではありません」
「それを信じろと?」
「信じなくて大丈夫です」
クラリッサはしばらくエレノアを見た。それから落ちた扇子を拾い、強く握る。
「......何を聞きたいの」
「リシェルのことです」
兄を殺した相手が、最初に妹の名を出した。クラリッサの表情が、怒りから困惑へ変わった。
◇
「先に、あなたがしたことを確認します」
エレノアは机の前へ立った。
「私が王太子妃として危険だという噂を集めましたね」
クラリッサは否定しなかった。
「......ええ」
「東部の令嬢や軍人家系との付き合いを、政治的な派閥に見せた」
「ええ」
「私が密かに軍人と会っていた、という証言も用意した」
「それも」
「本当ではないと知っていて?」
クラリッサは唇を噛んだ。
「知っていた」
「なぜ?」
「母上に頼まれたから」
「それだけ?」
「違う」
クラリッサはエレノアから目を逸らさなかった。
「私も、ヴァルモント家が大きくなりすぎていると思っていた。あなたが兄様と結婚すれば、東部軍も、家臣団も、あなたの家の人脈も、そのまま王太子家へ入ってくる」
「だから危険人物にした」
「政治的に、よ」
「同じでしょう?」
「同じではない」
クラリッサは強く言った。
「私は、あなたが怪物だなんて知らなかった」
言ってから、自分で言葉を選び直す。
「......今の意味は、そういう噂を流していないということ。黒樹の森のことも、あなたが何をできるのかも知らなかった」
「それは、もう確認しています」
マリウスも。グレゴールも。記録も。誰も知らなかった。
「私の暗殺は?」
「知らなかった」
「本当に?」
「本当よ」
クラリッサの声が震える。
「私は婚約を壊すところまでだと思っていた。家を解体して、あなたを国外へ追い出す。酷いとは思った。でも......殺すなんて聞いていない」
「レオニス殿下は知っていました」
クラリッサの顔が強張った。
「兄様が?」
「知っていて、止めませんでした」
その事実を飲み込むまでに、少し時間がかかった。
「だから、殺したの?」
「それだけではありません」
「でも、殺した」
「はい」
クラリッサは目を伏せる。
「......兄様は、そういう人だった」
責めるような声ではなかった。むしろ、知っていたことを認める声だった。
「自分で決めるのが怖い人だった」
エレノアは何も言わなかった。
◇
「リシェルを殺しましたか」
空気が変わった。クラリッサが顔を上げる。
「何を言っているの?」
「あなたが最後によく連絡を取っていた」
「友人だったからよ」
「王妃陛下のために情報を集めることもしていた」
「リシェルから?」
「はい」
「していない」
即答だった。
「彼女は友達だった」
「私には偽の証言を用意したのに?」
「だから、同じことをしたと思う?」
「可能性を聞いています」
クラリッサは扇子を一度握りしめた。
「私はリシェルを殺していない」
「誰かに情報を渡した?」
「渡していない」
「別棟の火災は?」
「死亡報告を聞いただけ。火事だと聞いた」
「誰が殺したかは?」
「知らない」
三人目だった。グレゴール。レオニス。クラリッサ。誰も、リシェルを殺していないと言う。
「王宮の誰かでしょう?」
「どうしてそう決めるの」
「父は王宮に殺されました」
「......何?」
「私も殺される予定でした」
クラリッサの口が閉じる。
「その間に、リシェルも死んだ。王宮は二日前から知っていた。それを私に隠した」
「隠すよう言ったのは母上よ」
「知っています」
「兄様から?」
「はい」
クラリッサは目を閉じた。
「私は、知らせるべきだと言った」
エレノアの視線が止まる。
「母上は、あなたが取り乱せば公開処分に支障が出ると言った。会わせてもらえる状況でもなかった。私は......それ以上、逆らわなかった」
「また、何もしなかった」
クラリッサの目が開く。
「そうね」
反論しなかった。
「私も同じよ。兄様を責められないくらいには」
◇
「リシェルは、何を話していました?」
エレノアが尋ねる。
「最後の頃です」
クラリッサはすぐには答えなかった。机の上に広げていた手紙へ視線を落とす。エレノアも見る。見覚えのある筆跡だった。
「リシェルの?」
「ええ」
「読んでも?」
「......嫌だと言っても読むでしょう」
「無理には読みません」
クラリッサが驚いたように顔を上げた。
「そういうところよ」
「何が?」
「あなたは、彼女の嫌がることをしないつもりだった」
「実際、しませんでした」
「そう思っているのね」
エレノアの眉がわずかに動いた。クラリッサは一通の手紙を取った。
「手紙は、この一通だけ?」
「いいえ。春から続いていたわ。九月にあなたたちが王都へ来てからも、屋敷へ何度か送った」
クラリッサは封筒の日付を確かめ、一通だけを差し出した。
「これは春の終わり頃。リシェルから私へ届いたものよ」
エレノアは受け取った。大半は他愛のない内容だった。前の手紙で話題にした王都の菓子、新しい本、春に二人で指した盤上遊戯のこと。見慣れた妹の字が続く中に、一行だけ、ほかとは違う話があった。
『遠くへ行って、自分の名前を誰も知らない場所で暮らせたら』
一行だけ。エレノアの目が止まった。
「どういう意味です?」
「私も聞いた」
「リシェルは?」
「笑ってごまかしたわ。王家もヴァルモントも面倒だから、どこかの町で普通に働いてみたいって」
「働く?」
「帳簿係がいいと言っていた」
エレノアは手紙から顔を上げた。リシェルは帳簿が好きだった。数字を揃えるのも、計算の間違いを見つけるのも。
「冗談でしょう」
「私はそう思った」
「殿下も?」
「王族の血を引く伯爵令嬢が、名前を捨てて帳簿係になるなんて。本気だと思わなかった」
クラリッサは自嘲するように笑った。
「私は、情報を持っていれば人のことが分かると思っていたから」
エレノアは手紙を返した。
「それが、私と何の関係があるのです?」
クラリッサの顔から笑みが消えた。
「あるわ」
「どういう?」
「リシェルは、あなたから離れて暮らしたがっていた」
意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
「......私から?」
「ええ」
「なぜ?」
「私には、ちゃんと分からなかった」
クラリッサは閉じた扇子を、指先で三度鳴らした。
「妹って、姉が何でも先に決めると窮屈なものなのだと思った。服も、出かける場所も、付き合う相手も。だから、よくある姉妹の話だと思っていた」
「私は、リシェルのために決めていました」
「知っている」
「体調を崩さないように。困らないように」
「それも知っている」
「なら」
「リシェルも、そう言っていた」
クラリッサの声が低くなった。
「『お姉様は、私のためなら何でもしてくださいますもの』って」
聞き慣れた言葉だった。何度も。何度もリシェルが言った。嬉しそうに。少なくとも、エレノアにはそう見えていた。
「あの子は私を嫌っていたのですか」
「違う」
クラリッサは即座に否定した。
「そこだけは違う」
「では、何です?」
クラリッサはしばらく黙った。そして。
「リシェルは、あなたを愛していた」
エレノアは動かない。
「でも、あなたと同じ部屋では眠れなかった」
言葉だけが残った。
◇
「意味が分かりません」
エレノアは言った。本当に分からなかった。
「愛しているなら、なぜ怖がるのです?」
「怖がる?」
「今の話は、そういう意味でしょう」
クラリッサは視線を逸らした。
「私は、そこまで分かっていなかった」
「では、違うかもしれない」
「そうね」
クラリッサは否定しなかった。
「でも、一度だけ聞いたことがある」
「何を?」
「私が、あなたのことを少し悪く言った時」
エレノアの目が細くなる。
「何と?」
「過保護すぎるって。妹を子ども扱いしているって」
「リシェルは?」
「怒ったわ」
クラリッサは少しだけ笑った。
「あなたのことを悪く言うなって。本気で怒った」
「なら」
「その後で言ったの」
クラリッサの笑みが消える。
「『でも、一人で決めてみたいこともあるの』って」
エレノアは何も言えなかった。
「私はね」
クラリッサが続ける。
「それを、普通の妹の反抗期みたいなものだと思った。少し距離を置けば、そのうち笑い話になるって」
「違った?」
「今は、分からない」
クラリッサは自分の手紙を見る。
「でも、死ぬ直前まで『遠くへ行きたい』って考えていた子の言葉を、私は軽く扱った」
「死ぬ直前ではありません」
「え?」
「その手紙は春の終わりでしょう」
クラリッサが目を瞬いた。
「......そうね」
「火災は9月です」
「そう」
「何か月も前から、遠くへ行きたいと思っていた」
エレノアは、自分で言ってから黙った。胸の奥に、今までなかった形の違和感が生まれる。王宮から逃げたい。ヴァルモント家から逃げたい。それなら分かる。でも、自分から。
「リシェルは、私がいなくなれば自由になれると思っていた?」
クラリッサが息を止めた。
「そこまでは言っていない」
「でも、離れたかった」
「ええ」
「私を愛していたのに」
「ええ」
「両方?」
「人の気持ちは、一つだけじゃないでしょう」
エレノアには、その言葉がひどく難しかった。
◇
「あなたは、リシェルを殺していない」
しばらくして、エレノアが言った。クラリッサは顔を上げる。
「信じるの?」
「今のところ」
「随分ありがたい言い方ね」
「私について偽の証言を用意したことは事実です」
「ええ」
「でも、暗殺は知らなかった」
「知らない」
「リシェルを殺した証拠もない」
「ないわ」
エレノアは腰の小刀から手を離した。
「では、今日は殺しません」
「今日は?」
「今後、新しいことが分かれば変わるかもしれません」
「......本当に嫌な言い方」
「すみません」
クラリッサは笑わなかった。
「兄様を殺したのね」
「はい」
「グレゴールも」
「はい」
「父上と母上にも会うつもり?」
「はい」
クラリッサの指が白くなるほど扇子を握る。
「殺すの?」
「話を聞いてから決めます」
「兄様にも、そうした?」
「しました」
「それで殺した」
「はい」
クラリッサは長くエレノアを見つめた。
「私は、あなたを許さない」
「そうでしょうね」
「兄様が悪かったとしても」
「はい」
「あなたが正しかったとしても」
「私は、全部が正しかったとは思っていません」
クラリッサの表情がわずかに変わる。
「......何?」
「間違って殺した人もいます」
第一監察官。第二陣。
「だから、今回は聞きました」
クラリッサは何も言わなかった。エレノアは窓へ向かう。
「待って」
振り返る。クラリッサは机の上の手紙を見たまま言った。
「もし、本当にリシェルを大切に思っているなら」
「思っています」
「だったら、あの子があなたを愛していたことだけじゃなくて」
クラリッサは顔を上げた。
「あなたから離れたがっていたことも、忘れないで」
エレノアは答えなかった。窓へ手をかけてから、机に並んだ封筒を振り返った。
「殿下からは、どんなことを書いていたのですか」
「新しい本や、お茶会の話よ。王宮の噂も、少し」
「王宮の?」
クラリッサは扇子の端を見つめた。
「八月には、宰相府の使いが灰門地区の傭兵商会へ通っている、という話も書いたわ。誰かに警備でも頼むのかと思って」
「商会の名は」
「知らなかった。用件もよ。リシェルから、それについて聞き返されたこともない」
八月。《灰鴉》の帳簿で最初の接触を確かめた月だった。けれど、灰門地区の商会がすべて《灰鴉》なのではない。リシェルがその噂を読んで何を考えたのか、クラリッサの手元にある手紙からは分からなかった。
エレノアは窓を開けた。風が机の上へ入り、春の手紙の端を持ち上げる。クラリッサが指で押さえた。
『遠くへ行って、自分の名前を誰も知らない場所で暮らせたら』
手紙の一行が、もう一度頭に浮かんだ。エレノアは窓の外へ出る。次に会うべき相手は王妃だと分かっているのに、白冠宮の屋根を渡る間も、頭から離れなかったのは王妃の名ではなかった。
『あなたと同じ部屋では眠れなかった』
その意味だけが、どうしても分からなかった。




