第21話 従っただけ
白冠宮には、子どもの頃から知っている窓があった。王太子居住区の西側、舞踏の稽古が嫌になった十二歳のレオニスが、一度だけ抜け出した窓だ。あの時のエレノアは庭へ降りた彼を追い、見つかれば二人とも叱られると分かっていながら、少しだけ楽しかった。
十年後、エレノアは同じ窓から白冠宮へ入った。今度は、レオニスに会うために。
◇
王太子の私室には、灯りが残っていた。机の前にいたレオニスが、窓の音で振り返る。金色の髪。青い目。星冠広場で見た時と同じ、誰が見ても王子だと分かる整った顔。けれど。
「......エレノア」
その顔から、血の気が引いた。
「こんばんは、殿下」
エレノアは窓を閉めた。
「どうして......」
「会いに来ました」
「衛兵は」
「殺していません」
レオニスの視線が、エレノアの腰へ落ちる。小刀。すぐに目を戻した。
「どうして、ここに......」
「グレゴールは死にました」
レオニスの喉が動く。
「君が?」
「はい」
しばらく何も聞こえなかった。やがてレオニスが右手で左の袖口を整える。何かを決めなければならない時に必ず出る、昔から変わらない癖だった。
「......座らないか」
「結構です」
「そうか」
レオニスも座らなかった。机を挟んで、二人は向かい合った。
「《白鞘処分》を知っていますか」
エレノアが最初に聞いた。レオニスは答えなかった。
「知っていますね」
「......どこまで知った?」
「父を殺したのはグレゴールです」
青い目が揺れた。
「私を追放した後、《灰鴉》に殺させる計画もありました」
「......ああ」
「国王陛下と王妃陛下の承認も確認しました」
「そうか」
「殿下の署名だけが、暗殺の付記にはありませんでした」
レオニスが息を止める。
「だから、聞きに来ました」
エレノアはまっすぐ彼を見る。
「知っていましたか」
沈黙。
「私が追放された後、殺されることを」
レオニスの右手が、また袖口へ触れた。
「知っていましたか」
「......知っていた」
声は小さかった。
「いつから?」
「星冠広場の前だ」
エレノアは動かなかった。
「どの程度?」
「追放後の移送は、表向きの処分とは別に終わらせると聞いた」
「終わらせる」
「最初は、その意味を聞かなかった」
「最初は?」
「母上に確認した」
レオニスは目を伏せた。
「『国外へ出た後も生かしておくのですか』と」
「王妃陛下は?」
「『王国に戻る可能性を残してはいけない』と」
十分だった。
「殺すと分かった」
「......ああ」
「それでも、何もしなかった」
返事がない。
「殿下」
「分かっている」
レオニスの声が少し強くなった。
「分かっているんだ」
「何を?」
「止めなかったことを」
「なぜです」
問いを受けても、レオニスはすぐには答えなかった。視線を落とした机の上には一冊の本があり、革表紙の間から小さな青い栞がのぞいている。エレノアには見覚えがあった。昔、刺繍の練習で作って贈った、少し歪んだ栞だった。
「まだ持っていたのですね」
レオニスが本を見る。
「......捨てられなかった」
「でも、私のことは捨てた」
レオニスは栞を本の間へ押し戻そうとした。指に布が引っかかり、うまく入らない。エレノアはその手元を見たまま、机の反対側から尋ねた。
「私の家が反逆したという証拠を、本当に信じていたのですか」
「......全部ではない」
「どれを疑いました?」
「毒の購入記録」
「なぜ?」
「ヴァルモント家の使用人名義なのに、支払いの流れが雑すぎた。君の家なら、そんなやり方はしないと思った」
「では、内通は?」
「文書の一部しか見せられなかった」
「疑った?」
「疑った」
「兵員補充は?」
「国境の損耗補充だと、君から以前聞いていた」
「では」
エレノアは少し首を傾げた。
「かなり疑っていたのですね」
レオニスは答えなかった。
「それなのに、星冠広場で読み上げた」
「父上と宰相が確認した」
「自分では?」
「......王太子が、国家の調査機関より自分の感情を優先するわけにはいかない」
「感情?」
「君を信じたいと思うことだ」
「私は、信じてほしかったわけではありません」
レオニスが顔を上げた。
「疑ったなら、調べてほしかっただけです」
「時間がなかった」
「ありました」
「簡単に言うな」
初めて、声に苛立ちが混じった。
「僕の一言で処分を止めれば、王家と宰相府が割れる。東部軍は動くかもしれない。貴族たちは王家が弱ったと見る。もし君の家が本当に反乱を考えていたなら――」
「考えていませんでした」
「今は分かる!」
レオニスの声が響いた。すぐに自分で気づき、声を落とす。
「今は......分かる」
「あの時は分からなかった」
「そうだ」
「だから、父上に従った」
「......そうだ」
「王妃陛下に従った」
「そうだ」
「グレゴールに従った」
「そうだ!」
レオニスは机に手をついた。
「僕は王太子だ。自分だけの判断で国を賭けることはできない!」
エレノアは静かに彼を見た。
「十五歳の時でしたね」
「何が」
「外交晩餐で、殿下が不用意なことを言ってしまった時」
レオニスの顔が強張った。
「陛下に叱られた。『王の言葉は本人だけのものではない』と」
「......覚えていたのか」
「隣にいましたから」
あの日から、レオニスは自分で決める前に、正しい答えを誰かに求めるようになった。
「だから、従えば間違えないと思ったのですね」
レオニスは何も言わない。
「でも」
エレノアは続けた。
「従うことも、殿下が選んだことです」
青い目が揺れた。
「黙ることも」
「......やめろ」
「私が殺されると知っていて、何もしなかったことも」
「やめてくれ」
「全部、殿下が選んだことです」
「分かっている!」
レオニスは叫んだ。その声が消えた後、部屋には荒い呼吸だけが残った。
◇
「リシェルは?」
エレノアが聞いた。レオニスは顔を上げる。
「......何?」
「妹を殺すことも、知っていましたか」
「知らない」
「本当に?」
「本当だ」
「9月23日に、死亡報告は王宮へ届いていました」
「それは知っている」
「誰が殺したのです?」
「知らない」
「王妃陛下?」
「知らない」
エレノアは返事のたびに、レオニスの顔から目を離さなかった。
「国王陛下?」
「父上が命じたとは聞いていない」
「グレゴールは否定しました」
レオニスの表情が変わった。
「グレゴールが?」
「父の殺害も、私の暗殺も認めました。でも、リシェルだけは否定した」
レオニスは考えるように目を伏せた。
「なら......本当に知らなかったのかもしれない」
「あなたも?」
「僕もだ」
「でも、死を知っていて私には教えなかった」
「......処分の直前だった」
「だから?」
「君が何をするか分からないと言われた」
「誰に?」
「母上に」
エレノアの目が細くなる。
「王妃陛下が、私に伝えるなと?」
「そうだ」
「理由は?」
「処分前に感情を乱せば、予定外の行動を取るかもしれない、と」
リシェルの死を隠した。殺したとは、まだ言えない。だが隠したことは、王妃の意思だった。
「クラリッサ殿下は?」
「妹は......リシェル嬢の死を聞いて、かなり取り乱していた」
「クラリッサが?」
「ああ」
少なくとも、レオニスにはそう見えたのだろう。
「二人は手紙を交わしていた。君より、クラリッサの方がリシェル嬢から話を聞いていたこともある」
エレノアはその言葉を覚えた。
「そうですか」
「リシェル嬢のことを知りたいなら、僕より妹に聞いた方がいい」
「そうします」
レオニスは一瞬、安堵したように見えた。少なくともまだ、この会話が終われば自分は生きられると思っている。
◇
「もう一つだけ」
エレノアは言った。
「私が街道で死んだと聞いた時、どう思いました?」
レオニスの顔が止まった。
「......まだ、正式な死亡報告は来ていない」
「予定では、死ぬはずだった」
「そうだ」
「どう思うつもりでした?」
「分からない」
「では、今は?」
レオニスは長く黙った。
「生きていてよかったと思っている」
エレノアは少しだけ首を傾げた。
「本当に?」
「本当だ」
「でも、怖いでしょう」
「......怖い」
正直な答えだった。
「君がグレゴールを殺したと聞いて、今も怖い」
「それでも、生きていてよかった?」
「そう思いたい」
「思いたい」
エレノアはその言葉を繰り返した。レオニスは目を閉じる。
「僕は君を嫌っていたわけじゃない」
「知っています」
「君との婚約も、嫌ではなかった」
「それも」
「だから――」
「だから、殺されるのを黙って見ていても許される?」
「違う!」
レオニスはすぐ否定した。
「そんなことは言っていない」
「では、何を言いたかったのです?」
答えは出なかった。エレノアは腰の小刀へ手を置いた。レオニスの呼吸が止まる。
「エレノア」
「はい」
「僕を殺すのか」
「はい」
「......僕は、君を殺せと命じていない」
「知っています」
「署名もしていない」
「知っています」
「なら」
「知っていて、止めなかった」
レオニスは後ずさった。
「王太子として、従うしかなかった」
「そうですね」
「君なら分かるだろう。家のために、自分の役目を優先することを」
「分かります」
エレノアは静かに答えた。
「だからこそ、分かります」
一歩近づく。
「役目を理由にした選択にも、責任は残ります」
レオニスの手が袖口へ伸びる。いつもの癖。けれど、今度は整える前に止まった。
「......一度でも」
彼が言う。
「一度でも、僕を好きだったか」
エレノアは少し考えた。
「家族になる人だと思っていました」
「それだけ?」
「大切には思っていました」
レオニスの目が少しだけ緩んだ。
「そうか」
「だから残念です」
刃を抜く。
「殿下が、自分で選んでくださらなかったことが」
短い一閃だった。レオニスの身体が傾く。机へ手をつき、ゆっくり床へ崩れた。青い栞が、本の間から落ちた。エレノアはそれを拾わなかった。
◇
窓へ戻る前に、エレノアは一度だけ振り返った。動かないレオニスを見ても、怒りも満足も湧かなかった。代わりに浮かんだのは、ずっと昔の記憶ばかりだった。舞踏の足順を間違えて二人で笑ったこと。庭へ抜け出し、戻る時間が分からなくなったこと。自分が贈った栞を、彼がまだ持っていたこと。好きではなかったわけではない。だからといって、殺されると知りながら黙っていた事実が消えるわけでもない。
エレノアは窓を開け、冷たい夜気を部屋へ入れた。
「なら、誰なの?」
白冠宮の夜風の中で、エレノアは小さく呟いた。今度は、その答えを知っていそうな人のところへ行く。




