第20話 例外
夜の宰相府で、グレゴール・ヴァルゼンは一人、書類を読んでいた。王都の鐘が十一度鳴った後も最上階の執務室には灯りが残り、窓の外から様子を見ていたエレノアは少しだけ意外に思った。
机は乱雑だった。書類の山、開いた地図、封を切られた手紙が隙間なく積まれている。それでも五十八歳の王国宰相の手に迷いはなく、一枚を読み終えるたび決まった山へ戻していく。
グレゴール・ヴァルゼン。父を拘束し、死の直前に監房へ送られた封包を承認し、その死を自害として統一した男。そして、自分を《灰鴉》へ渡した男だった。
◇
「こんばんは」
窓が開いた時、グレゴールは顔を上げた。叫ばない。椅子からも立たない。ただ、エレノアを見た。
「......追放者が、王都へ戻ったか」
「追放された人間なら、普通は国外へ行くものですものね」
「普通ならな」
グレゴールは机の上の書類を閉じた。
「衛兵を呼ばないのですか」
「呼べば間に合うのか?」
「難しいと思います」
「なら、意味がない」
エレノアは室内へ入った。腰の小刀には触れない。
「お話をしに来ました」
「そのために窓から?」
「正面から入れていただけるとは思わなかったので」
「賢明だ」
声には皮肉も怯えもほとんどない。グレゴールはエレノアを名前で呼ばなかった。追放者。処分対象。ヴァルモント家。人ではなく、役割で見る。
「《白鞘処分》」
エレノアが言うと、初めて男の目が少しだけ細くなった。
「どこで知った」
「書類を読みました」
「どの書類だ」
「あなたのものを、いくつか」
「そうか」
それだけだった。
「否定しないのですね」
「既に証拠を見た相手へ否定する意味がない」
「では、確認します」
エレノアは机の前に立った。
「父を殺しましたか」
グレゴールは数秒、黙った。
「伯爵は、国家にとって危険な中心点だった」
「質問と違います」
「分かっている」
「父を殺しましたか」
今度は逃げなかった。
「命じた」
静かな声だった。胸の奥で何かが沈んだ。驚きではない。もう、ほとんど分かっていた。
「毒を?」
「方法の指定まではしていない。拘禁中に処理し、公開処分へ影響を出すなと命じた」
「自害と発表することも?」
「承認した」
「なぜです」
グレゴールは椅子の背へ少しだけ身体を預けた。
「生かしておけば、東部の兵が動く可能性があった」
「父は拘束されていました」
「生きている旗は、牢の中でも旗だ」
「だから殺した」
「そうだ」
言い訳をする気配がない。それが、かえって腹立たしかった。
◇
「では、私も?」
「同じだ」
「《灰鴉》へ依頼した」
「私が手配した」
「盗賊に襲われたことにする」
「そういう計画だった」
「十人も」
「高位貴族の秘密処分だ。護衛を排除し、遺体を確認し、証拠を回収する必要がある。失敗は許されない」
そこにも、自分の強さを知っていた様子はなかった。
「私が十人を殺せるとは、思っていなかった?」
「思っていなかった」
「黒樹の森は?」
「報告に隠し事がある。それだけだ」
「私が何をしたかは?」
「知らない」
迷いのない答えだった。マリウスの《V-17》。決裁原本。グレゴール本人。三つとも同じことを言っている。王宮は、自分の本当の力を知らなかった。
「それでも殺そうとしたのですね」
「力の問題ではない」
「では、何がそんなに怖かったのです?」
グレゴールの眉がわずかに動いた。
「怖い、か」
「違います?」
「言葉の選び方の問題だ」
男は机の上の地図へ視線を落とした。
「王国は、誰か一人が善良だから成り立つべきではない」
「......何の話です?」
「昔、救援を求める村があった」
グレゴールの声は変わらない。
「兵も食料もあった。だが、通すには複数の貴族の承認が必要だった。誰も悪人ではなかった。誰も裏切ってもいない。ただ、それぞれが自分の領地と都合を優先した」
「それで?」
「命令が届いた時には、村は焼けていた」
エレノアは黙った。
「私はそこで学んだ。善良な領主を期待する制度は、制度ではない」
「だから、王都へ全部集める?」
「命令は一つでなければならない」
「ヴァルモント家は、その邪魔だった」
「東部軍は王国軍でありながら、実際には伯爵家の一声で動く。代官も軍務官も商人も、王命より先にヴァルモントの判断を見る」
「国境だからです」
「理由があれば、例外にしていいのか?」
グレゴールは初めて少し身を乗り出した。
「今日だけ。東部だけ。戦時だから。名君だから。英雄だから。そうやって例外は増える」
「父は王国を守りました」
「知っている」
「尊敬していた?」
一瞬。ほんの一瞬だけ、返事が遅れた。
「有能な男だった」
それが、この人なりの答えなのだろう。
「それでも殺した」
「有能だからこそだ」
エレノアは目を細めた。
「あなたは、ずいぶん勝手ですね」
「何がだ」
「例外を嫌うのに、自分は法の外で人を殺す」
グレゴールの顔から、ほんの少しだけ色が消えた。
「国家を守るためだ」
「父も、そう言っていました」
「伯爵と同じにするな」
「どう違うのです?」
「私は家のためではなく、制度のために動いている」
「自分が正しいと思ったことを、決められた手続きを無視して実行した」
エレノアは首を傾げた。
「同じでは?」
グレゴールは答えなかった。
◇
「国王陛下は知っていましたね」
「最終方針を承認した」
「王妃陛下も」
「承認した」
「レオニス殿下は?」
「公開処分については知っていた」
「暗殺は?」
グレゴールは少しだけ考えた。
「私は王太子から暗殺命令を受けていない」
「知っていたかどうかです」
「本人に聞け」
エレノアはそれ以上追わなかった。次。ずっと聞きたかったこと。
「リシェルは?」
初めて、グレゴールが質問の意味を測るように黙った。
「妹君がどうした」
「誰に殺させました?」
「......何?」
「王都邸の別棟」
「火災だろう」
「その火災を起こしたのは誰です?」
「知らん」
「あなたではない?」
「違う」
「では、王妃?」
「知らん」
「国王?」
「知らん」
「クラリッサ殿下?」
「なぜ王女が出てくる」
グレゴールの反応には、少なくとも準備していた答えの滑らかさがなかった。
「リシェルは、あなたたちにとって邪魔だったでしょう?」
「妹君は処分計画の中心ではない」
「ヴァルモント家の娘です」
「だから家門処分の対象ではある。だが、殺害する必要はなかった」
「私にはあったのに?」
「あなたは王太子の元婚約者で、王家の血を引き、次の旗になり得た」
「リシェルも王家の血を引いています」
「妹君に東部軍をまとめる力があると、誰が考える?」
エレノアの目が冷えた。リシェルを知らない。この男は、本当に。
「あなたは、妹をずいぶん低く見ていたのですね」
「病弱で、社交にも積極的ではない次女だ。政治上の優先度が低いのは当然だ」
「病弱ではありません」
「そうなのか」
その程度の反応だった。エレノアは確信した。この男は、リシェルの本当の姿を何も知らない。なら。
「9月23日には、死を知っていましたね」
「報告は受けた」
「どう思いました?」
グレゴールは少し考えた。
「処分対象が一人減った」
空気が止まった。
「......それだけ?」
「政治案件としては」
小刀へ手が伸びかけた。止める。
『分からないままでは、殺しません』
自分で言った。
「《灰鴉》には、リシェルが死んだと伝わっていました」
「依頼資料へ追記させた」
「なぜ?」
「対象の家族状況が変わったからだ。利用できる情報なら利用する」
「私を動揺させるため?」
「それもある」
「では、あなたが殺したのと同じでは?」
「違う」
グレゴールの声が少しだけ強くなった。
「死を利用したことは認める。だが、妹君を殺す命令は出していない」
エレノアは黙った。
「本当に?」
「私が今さら、そこだけ否定して何になる」
父の殺害を認めた。自分の暗殺を認めた。証拠の歪曲も、盗賊偽装も認めた。それなのに、リシェルだけは否定する。
「誰が殺したと思います?」
「知らん」
「王宮ではない?」
「そこまで断言できるほど、私は王宮の全てを知っているわけではない」
グレゴールは机に置いた手を握った。
「だが少なくとも、《白鞘》に妹君の殺害命令はない」
「別の命令なら?」
「知らん」
「あなたが知らないと言えば、妹の死だけはあなたの責任から外れるのですね」
「責任を逃れるために言っているのではない。知らんものは知らん」
◇
エレノアは小刀を抜いた。グレゴールは逃げなかった。
「質問は終わりか」
「一つだけ」
「何だ」
「父を殺したことを、後悔しています?」
グレゴールは目を逸らさなかった。
「しない」
「私を殺そうとしたことは?」
「結果を知った今なら、方法は誤ったと思う」
「私が強かったから?」
「違う」
男はゆっくり首を振った。
「暗殺という例外を使った時点で、制度のためという私の理屈は壊れていた」
エレノアは少しだけ目を見開いた。
「分かっていたのですね」
「今、分かった」
「遅いです」
「そうだな」
グレゴールは机の上の紙へ一度だけ目を落とした。
「だが、伯爵家を放置すべきだったとは思わん」
「最後まで、それですか」
「それが私の仕事だった」
「では」
エレノアは一歩近づいた。
「その仕事の結果を、受け取ってください」
グレゴールの手が机の下へ動いた。呼び鈴。指が触れる前に、エレノアは腕を押さえた。
「誰も呼ばないでください」
「殺すのか」
「はい」
「父親のために?」
「それだけではありません」
エレノアは静かに答えた。
「父を殺した」
「私を殺そうとした」
「罪のない記録をつなぎ替えて、家を反逆者にした」
そして。
「それを、自分だけは国のためだから許されると思った」
グレゴールは何も言わなかった。
「あなたが一番嫌っていた『例外』は、あなた自身だったのですね」
刃が動いた。短く。グレゴールの身体が机へ崩れる。最後に唇が動いた。
「......妹まで、殺す命令は......出していない」
それが、最後の言葉だった。
◇
エレノアはしばらく、その場に立っていた。嬉しくはない。すっきりもしない。父の仇を討った。自分を殺そうとした者も殺した。それなのに、何かが残った。
『妹まで殺す命令は出していない』
「嘘かもしれない」
声に出した。死ぬ直前の言葉だからといって、本当とは限らない。それでも、グレゴールは父の殺害を認めた。エレノアの暗殺も認めた。リシェルの死を利用したことまで認めた。その人間が、そこだけ否定した。
エレノアは机の上の書類を調べた。ヴァルモント家。父。自分。《灰鴉》。王妃。国王。ある。どこを探しても、リシェルの名前だけが、殺害命令の中にはない。火災死亡の報告だけ。
「......なぜ?」
答える者はいなかった。窓の向こうでは白冠宮の灯りが夜の中に浮かんでいる。国王は《白鞘》を承認し、王妃も署名した。レオニスがどこまで知っていたのかは、まだ分からない。
そして初めて、「王宮の誰かがリシェルを殺した」という確信だけが、小さく揺れた。エレノアは血を拭った小刀を鞘へ戻した。
「では、次に聞きましょう」
白冠宮を見た。
「知っている人全員に」




