第19話 白鞘処分
国王の署名は、思っていたより小さかった。
王立文書院の奥。王令控えと枢密案件の写しを保管する石造りの書庫で、エレノアは一枚の紙を見下ろしていた。窓の外はまだ暗い。隣ではアイリス・ウェルデが、息を殺すように別の綴じ紐をほどいている。
宰相府の索引から移管先をたどり、目当ての控えを見つけるまでに、十月も半ばを過ぎていた。表の書庫にあるのは公開用の処分記録ばかりで、機密付記まで揃った束は、奥の別区画に保管されていた。今夜はその保管窓の金具を外し、二人で中へ入った。
「これが原本の控えです」
声も小さい。表題は簡潔だった。
『ヴァルモント家処分に関する最終方針』
その右上に、別の文字で短く記されている。
『白鞘』
「索引の先にあったのは、これなのね」
エレノアは宰相府で写した整理番号を脇へ置いた。アイリスが同じ番号を確かめ、綴じ紐をほどいていく。
「ここからは、最終的に何が承認されたかを見ます。付記も含めて」
エレノアは最初の頁をめくった。父の名。自分の名。ヴァルモント家の紋章。書かれていた理由は、もう見慣れたものだった。王家に連なる血統。東部国境軍への強い影響力。地方官、騎士、軍務官、商人へ及ぶ実務上の支配。王太子との婚姻によって、それらが王宮へ直接入り込む危険。反乱の事実ではない。反乱の可能性だった。
「私が何をしたかではないのですね」
「そう読めます」
「何をするかもしれないか」
「はい」
エレノアは紙をめくった。黒樹の森についても、一行だけあった。
『旧記録V-17に家門による情報秘匿の疑い』
それだけ。魔獣を殺したとは書かれていない。自分が特別な戦力だとも。
「マリウスさんの言った通り」
「少なくとも、この記録では」
アイリスはいつものように余白を残した。エレノアは少しだけ口元を緩めた。
「似てきましたね」
「誰にですか」
「マリウスさん」
「やめてください」
アイリスは本気で嫌そうな顔をした。
◇
二頁目からは、処分の手順だった。アルマン・ヴァルモントの拘束。王太子暗殺未遂、帝国との内通、私兵増強、王位簒奪意図を一つの事件として整理すること。婚約を解消し、ヴァルモント家の爵位・所領・継承権を剥奪すること。
「ここまでは、星冠広場でされたことと一致します」
「ええ」
その下。
『エレノア・アウレリア・ヴァルモントは国外追放』
さらに頁をめくる。そこから紙の色が変わった。同じ綴じ紐に収められているが、端に赤い線が引かれている。
「機密付記です」
アイリスが言った。エレノアは読んだ。
『王都退去後、対象を恒久的に無力化する』
直接「殺害」とは書かれていない。だが、その下にはもっと具体的な指示があった。
『西方移送途上にて護送との接触を切る』
『外部請負を用い、盗賊襲撃として処理』
『対象死亡の確認』
『身元確認に繋がる所持品を回収』
エレノアは最後まで読んだ。
「私を殺す命令ですね」
アイリスは黙った。
「今回は、そう言っていいでしょう?」
「......はい」
その返事は重かった。
「王都を出た後の移送途中に外部の者を使い、死亡を確認し、盗賊襲撃として処理する。別の意味には読めません」
エレノアは紙から目を上げなかった。街道。止まった馬車。死んでいた御者と護送騎士。十人の《灰鴉》。ヴァイスの声が耳の奥で鳴る。
『安心しろ。お前もすぐ、同じところへ送ってやる』
全部、ここから始まっていた。
「請負先の名前は?」
「書いてありません」
「でも、《灰鴉》の帳簿とつながる」
「支払日と仲介経路は一致します」
アイリスが別に作った照合表を置く。《灰鴉》側の帳簿にあった高額依頼の手付金と、宰相府の特別支出。日付と金額が対応していた。アイリスが照合表の端に記された日付を指した。
「最初の接触記録は八月です」
「八月?」
「はい。《灰鴉》側では、その時点で宰相府につながる仲介人との接触が始まっています」
「これなら、グレゴール宰相が《灰鴉》へ依頼したと言えます」
「はい。直接名前を書いた契約書ではありませんが、実務線はかなり明確です」
エレノアは次の頁を見た。そこには、承認欄があった。
◇
一番下。
『最終承認 アルベルト三世』
国王の署名。王璽の押印。エレノアは指で触れなかった。ただ見る。
「陛下は知っていた」
「この付記まで同じ決裁束に入っています」
「つまり、追放だけではなく」
「少なくとも、この文書上は、機密付記を含む最終方針を承認しています」
次。
『王妃承認 マリエル・レグナート』
王妃の署名もある。エレノアは、星冠広場の高壇を思い出した。
『王妃とお呼びなさい』
父の生死を聞いても答えなかった人。リシェルのことを聞いても、誰も教えなかった。
「王妃も」
「承認欄には署名があります」
「暗殺まで?」
アイリスは文書をもう一度確かめた。
「機密付記と同じ束に綴じられ、頁番号も連続しています。承認欄はその末尾です」
エレノアは頷いた。
「なら、知っていたと考えるのが自然ですね」
「はい」
グレゴールの欄は、承認ではなかった。
『実務統括 宰相グレゴール・ヴァルゼン』
証拠集約。拘束。法務手続きへの回付。機密付記の実施。父の死。自分の暗殺。二本の線が、同じ名前へ戻ってきた。
「三人」
エレノアが呟いた。
「国王、王妃、グレゴール」
「この文書で確認できる範囲では」
アイリスが訂正する。
「そうですね」
エレノアは素直に言い直した。
「この文書で確認できる範囲では、三人」
それから、もう一つの名前を探した。
「レオニスは?」
頁を戻す。王太子の署名は、公開処分の書類にはあった。
『婚約解消告知』
『星冠広場における王太子声明』
あの日、自分の前で読み上げた言葉だ。だが。
「機密付記にはありません」
アイリスが言った。
「暗殺を知らなかった?」
「それは言えません」
「名前がないだけ」
「はい。知らなかった可能性も、知っていて署名しなかった可能性もあります」
エレノアは少し黙った。レオニスの顔を思い出す。
『王太子レオニス・レグナートの名において――』
あの長い沈黙。証拠に疑問を抱いているように見えた目。それでも、最後には婚約を切った。
「本人に聞くしかないのね」
「それが一番確実です」
「分かりました」
◇
クラリッサの名前もあった。ただし、場所が違った。
『参考証言・社交記録』
王太子妃としての適性。ヴァルモント家の政治的影響。東部出身令嬢や軍人家系との交友。そうしたものを集めた一覧。
「暗殺の付記には?」
「ありません」
「リシェルのことは?」
「こちらには......」
アイリスが束の後ろから、小さな追補票を見つけた。日付は九月二十三日。
『リシェル・エレーヌ・ヴァルモント、王都邸別棟火災により死亡との報』
短い。その下。
『家門処分への影響なし』
エレノアの手が止まった。
「9月23日」
「はい」
「私が星冠広場へ連れていかれたのは25日」
「そうです」
「二日前には知っていた」
王宮は、知っていた。少なくともこの記録を扱う者は、リシェルが死んだと知っていた。それでも誰も教えなかった。
『リシェルは?』
あの時のざわめき。グレゴールの無表情。王妃の返事のなさ。レオニスの沈黙。
「家門処分への影響なし」
エレノアはその言葉を繰り返した。
「妹が死んでも、これだけ」
「......記録上は」
「誰が殺したかは書いていない」
「はい」
「火災としか書いていない」
「はい」
アイリスはエレノアの顔を見た。
「そこは分けてください」
「分けています」
答えながら、胸の奥では別のものが重なっていた。父は王宮の処分中に拘束され、毒で死んだ。自分は王宮の決裁で追放され、その後《灰鴉》に殺される予定だった。リシェルは同じ時期に死んだとされ、その情報は暗殺者へ渡っていた。一つだけなら、別かもしれない。二つでも。三つ重なると、偶然だと思うのは難しかった。
それでも、エレノアは追補票を元の位置へ戻した。
「まだ、リシェルについては分かりません」
アイリスが少しだけ息を吐いた。
「はい」
「だから、先に分かっている人から聞きます」
「誰ですか」
「グレゴール・ヴァルゼン」
◇
夜が明ける前に、二人は書庫を出た。エレノアは外した窓金具を元へ戻した。
「本当に戻すんですね」
「約束しましたから」
「私、そんな約束をさせました?」
「前に言われました」
エレノアが当然のように答えると、アイリスは目を瞬いた。
「覚えているんですか」
「もちろん」
アイリスは少し複雑そうな顔をした。官庁街の屋根の向こうが、薄く青くなり始めている。
「エレノア様」
「何です?」
「宰相へ会うなら、私を連れていかないでください」
「危ないから?」
「私は戦えません」
「分かっています」
「それと」
アイリスは言いにくそうに続けた。
「私の仕事は、文書が何を言っているかを確かめるところまでです」
「人を殺すところまでは?」
「当然です」
エレノアは頷いた。
「では、ここまでで大丈夫です」
「会うことと、殺すことは別です」
アイリスは言った。エレノアが振り返ると、彼女は渡す控えの端をまだ握っていた。
「私が証拠を確かめたことを、人を殺す理由にはしないでください」
「あなたに決めてもらうつもりはありません」
「それでも、先に言っておきます」
エレノアは頷いた。紙を引き抜こうとはせず、アイリスが手を離すまで待った。受け取った控えには、折れ目が一本残っていた。
エレノアは白冠宮の方角を見た。国王は承認した。王妃も承認した。グレゴールは実行した。レオニスは、まだ分からない。クラリッサは、少なくとも暗殺の文書にはいない。そして、リシェルを殺した者だけが、まだどこにも書かれていなかった。
「まずは、グレゴールですね」
エレノアは静かに言った。今度は証拠を持って、本人に会う。




