第18話 宰相の印
昨夜の控えを机へ並べると、アイリスはまず「宰相府差入」の行を指した。
「『殺せ』という命令だけを探しても、見つからないと思います」
「では、何を?」
「『特別処置』『医務上の必要』『上級官署の指示』。用件を一つに決められない言葉です。薬を渡した人が、何だと思って運んだのかも確かめないと」
エレノアは、鎮静薬一包という記載を見た。父が苦しみ始めた時刻は別の紙にある。二枚を重ねれば疑いは深まるが、運ばれた包みの中身が見えるわけではない。
「どこから持ち出したかを調べるのですね」
「はい。『宰相府』だけでは広すぎます」
「もっと細かく分かる?」
「受け渡し記録が残っていれば」
「残っていなければ?」
「別の記録から穴の形を見ます」
アイリスは当然のように答えた。
「消した記録にも、消した場所は残りますから」
エレノアは少しだけ彼女を見た。
「あなたも、壊れる場所を見るのですね」
「物騒な言い方をしないでください」
即答だった。
◇
宰相府には、薬の帳簿はなかった。少なくとも、表向きの会計簿には。その夜、エレノアとアイリスは再び宰相府の記録室へ入った。正面の衛兵には会わない。裏手の保管窓の金具だけを外し、二人が通れる隙間を作る。
「......本当に壊していませんね」
窓を越えたアイリスが、小声で言った。
「外しただけです」
「普通はそれを壊したと言います」
「戻せますよ?」
「では帰りに戻してください」
「はい」
記録室は暗かった。アイリスは覆いをかけた小さな灯りを机へ置き、棚札を確認していく。
「薬剤購入......違う。官舎備品......違う。特別支出」
薄い綴じ帳を抜く。ページをめくる音だけが続いた。
「ありません」
「何が?」
「9月24日の鎮静薬です。宰相府が買った記録がない」
「記録を消した?」
「まだそうとは言えません。既に保有していた薬なら購入記録は要りません」
アイリスは次の棚へ移る。
「出庫簿を見ます」
今度は、細長い帳面だった。薬。封蝋。書簡紙。官印用の朱。宰相府の内部備品が、一つずつ記録されている。九月二十四日。一行だけ、不自然に空いていた。
「ここ」
アイリスが指さす。前の行は九月二十四日午後。次の行も同日夜。間に、細い刃物で紙の表面を削ったような跡がある。
「消されています」
「読めます?」
「完全には」
アイリスは灯りを横へずらした。紙を斜めから見る。
「でも、筆圧は残っています」
「文字がなくても?」
「強く書けば、下の紙へ跡が移ります」
一枚めくる。その下のページ。光を低く当てると、わずかな凹凸が浮いた。
「......『一包』」
アイリスが読む。
「その前は?」
「『鎮......』。たぶん鎮静薬」
「対象は?」
「そこまでは分かりません」
エレノアは黙った。消された。偶然ではない。
「これを消した人は?」
「出庫簿の管理書記なら分かるかもしれません。でも本人を探す前に、受渡簿を見ましょう」
「なぜ?」
「物を出した側が消しても、受け取った側に残っていることがあります」
アイリスは立ち上がった。
「記録は、一冊だけで完成させない方が安全です」
◇
受渡簿は、同じ部屋にはなかった。宰相執務室に近い、小さな書記室。扉には鍵がかかっていた。エレノアが鍵穴へ手を伸ばす。
「鍵を壊さないでください」
「開けるだけです」
「その違いがまだ分かりません」
小さな音がした。鍵は壊れずに開いた。中には机が三つ。壁際に、日付ごとの受渡記録が並んでいる。九月二十四日。アイリスがすぐに該当冊子を見つけた。夜間欄。
『宰相私室より封包一、王城拘禁区へ』
エレノアの目が止まった。
「宰相府ではなく」
「宰相私室です」
アイリスの声も低くなった。
「持ち出した人は?」
「書記名があります」
その横に、さらに小さな印が押されている。
「これは?」
アイリスは紙へ顔を近づけた。
「確認印です」
「誰の?」
返事が遅れた。
「グレゴール・ヴァルゼン宰相」
エレノアは何も言わなかった。
「本人の印ですか」
「少なくとも、公式に登録されている宰相私印と一致します」
「偽造は?」
「できます」
アイリスはすぐに言った。
「でも、簡単ではありません。印だけなら疑えます。ただ、この受渡簿は書記室に残っていて、出庫簿は同じ時刻の一行だけ削られている。監獄側には同じ夜、宰相府からアルマン伯宛ての薬が届いた記録がある」
エレノアは控えへ宰相の名を書き、そこで筆を止めた。文字だけを見れば、もう本人へ会いに行ける気がする。だが、隣に置かれた持込簿には、封包の中身を確かめた者の署名がなかった。
「ここまで来ても、まだ足りませんか」
「発送に関与したことと、毒殺を命じたことは別です」
アイリスは書記室の入口へ一度目をやった。廊下の足音が遠ざかるのを待ってから、声を落とす。
「本人へ聞く前に、その違いを忘れないでください」
「あなたは何度も確認しますね」
「あなたが確認せずに人を殺すからです」
エレノアは答えなかった。第一監察官。第二陣。マリウスの言葉が戻る。
『あなたは疑うことと、知っていることを混ぜ始めている』
「......では、もう一つ探しましょう」
「何を?」
「父が死んだ後の命令です」
アイリスが眉を寄せた。
「なぜ後を?」
「殺したことより、隠したことの方が書類に残りやすいでしょう?」
今度はアイリスが黙った。
「それは......そうです」
見つかったのは、夜間処理の指示控えだった。死亡した高位拘禁者について、誰へ連絡し、どの部署へ回すか。通常なら法務、家門代理人、聖環教会へ通知が出る。アルマンの欄だけ、別紙参照になっていた。別紙は一枚。
『アルマン・ヴァルモント死亡案件』
その下に、三つの指示。
『親族への通知は公開処分終了まで保留』
『遺体は王宮管理下に置く』
『対外死因は自害として統一』
エレノアの視線が最後の一行で止まった。紙の下部。確認欄。同じ印があった。グレゴール・ヴァルゼン。
「これは」
アイリスが息を呑む。
「死亡後の処理については、宰相本人の確認があると言えます」
「自害として統一することも?」
「はい」
「本当の死因が自害だったなら、わざわざ統一する必要があります?」
アイリスはすぐに答えなかった。
「ないとは言いません。政治案件なら表現を統一することはあります」
エレノアは獄医の記録と、いま見つけた指示を並べた。中毒を疑う診断が残っているのに、対外死因は自害として統一する。その二枚の間を埋める説明は、どこにもなかった。
「薬の発送にも、この指示にも、同じ人の印がある」
「はい。少なくとも、宰相が死後の発表に関わったことは確かです。薬の件も合わせれば、本人に説明を求めるべき証拠です」
アイリスは言い終えても、紙を片づけなかった。エレノアの右手が机から離れるのを見て、その先を目で追った。
「ただし、今すぐ宰相を殺していい、という意味ではありません」
「殺すとは言っていません」
「顔が言っています」
「どんな顔です?」
「ものすごく静かな顔です」
エレノアは少し考えた。
「いつも通りですね」
「それが怖いんです」
アイリスは額を押さえた。
記録室を出る前に、エレノアはもう一度だけ別紙を見た。
『対外死因は自害として統一』
その下には、宰相の印があった。父が最後に家を出た朝、夕食までには戻ると言った声を思い出す。席は空いたままで、冷めた料理を使用人が下げていった。あの約束を果たせなくなった理由が、この紙では「自害」の二文字に押し込められている。
「グレゴール・ヴァルゼン」
名前を口にした。今度は、疑いではなかった。少なくとも父の死について、この男は知っている。そして、隠した。
エレノアは書類の位置を元へ戻した。
「次は何を探します?」
アイリスが聞く。
「《白鞘処分》の決裁原本です」
「......まだ行くんですね」
「父を殺した人が、私も殺そうとしたのでしょう?」
「そこは、既にかなりつながっています」
「なら、最後まで確認します」
エレノアは窓へ向かった。国王がどこまで承認したのか。王妃がどこまで知っていたのか。レオニスが何を見て、何を黙ったのか。まだ、知らないことがある。だから。
「分からないままでは、殺しません」
窓枠を戻しながら、エレノアは言った。アイリスは少し驚いたように彼女を見た。それから、小さく息を吐く。
「その言葉だけは、忘れないでください」
エレノアは答えなかった。ただ、宰相の印が押された紙を、もう一度だけ振り返った。




