第17話 自害
父は、自分で死んだことになっていた。王立文書院の閲覧室。机の上には、アルマン・ヴァルモントの拘禁記録が開かれている。
『拘禁中、死亡』
『死因 自害』
エレノアは、その二行を黙って見ていた。
「いつですか」
声は自分でも驚くほど静かだった。向かいに座るアイリス・ウェルデが、日付を指で追う。
「王暦418年9月24日。夜間です」
追放の前日。星冠広場で王妃に尋ねた。
『父は生きているのですか』
答えはなかった。あの時には、もう死んでいた。
「......そう」
エレノアは紙へ手を伸ばした。
「触らないでください」
アイリスが即座に止める。
「今は?」
「今は特に」
アイリスは椅子から立ち、机の横へ回った。
「この紙、少しおかしいです」
エレノアが顔を上げる。
「どこが?」
「『死亡』までは同じ筆です」
アイリスは紙へ顔を近づけた。指では触れず、灯りの角度だけを変える。
「でも、『自害』は違う」
「字が?」
「字形は似せています。たぶん同じ部署の書記が書いたのでしょう。でも、筆圧が違います」
エレノアには、ほとんど同じ文字に見えた。
「後から?」
「可能性が高いです」
アイリスは別の記録を横へ置く。
「この死亡日時と、この欄は一続きで書かれています。インクの乾き方も同じ。でも『自害』だけ、少し濃い」
「インクが違う?」
「同じ種類です。ただ、別の時間に書いた可能性があります」
アイリスは一度息を吐いた。
「記録そのものは本物です」
「父が死んだことも?」
「はい」
「では、自害だけが」
「後から足された可能性がある」
エレノアはしばらく何も言わなかった。父は死んだ。そこは動かない。だが、自分で死んだかどうかは別だった。
「確かめられますか」
「関連記録が残っていれば」
「探しましょう」
エレノアは立ち上がった。
「今からですか」
「はい」
「......そう言うと思いました」
◇
拘禁者の死亡には、少なくとも三種類の記録が残る。監房側の当直記録。獄医の診療記録。遺体を引き渡した記録。アイリスの説明によれば、重要な囚人ほど書類は増える。
「伯爵位を持つ反逆被告です。しかも王家の姻族。何も残っていない方が不自然です」
「消されている可能性は?」
「あります」
「では、消されていないものを探します」
「簡単に言いますね」
「難しいのですか?」
「難しいから記録官がいるんです」
アイリスは眉間を押さえた。それでも手は止まらない。収監者名簿。夜間当直表。獄医往診簿。厨房の配膳記録。一冊ずつ、日付を合わせていく。
「ありました」
最初に見つかったのは、当直記録だった。
『21:10 収監者アルマン・ヴァルモント、胸腹部の強い苦痛を訴える』
『21:18 嘔吐』
『21:24 獄医を要請』
『21:31 意識混濁』
『21:43 死亡確認』
エレノアは読み終えた。
「これが自害?」
「これだけでは分かりません」
アイリスは次の冊子を開いた。
「獄医記録があります」
そこには、もっと短く書かれていた。
『外傷認めず』
『口腔および衣服に吐瀉物』
『四肢に痙攣』
『急性中毒の疑い』
エレノアの視線が止まった。
「中毒」
「はい」
「毒ですか」
「獄医はそう疑っています」
「では、なぜ自害に」
「まだ分かりません」
アイリスは即答した。
「毒を自分で飲んだ可能性も、今の時点では残ります」
エレノアはアイリスを見る。
「父が?」
「感情ではなく記録で否定してください」
少しだけ腹が立った。でも、正しかった。
「分かりました」
エレノアは配膳記録を引き寄せた。
「では、何を食べたか見ましょう」
◇
アルマンには、一般囚人とは別の食事が出されていた。パン。薄い肉の煮込み。水。特別なものはない。厨房から監房までの受け渡しには、三人の署名がある。調理係。運搬係。当直兵。
「全員、他の囚人と同じ食事を扱っています」
アイリスが言った。
「同じ鍋?」
「記録上は」
「他に具合を悪くした人は?」
「いません」
その日、同じ厨房の食事を食べた囚人に急死者はいない。エレノアは記録をめくった。
「では、監房へ入ってから何か加えられた」
「可能性の一つです」
「また可能性」
「記録官ですから」
アイリスは平然としていた。次に出てきたのは、薬剤の持込簿だった。拘禁中の高位貴族には、獄医が許可した薬だけが持ち込める。九月二十四日。一件だけ、通常の医務室を通していない記載があった。
『宰相府差入』
エレノアの指が止まる。
『鎮静薬 一包』
『対象 アルマン・ヴァルモント』
「これ」
「ええ」
アイリスも表情を変えた。
「普通ですか?」
「普通ではありません」
「誰が持ってきたのです?」
「担当者名がありません」
担当者の名が空白のままの紙を、エレノアはもう一度見下ろした。
「印は?」
「宰相府の受渡印があります」
エレノアは紙を見つめた。《灰鴉》から持ち出した薬箱。底にあった取引印。似ている。
「これと比べられますか」
エレノアは革鞄から、ミラの薬箱を取り出した。アイリスの目が細くなる。
「どこでこれを?」
「《灰鴉》です」
「......聞かなかったことにしたいです」
「お願いします」
「お願いされても」
アイリスは薬箱の底と持込簿を見比べた。
「同じ印ではありません」
エレノアは黙った。
「ただし」
アイリスが続ける。
「同じ系統です」
「どういう意味?」
「ここを見てください」
小さな円の内側に、枝のような線がある。
「宰相府が直接使う受渡印と、外部業者に使わせる取引印。意匠が対応しています」
「つまり?」
「少なくとも、どちらも同じ管理系統から出た可能性があります」
エレノアは薬箱を閉じた。《灰鴉》に毒を渡した線。父の監房へ薬を入れた線。どちらも宰相府へ戻る。偶然とは思えなかった。
「まだ、自害の可能性は残りますか」
エレノアが尋ねた。アイリスはすぐには答えなかった。
「毒を自分で飲んだなら、入手経路が必要です」
「ありますか」
「今のところ、ありません」
「監房を出た記録は?」
「なし」
「面会は?」
「拘束後は弁護側も含めて制限されています」
「持込品は?」
「衣類と筆記具だけ。検査済み」
「では」
「待ってください」
アイリスは最後の一冊を開いた。
「死亡後の処理記録です」
遺体は夜のうちに監獄付属の安置室へ移されている。通常なら翌朝、家族か家門の代理人へ通知が出る。だが。
「通知なし」
「なぜ?」
「備考があります」
アイリスが読む。
『政治案件につき、対外発表まで親族への通知を保留』
「誰の指示ですか」
「欄が空白です」
エレノアは目を閉じた。父が死んだ翌朝。自分は星冠広場に立たされていた。王妃に尋ねた。
『父は生きているのですか』
答えはなかった。知らなかったのではない。少なくとも、王宮のどこかでは父の死を把握していた。それでも、自分には伝えなかった。
「エレノア様」
アイリスの声で目を開ける。
「何です?」
「まだ、グレゴール宰相本人が毒殺を命じた文書はありません」
「分かっています」
エレノアは宰相府の持込印を見た。追えば誰かへ届くはずなのに、紙の上には薬を持ってきた者の名さえない。父を失ったという二行は、これほど簡単に書かれている。その二行に辿り着くまで、誰が何をしたのかは隠されていた。
「では、次の記録を探します」
「どの記録です?」
「この薬を、誰が入れるよう命じたのか。それを確かめたいのです」
アイリスが大きく息を吐いた。
「やっぱり、そこで止まりませんよね」
「止まる理由があります?」
「ありません」
アイリスはそう答えてから、少しだけ後悔した顔をした。
「今のは忘れてください」
「無理です」
◇
夜明け前。エレノアは王立文書院を出た。外套の内側には、アイリスが作った記録番号の控えがある。石畳に朝の冷気が溜まり、踏み出すたびに靴の底から冷えが伝わった。父のことを知ったのに、会いに行ける場所は一つも増えていなかった。
エレノアは歩きながら、右手を握った。悲しいのか、怒っているのか、自分でも、まだよく分からない。父は優しい人ではなかった。命令は短く、間違いを許さず、家族より領地の都合を優先することも多かった。リシェルが嫌がっていることに、気づかないふりをしたこともある。エレノア自身も、父に褒められた記憶より仕事を任された記憶の方が多い。それでも。
「殺していい理由にはならないわ」
誰もいない通りで、そう言った。父が理想の父だったからではない。父が正しかったからでもない。王国が裁判を歪め、父を拘束し、その監房へ宰相府の薬が入り、死は自害とされた。その事実が許せなかった。
次に探すのは、薬の命令者。その線の先には、グレゴール・ヴァルゼンの名前があった。




