第16話 本物の文書、偽物の罪
本物の文書は、偽物より始末が悪かった。
マリウスと別れた翌夜、エレノアは宰相府の記録棟にいた。白冠宮の本殿とは別に建つ、三階建ての石造りの建物である。昼は官吏が絶えず出入りするが、夜半を過ぎれば灯りは急に減る。
裏口の錠は壊さなかった。鍵穴の横、金具が最も薄くなっている一点へ針を差し込み、内部の留めを押す。小さな音だけで扉が開いた。
「鍵だけで済んでよかったわ」
今夜ここにいる書記や衛兵を殺す理由はない。エレノアが知りたいのは、《白鞘処分》を誰がどのように決め、何を根拠に父と自分を反逆者へ仕立てたのか。それだけだった。
マリウスから受け取った異議書の写しには、宰相府の整理番号が残っている。その番号を手がかりに、棚を三列、引き出しを六つ辿った。やがて、赤い紐で束ねられた薄い索引簿が見つかった。
『白鞘処分 関連記録』
その文字を見ても、もう驚かなかった。マリウスの言ったことは本当だったのだ。ページをめくる。伯爵家監視記録、王太子婚約見直し資料、東部兵力報告、反逆審理資料。さらに、王都退去後の「非公開処理」に関する照会番号。直接《灰鴉》の名は書かれていない。しかし、仲介番号の一部が《グレイ商会》から持ち出した帳簿と一致した。偶然ではない。
「本当に、つながっている」
エレノアは指先で番号をなぞった。自分を殺すための暗殺が、宰相府の記録の中に存在する。少なくともそこだけは、もう疑いではなかった。
ただし、索引簿には反逆審理の証拠原本がない。各項目の脇に、保管先が記されている。
『王立文書院 原本照合可』
エレノアは索引簿の必要な番号を紙へ写した。
◇
王立文書院は、王都の中でも火気を嫌う建物だった。厚い石壁。小さな窓。入口には水桶が並び、夜勤の記録官が交代で書庫を見回っている。
エレノアは裏の小扉へ回り、その錠を開けて廊下へ入った。壁の分類札をたどると、反逆審理の原本を収めた書庫の前へ出た。
書庫の錠を見て、少し考える。裏口のものよりも複雑で、先ほど宰相府で開けたものとも違う。古いが、頑丈な仕組みだった。
「仕方ないわね」
小刀の先を差し込み、力のかかる位置を探る。錠そのものではなく、扉側の受け金具へ刃を入れた。わずかに力を加えると、小さな金属音とともに金具だけが外れる。扉にも、石壁にも傷はついていない。
「そこで何をしているんですか」
背後から声がした。エレノアは振り返る。
廊下の角に、一人の女性が立っていた。二十代後半ほど。濃い色の髪を低い位置でまとめ、灰青色の記録官服を着ている。華美な装飾はなく、指先にだけ薄くインクが染みていた。
女性はエレノアを見た。次に、床へ落ちた金具を見る。最後に、開きかけた扉へ目を向けた。
「......受け金具だけですか」
「はい」
「扉は?」
「壊していません」
女性はしばらく黙ってから、眉間を押さえた。
「それを安心していいのか、怒るべきなのか分かりませんね」
「怒る方では?」
「あなたが言うんですか」
「たぶん」
女性は小さく息を吐いた。それから改めて、エレノアの顔を見る。
「エレノア・ヴァルモント様ですね」
「今は、ただのエレノアです」
「......そうでしたね」
今度は訂正されなかった。それが少し意外だった。
「アイリス・ウェルデです。王立文書院の下級記録官をしています」
「エレノアです」
「それは知っています」
「そうですか」
「王都で知らない人の方が少ないと思います」
アイリスの口調は淡々としていた。怖がっているようにも見えない。かといって、歓迎しているわけでもない。何より奇妙なのは、警鐘を鳴らそうとしないことだった。
「衛兵を呼ばないのですか」
エレノアが尋ねると、アイリスは一度だけ開いた扉を見た。
「呼ぶべきでしょうね」
「では?」
「その前に聞きます」
アイリスの表情から、わずかな呆れが消えた。
「何を探しているんですか」
「私の反逆裁判に使われた証拠の原本です」
返事は、すぐにはなかった。アイリスの視線がエレノアから外れる。その先には、開きかけた書庫の扉がある。
「......やっぱり」
小さな声だった。エレノアの目が細くなる。
「何か知っているの?」
アイリスはしばらく答えなかった。指先についたインクを、親指でゆっくりこする。
「知っている、とは言えません」
「では?」
「おかしいと思っていた記録があります」
エレノアは何も言わなかった。アイリスが続ける。
「反逆審理に提出された写しを整理したことがあります。正式な手続きを踏んでいました。紙も、印も、整理番号もおかしくない」
「なら、何が?」
「綺麗すぎるんです」
「綺麗?」
「反逆事件の証拠なのに、迷った跡が一つもない。訂正も、異議も、照会もない。最初から最後まで、誰も疑わなかったように揃っている」
アイリスは書庫の奥へ目を向けた。
「だから一度、原本を確かめようと思いました」
「確かめたの?」
「下級記録官には、勝手に開けられない書庫です」
もう一度、アイリスの目が床の金具へ落ちた。
「あなたは開けてしまいましたけど」
「はい」
「認めるのが早いですね」
「見ていますから」
「そうでした」
アイリスは額へ指を当てた。だが、今度はすぐに顔を上げた。
「協力します」
エレノアはわずかに目を見開いた。
「いいの?」
「よくありません」
「では、なぜ?」
「記録官だからです」
答えは迷いなく返ってきた。
「記録がおかしいなら、確かめます。それが誰にとって都合が悪くても」
アイリスはエレノアの横を通り、外れた金具を拾い上げた。
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「原本には、私の許可なく触らないでください」
「分かりました」
「綴じ紐を切らない。頁を折らない。順番を変えない。持ち出さない」
「分かりました」
「あと」
アイリスは手の中の金具を見た。
「これ以上、文書院の備品を壊さないでください」
エレノアも金具を見る。
「できるだけ」
「そこは『はい』と言ってください」
「はい」
アイリスは一度だけ深く息を吐いた。
「......こちらです」
そのまま、書庫の奥へ歩き出した。最初に出されたのは、父アルマンの国境交渉記録だった。エレノアは一度見た文書である。反逆審理では、この一部が「帝国への軍事情報提供」とされた。アイリスは原本を机へ置き、その横へ裁判用の写しを並べた。紙を指で撫で、端を持ち上げ、光へ透かす。
「どちらも本物の紙です。原本から写した時期も、審理の直前で矛盾しません。封蝋も法務院のものです」
「では、本物なの?」
「文章そのものは」
アイリスは裁判用の写しの中央を指した。
「ここだけ読めば、『東部の補給状況を帝国へ通知した』になります」
「その前は?」
「捕虜交換の護衛人数を揃えるための説明です。その後は、交換日時と通行門の指定」
エレノアは原本を見る。父の文章だった。帝国側と捕虜を交換するにあたり、互いに過剰な兵を連れて誤解を生まないよう、東門に配置できる人数と補給予定を知らせている。
「嘘は書いていない」
「はい」
「でも、意味が違う」
「はい」
アイリスは淡々と答えた。
「偽造なら、紙か印か筆跡に痕跡が残ります。でもこれは、必要な部分だけを切り出している。元の文章が本物だから、見た人は疑いにくいんです」
次は兵員補充記録。王都で見せられた数字と同じだった。春に百二十名。夏に八十名。だが原簿の脇には理由がある。勤務満了、負傷、退役、死亡。どれも欠員補充として処理されていた。
「増員ではありません」
アイリスが言った。
「定数を超えた記録は?」
「この原簿にはありません。ただし、王都の事前承認を待たず補充した回数は多いです」
「父ならそうするわ」
「規則違反ではあります」
「ええ」
エレノアは否定しなかった。父は国境で王都の返書を待つ人ではない。必要なら先に動く。そこは事実だった。
「だから、『王命を無視して兵を増やした』と書けたのですね」
「そうです」
事実を一つ変える必要すらない。順番と見出しだけを変えれば、忠実な記録が反逆の証拠になる。
◇
毒物購入記録は、さらに厄介だった。商人の受注控えそのものは本物だった。購入された毒物も実在し、代金も支払われている。名義欄には、確かにヴァルモント家の薬草庫に勤める下級使用人の名がある。
「この人は王都へ来ていません」
エレノアが言う。
「それを証明する出納記録もあります」
アイリスは別の紙を出した。
「同じ日の領内勤務簿。本人の署名もあります。ですが審理資料には添付されていません」
「購入記録だけを出した」
「そういうことです」
「では、誰が名前を使ったかは?」
「この資料だけでは分かりません」
アイリスは即答した。
「分からないことは、分からないと言うのですね」
「記録官なので」
少しだけ、マリウスに似ている。エレノアは机の上を見渡した。国境交渉文書。兵員補充記録。毒物購入控え。王家の血統表。全部、本物だった。偽物なのは、そこから作られた罪だけだった。
「ずいぶん上手に作ったのね」
「......はい」
アイリスの声が少し小さくなる。
「あなたは、前から気づいていたの?」
アイリスは黙った。
「少しだけ」
「少し?」
「原本照合を頼まれた時、文書同士のつながり方が不自然だと思いました。でも、私の仕事は原本が存在するか確認することでした。内容の解釈へ口を出す立場ではありません」
「だから黙った」
「はい」
アイリスはエレノアから目を逸らさなかった。
「職を失うのが怖かったです」
「そう」
「怒らないんですか」
「怒っています」
「見えません」
「怒ると静かになるので」
アイリスの顔が少し引きつった。
「その情報、今聞きたくなかったです」
エレノアは裁判用の束を手に取った。各資料の最後に、整理印と審査印がある。法務院。宰相府。そして最終審理へ回された日付。
「この法務院の印は?」
「反逆審理の法的整理を担当した部署です。最終責任者は法務卿オズワルド・ケイン」
「オズワルド・ケイン」
エレノアはその名を頭に置いた。ただし、署名だけで殺す相手へ加えるつもりはなかった。
「ただし」
アイリスがすぐ付け足した。
「署名があることと、すべての企てを知っていたことは同じではありません」
「マリウスさんと同じことを言うのね」
「記録を扱う人間なら、普通です」
「王宮では珍しいと思っていました」
「それは否定できません」
アイリスはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
◇
「父の記録もありますか」
エレノアが尋ねると、アイリスの笑みが消えた。
「アルマン・ヴァルモント伯の拘禁記録ですか」
「はい。私は、追放されるまで一度も会わせてもらえませんでした」
アイリスは返事をせず、棚へ向かった。分類札を確認する。拘禁者。反逆審理。王宮移送。数分後、薄い記録束を抱えて戻ってきた。
「これです」
エレノアは最初のページを開いた。事情聴取開始。面会制限。食事搬入。医師確認。一行ずつ追う。途中で、記録が短くなった。
『拘禁中、死亡』
エレノアの指が止まった。その下。
『死因 自害』
しばらく、何も聞こえなかった。
「......いつ?」
アイリスは記録の日付を見る。
「あなたの追放宣告より前です」
星冠広場を思い出す。
『父は、生きているのですか』
王妃は答えなかった。
『今は、あなた自身の処分を聞きなさい』
あの時には、もう。
「知っていたのね」
エレノアは記録を見つめたまま言った。アイリスは何も答えなかった。答えられる記録が、そこにはなかった。父は、死んでいた。




